エターなるオンプテ小説(4/4)

 最後である。

 余談ではあるけれど、当時ポケモンの固有名詞を恥ずかしがってか、アルファベットの頭文字だけで表記していた。黒歴史だしそのままでもいいかと思ったが、さすがにもしこれを読むような人に解読の労までかけさせるわけにもいかないし、まあちゃんと名前を書き換えたわけである。とはいえ、見落とし表記は御免。

 これについてのコメントやら反省やら感想やらは後で書きます……

 

 52

「おお、ご無沙汰じゃないかい、兄貴」
「そうだったかね?」
「そりゃずいぶんの山ごもりで」
「ふむ」
「兄貴と私じゃ、時間の感じ方が違うからねえ。こっちの一日が、かしこじゃあ一年だ。兄貴なら、ジラーチにだってきっと会えちまうさ、願い事がいくら叶うかしれんね」
「湯はどうだい」
「ええ、ええ、ばっちりですよ、石炭は十分に摂ったんでね、まったく、神々もご照覧あれ、この噴き出す煙! って調子でして」
「じゃあ、温まろうか・・・・・・うむ、やはり久々に浸かる湯はよきかな・・・・・・」
「喜んでいただけて、嬉しゅうござい、ですなあ」
「して、わしが来るのはいつぶりだったか」
「んーっと、だねえ・・・・・・ああ、兄貴、プテラって子のこと、覚えてます?」
「ん、今、思い出した」
「その子が、オンのお遣いで来たとき、たまたま兄貴が温泉に浸かってたでしょう、それ以来ですな」
「そうだそうだ、確か、のぼせてしばらく伏せってしまっていたな・・・・・・」
「湯加減はちょうどいいですかい」
「結構結構」
「肩、お揉みしましょうか?」
「いや、結構」
「結構毛だらけ猫灰だらけ、お尻の周りはクソだらけっ、とな」
「その間に、何か変わったことはあったか」
「ええ、ええ。うちんとこの食料を管理してるカクレオンと、世間話をしたんですが」
「ふむ」
「しかしねえ・・・・・・これが、もう、面白くて、私にしちゃあ爆笑もんだ」
「何がだ」
「連絡自体は他愛ない情報交換ですよ。ただ、彼からオンのとこの近況ってやつを聞かされたんですよ。何だったと思います? ペラップが風邪を引いた、って言うんだ! はっはっはっは!」
「それが何故面白いのか」
「分かるんですな、風邪を引いたペラップってのが、いわゆる隠語ってことが、私には、経験上。あいつとは、なかなか長い付き合いがあるもんだから、傾向と対策ってもんは、一通り学んだつもりでいまして。なぜならばです、ペラップがぐずっている時にゃ、風邪を引いたと言い張って引きこもることが、往々にしてありまして、経験則で」
「それはつまり?」
「畢竟ね、誰かとのゴタゴタに決まってらあ。今回は、間違いなくオンの奴と喧嘩したってことですか。原因だって、すぐ分かる。どうせ、あの子の扱いを巡ってのもんでしょうよ。こないだここで喋ったときの様子からも、なんとなく察せられましょう。ペラップがかりかりしているのが目に浮かぶようだ」
「そういうものか」
「ええ」
「・・・・・・ああ、たまらんの」
「実のところ、彼には可愛いところがありまして。語弊を恐れずに言やあ、オンと似たもの同士とでも言いますか。まあ、さすがにペラップのことは、あまりからかいはしませんさ。私だって、一応弁解はしときますが! 卑劣漢じゃございやせんからね」
「ところで、オンの縄張りを荒らす者がいるという話は、どうなった」
「・・・・・・」
「ほれ、いつかオンがここへ来たときに。ひと月ほど前であったか」
「んん、今、思い出しました、いやはや、そんな話もありましたなあ、やれやれ!」
「戯れ言ばかり言うでない。知っているならば、包み隠さず伝えよ」
「それからも、ならず者は何度か、縄張りを荒らしに来たと聞いております。ですが、この間、縄張りにやってきたヘラクロスを池の見張りに雇ったんだとか。まあ、オンの奴、兄貴の助言に従ったというわけですな、珍しく素直な対応で」
ヘラクロス
「ええ。どうやらあのヘラクロスですな。喚くことかまびすしいことで、一帯で有名になってしまった。ただ、腕っ節は、あれだとツノっ節とでもいうんでしょうが、強いらしいとのことで。ま、いんでないでしょかね?」
「なるほど」
「やけにオンのとこにはご執心で」
「若いからの。老婆心というものがな」
「んなもん、あらずもがな、ですわな」
「・・・・・・」
「一遍、韻を踏んで言ってみたかったのですよ、はっはっはっはっは」
「ふむ」
「さて、私は、サウナの様子を見に行って参ります。兄貴、もちろん、入っていきますね?・・・・・・了解で、では、しばしごゆっくり」
 サウナをこしらえている洞穴へと向かう途中で、kは独り言をする。月の光が、kの周りを照らし出していた。
「やれやれ、オンに、ペラップに、あのプテラ、あの三すくみは、なかなかこじれてきておりますなあ! こりゃどこの地方の御三家も形無しではなかろうか。いや、御三家ではなくて、名に聞く三鳥か、三犬か、それかかつて陸と海を二分し大げんかした古代の連中でもあるか、シンオウ神話に乗っ取って時間、空間、反物質とでも例えようか。それかイッシュの神話を借りて、真実、理想、そして虚無とな。カロス的に、生と死と秩序なんて趣向はどうだろう? 不死、破滅、監視、とも言い換えられますかな?・・・・・・まあ言い出せばキリがない、とまれかくまれ、と飛躍を致そう。かくも事態はもつれておる。どいつもみんな、ぐだぐだとやっておりまする。ここにて、諳んじた一節をお耳に入れましょう、どっかの偉いヒトの書いたという・・・・・・こほん・・・・・・ええ・・・・・・智に働きゃあ角が立つ、情に棹さしゃ・・・・・・流される、・・・・・・むむっ・・・・・・意地を通しゃあ?・・・・・・窮屈だとかくにヒトの世は住みにくい、っと! よし! まったく、奴らの前でも聞かせたいもんだ、はっはっはっは!」
 そこへ、弟子のバクガメスが申し訳なさそうに、そそくさと割り込んでくる。
「親方! 独り言の合間に失礼しやっす!」
「ちょっと待て。私が気持ちよくしゃべっているってときに、首を突っ込むとは何だ、馬鹿者! 大体、何の前触れもなしに、いきなり出てこられても迷惑だわい・・・・・・分かってるのか!」
「あいすまねっす・・・・・・でも、ちょっと、取り急ぎで」
「はっきり言えい、はっきりと、何じゃい」
「サウナの具合が芳しくなくて」
「芳しくないのはおめえの顔じゃい。亀なのか竜なのかはっきりしないナリしおって!」
「・・・・・・あいすまねっす」
 サウナからは、もくもくと煙が立ち上っている。立ち上っているというよりは、植物がにょきにょきと生えてくるように見えた。コータスはさすがに思考が停まる。
「何だい、これは」
「煙が出すぎちまって」
「見りゃ分かるわい、そんなもん。なんでこうなったのか教えろっつうんじゃ」
「自分なりに工夫して、尻尾で甲羅を叩いてみたんすが、こんなことに」
「何が自分なりじゃ! わたしゃ、サウナを用意しろと言ったんだ。誰が窯を作れと言ったんだい。ピザでも焼くのか、刀でも作るのかっ、そんなもんどうあがいたってできんからな! 亀のくせに二本足で立ちやがって、ボケえっ!」
「・・・・・・それ、カメックスアバゴーラに失礼っすよ」
「アホなこと抜かしとらんで、水でも汲んでこい! まったく、こりゃ遠くからも見えるだろうが。とんだ騒ぎになるわい、こりゃ!」


 53

「それで、お前はプテラをあんな場所まで連れて行ったのか」
「ええ。それが最もふさわしい所だと私には思われましたから」
「ふさわしい、とは何のことだ?」
「せっかくですから。あのプテラの同胞と会ってもらおうと思いつきまして。実際に彼、大変関心を示したようですし」
「あの一帯はヒトどものポケモンが巡回していると私は警告したはずだが」
「それを度外視してでも、案内する価値はあったと私は確信しております」
 ヤミカラスはつとめて感情を表に出さずに答えた。そして実際、ヤミカラスの言葉には見事なくらい何の感情も込められなかった。それは単なる義務、陳腐な慣用句でしかなかった。街中から聞こえてくるアナウンス、音声ガイダンスのように人畜無害な。自分の言い分は、決して親分であるドンカラスや他の構成員に理解されることはないだろうという諦めが、かえってヤミカラスを気楽にさせた。
 プテラペラップが森へ帰っていった後で、ヤミカラスドンカラスのもとへ呼び出された。案の定、プテラを危険なエリアにわざわざ連れて行った件について、問いただされることになった。ヤミカラスとしては、答えるべき事は一つだけだった。それが有意義だったということ。何を言われても、最初から最後までそう言い張った。
「価値があるかどうかは、私が決めることではなかったか? 私が命じたのは、彼を街へ案内しろ、ということだけだ。危険がなかったからよかったものを、何事かがあってからでは、手遅れだ。首領が第一に心すべきこととはなんだか、お前に分かるか」
 ヤミカラスが答える暇もなく、ドンカラスは続けた。
「常々、最悪の事態を避けるべく振る舞うことだ。無論、我々は抗争となれば、命を賭けてでも戦うだろう。だが、よく肝に銘じておくがいい。戦いとは、即ち破局なのだ。破局を招くような首領は二流だ」
 そう言うと、ドンカラスキセルを口にして、じっくりと煙を吐いた。
「一流の首領は、巧みに戦わない術を心得ているものだ」
「承りました、親分」
 ヤミカラスは深いお辞儀をした。
「もし、お前の行動が我々の利益に反するのであれば」
 ドンカラスキセルを、ヤミカラスのクチバシの先まで突き出して、
「遺憾だが、ケジメをつけてもらうことになる」
 ヤミカラスは、キセルの先端の、まだ煙が立っているのを、無感情に見つめていた。
 二羽は向かい合ったまま、ずいぶんと長く沈黙した。ドンカラスヤミカラスも、どんな感情も示しはせずに、にらみ合っていた。暗闇を見つめているのも同然だった。
「お前には、もうしばらく森の偵察を続けてもらう。些細な変化でも見逃さずにこちらへ報告しろ。勿論、森の連中の争いごとには介入してはならないが。あくまでもお前のことを、一羽の部下として信頼する」
 ヤミカラスが応接間を出ると、扉のそばに側近が控えていた。ヤミカラスはそいつのことをよく知っている。どんな奴よりもうまく親分に取り入って、媚びへつらい、ごまをすり、こうして常に付き従う立場をつかみ取った、それだけの奴。これといって、嫌悪感も嫉妬も感じてはいない。ただ、ヤミカラスにはこの側近の虚栄心というものが、よく理解できなかった。
「いかがでした?」
 いかにも勝ち誇った目つきを隠しきれずに、側近はささやいた。
「親分は容赦なされましたか」
「それ、あんたに話す必要ある?」
 ヤミカラスは無機質に言い返した。
「左様ですか。しかしながら、はっきりと申し上げなければなりませんが、貴方の振る舞いは一家の者たちから一様に顰蹙を買っているのですよ。不用意な真似は禁物です。このままでは、さすがの親分も貴方を持て余してしまうことでしょう」
「左様ですか」
 ヤミカラスはわざと側近の仰々しい言葉遣いを真似て返事をしたが、相手はその皮肉に対して顔色一つ変えなかった。むしろ、自分の弱みを掴んだかのような、したり顔を浮かべられたので、ヤミカラスはつまらない返しをしたと、自分で寒気がした。
「左様! 実のところ、親分の温情がなければ、貴方は羽根を詰められているところだったのですからね。しかるに、いつ限度が来てもおかしくはありませんが」
 それには何も言い返さずに、にらみつけることもせずに、まるで元々そこにいなかったかのように扱って、通り過ぎた。屋敷内の廊下にたむろしている同胞たちは、彼から距離を取りながら、ひそひそとささやき合っていた。ちらちらとこちらを見るから、おおかた自分についての話なのだろうが、興味はない。
 晴れた朝だ。屋敷の連中は大半が寝静まってる時間だ。不眠持ちの不寝の番の一団だけが、屋敷の周囲に集まっていた。連中には目も暮れず、ヤミカラスは屋敷を飛び立った。はっとするような青空の中で、ヤミカラスの黒い体は異物のようだった。気分は悪くなかった。
 命令通り森へと向かうでもなく、街の上空をぶらぶら飛び回っていると、前からマメパトの群れがやってきた。マメパトたちはヤミカラスに気がつくと、いっそう忙しなく翼をばたつかせて、そばに近寄ってきた。
 チーッス!
 ん。
ヤミカラス兄さん、こんな時間に、お散歩っすか」
 先頭を飛んでいたのが先に声をかける。
「まあね。一応、仕事はあるけど」
 マメパトたちは、いつも10羽から20羽くらいの群れを組んで行動し、駅前の広場だとか、公園だとか、ヒトの集まる場所にたむろしては、勝手におこぼれを預かりながら生活している食えない奴らだった。そのくせ、いじらしさを呼び起こすような小ささと、つぶらな瞳と、豊満なハート型の鳩胸をうまく利用して、ヒトから可愛がられるのだ。ヤミカラスが出会ったこの連中は、とりわけ札付きなことで悪名高くて、ふてぶてしさにかけてはこの街で並ぶものはないかもしれない。ヤミカラスたちの間でも、話題に上ることがあった。
 ヤミカラスは時々、彼らと出会うことがあり、その度に一種の武勇伝としてどこそこの家やアパートの住人をカモにしたという話を聞かされた。純粋無垢な表情と口ぶりでもって、嬉しそうにゲスい自慢話をする様子を、むしろヤミカラスは気に入っていた。
「大変っすねー、ギャングの下っ端って」
「そーいや、このところヤミカラスさんとこ、穏やかじゃないっすね」
 先頭に付き従っている奴が口を挟んだ。
「ヒトさんクソ真剣になって面白かったですよ。撲滅大作戦とかぶちあげっちゃって」
「マジでウケたよなー、あれ! なんつーかさ、なにもかもが大げさなんすよね。まるでヤミカラスがいなくなったら、世界に永久平和が訪れるみたいな感じで。だから僕ら冷やかしで、ちょっと奴らの上をばさーっ、って飛んでったら、どいつもこいつも喜んでやんの。ね、ほら、僕らこう見えて平和の象徴じゃん?」
「ま、白くはないけどねー!」
 別の奴が口を挟む。
「そんで、ぽとりと糞落としたら、お偉いさんの袖にかかっちゃってもう大爆笑。でも、どうせならはげ頭のてっぺんにでも落としときゃよかったなー」
 マメパトたちが勝手に盛り上がっているのを、ヤミカラスは微笑を浮かべながら聞いていた。彼らの馬鹿馬鹿しさは、ヤミカラスの堅苦しさの遙か彼方にあって。
「実言うと、僕、あんま興味ないんだよ」
 ヤミカラスはさばさばと答えた。
「ウチのことも、ヒトのこともさ」
「あれ? これってもしかして裏切りっていう?」
「盗みに、裏切りってもう滅茶苦茶ロックじゃないっすかー!」
 マメパトたちがあまり大げさに囃し立てるので、ヤミカラスは苦笑いした。ふと、いつかどこかで読んだかどうか分からない、本か何かの一節が頭をよぎっていた。そこでは密接な関係を持つものとして、3つのものが挙げられていたっけ。それが確か、盗みと、裏切りで・・・・・・それと何だったっけか、忘れた。それに、そんなもの、どこで目にしたんだろうね?
「ね、ね、ヤミカラスさん」
 マメパトはその天真爛漫さを崩すことなく、それでいて相手に強く迫るように切り出した。
「僕ら、これからランド行くんだけど、一緒にどうすか」
売店の新メニュー、うまいらしいんすよ。今から行って、売店の周りで粘ってれば、誰かしらお人好しがくれますし。何だったら、隙を見て頂戴すればいいんですよ。僕ら何度もランド行ってやってきてますから」
 ヤミカラスはちょっとだけ考えた。森への偵察には行かなければならない。でもすぐに行くこともない。考えるまでもなかった。
「じゃ、僕も付き合わせてもらおっかな、暇だし」
「善は急げっすよー、ヤミカラスさん」
 ヤミカラスを加えたマメパトの群れは、ぎゃあぎゃあとたわいない冗談をまくし立てながら、目的地へと向かった。灰色をしたマメパトたちに混じると、ヤミカラスの黒い体は、何か大きな怪物の瞳のようになった。この巨大不明生物が暴れ狂い、この街の何もかもを破壊し尽くしてしまうという妄想。
 ヤミカラスはほくそ笑む。


 54

 ふらふらと、やっと、巣に戻ってきて、タブレットすら翼から、こぼれ落ち、俯せに倒れ込んだ。重たげに半開きにした目で上向くと、わずかに開けた空に、もう日中だから、鳥の影が見える。地を這うトカゲのような気分だ、自分自身が鳥であることを忘れそうになって。
 こすれる股の辺りが気になって、仰向けに寝返った。
 うっすらとした暗がりの奥にくっきりと見える青い空は、さっき彼の背中の上で四方八方から眺められたものなのに、今は宇宙の果てのように見えた。見れば見るほどに、自分が空の世界から見捨てられたように思え、次第に、自分の存在そのものが拒絶されたかのような錯覚が起こる。憂鬱が思い上がって、ペラップを苛むように暗い妄想を湧き上がらせるが、それがペラップにはかえって心地良いくらいだった。
 結局、私はまったくどうしようもない屑野郎なんだ、とペラップは思った。かつてのマスターにせよ、ドンカラスにせよオンにせよ、誰かの下にいなければまともに生きていくことすらできない、ひ弱な小鳥さ。それを理解しているくせに、支配されることに本能的に我慢がならない質だった。何にも束縛されずに、自分一羽で自由に生きたいという衝動が、性欲のように立ち上り、息も絶え絶えになることさえあった。鳥かごに飼われた小鳥のように、外に恋い焦がれ、悶え苦しみながらも、飼い主から与えられる餌を喜んで食べているような浅ましさを感じながら。だが、哀しいかな、私はたとえ自由になったとしても、夜になるとまた戻りたくて、いじらしく鳥かごの檻を翼で打つのだ。
 再び俯せになり、翼で頭を覆う。
 大体、そこのタブレットのおかげで、飛ぶことすら覚束ないではないか。これをヒトのように使いこなせる知力は、ペラップに特別な強みをもたらしてはくれたが、それだけだ。この薄っぺらい機械が、とてつもなく重い足枷になってしまっていた。パラセクトという種族は、ちょうどその辺にもうろついているやつがいるはずだが、進化前の時に背中に寄生したキノコに体を乗っ取られ、本体は一切の精神を失っているというが、今の私も似たようなものだな、と思う。私は生きているのではなく、常に何かに生かされているのだから。
 本当はこんなこと考えてはいけないのだ、とペラップは後悔した。ネガティブな思考は、ネガティブな効果しかもたらさないと、いかにも先輩面してオンに向かって言ったことがあったのに、すべてこちらにとんぼ返りだ。自分で自分をひっぱたきたい。くそっ! オンのもとに来て以来、何とか立ち直ってきたというのに。結局のところ、あいつがこんなところに迷い込んできたのが全ての!
 ペラップは、自分の心に憎悪のようなものが芽生えたのを察知して、どきりとした。細い脚が、段差を踏み外したときのように、反射的に痙攣した。悪意に対する、こうした敏感さに、ペラップは内心で苦笑いせずにはいられなかった。
 あれだけ信頼していたマスターのもとを離れざるを得なかったのは、ヒトの悪意を笑い飛ばすほどの冷徹さを持てなかったからだ。ドンカラスに十分過ぎるほどの好意を示されていたにもかかわらず、それを受け止め切れなかったのは、ひとえにペラップが良識を持ち過ぎたからだ。気の置けないオンとの関係がぎくしゃくしているのは、この森の掟にあくまでもこだわったからだ。過去から今に至るまで、ペラップにとっての災難は、すべて過剰な正義感から生じていたのだから、誰にせよ、他人に責任を押しつけるのはお門違いだ、そうじゃないか、と諭すように自分に言い聞かせてやる。
 しかし全然眠れない。また仰向けに寝返ると、下腹部が先ほどの感覚を思い出して、痙攣した。思わず身を捩らせてしまうほどに、ペラップは体全体が勝手に熱くなっていくのをどうすることもできなかった。そっと、恐る恐る翼で触れてみると、微かな湿り気を感じる。撫ではしなかった。羞恥心が興奮を抑えつけた。クチバシをめいっぱい開いて、新鮮な空気を吸っては吐きを繰り返し、気持ちが落ち着くまでこらえていた。
 とにかく! ペラップは、頭を切り換えようとする。あの子と街へ出向いた目的は一応達した。上等なタブレットケースが手に入ったし、モバイルバッテリーも貰った。それに、あの子の素性に関しても、ひとまず相談はした。ドンカラスの方から、奴の広範な情報網を駆使して、協力してくれることになった。プテラのようなのが飛び回っていれば、当然目撃した連中がいるはずだから、そいつらの証言を収集していけば、あの子の記憶を補完できるかもしれない、という推理だ。ネットにめぼしい情報がないなら、地道にやっていくしかないってことか。
 衝動がさっと走って、ペラップは巣の上でのたうち回った。それにしても! ドンカラスにすっかり言いくるめられてしまったものだ! つい、その優しさにそそのかされて、ウツボットに吸い寄せられる虫のように、いともたやすく身を任せてしまった。そのとき、過去のことと割り切ったはずのことが、何もかも、奔流となって、体の中へ流れ込むのを感じないわけにはいかなかった。悦びと同時に、哀しみも溢れた。ペラップの混乱する頭の中では、自分というものがドロドロに溶けていくイメージが、永遠に繰り返された。決して、そんなことのためにドンカラスのもとを再訪した訳ではなかった。しかし、自分の心の中に、ドンカラスに対する希望のようなものがあったことは、認めざるを得なかった。
 違う、希望という言葉遣いこそ、私の欺瞞の最たるものだ。ドンカラスならそう私を戒めるだろう。私がいかに行動するにしても、自分自身を率直に受け入れられないようならば駄目だ。でも、どうしても、出来ない。臆病さか、自尊心か、傲慢か?・・・・・・止めろ! こんな分析は、問題を無闇に先送りするだけだ。pには、考えることとは、結論を認めないことに他ならないと思われた。結論はとっくのとうに下されているというのに。
「ごめんくださあい!」
 明るい声に、ペラップは起き上がった。巣から下を覗くと、カクレオンが手ぐすね引いてこちらを見上げている。
「あれ? もしや、寝覚めがお悪い?」
「いや、大丈夫だよ。ちょっと待っててくれ」
 ペラップは平静に答えたが、カクレオンからは見えないように、思いっきり体を伸ばして、気持ちを落ち着かせてから、駆け足気味に地上へ降り立った。挨拶を交わすのも忘れて、カクレオンは早口でまくし立てた。
「こんな時分に大変失礼致しました、ですが、私、今、あまりにも気分が高揚してしまいまして、誰かに報告せずにはいられなかったのです、許されるものなら、腹からあらんばかりの声を出して、この喜びを皆さんに伝えてやりたいくらいなのです、というのも、今朝、いつものように、私め、木の実の計算をしておりましたところ、何やら、また新しいところに実のなっているのが見えたわけですよ、以前にもお話しした通り、この縄張りでは次々と珍種の木の実がなっております・・・・・・ところで、この間のオッカの実はいかがでしたでしょうか?・・・・・・そうですか! いえいえ、ペラップさんは特別ですから、いくら渡したって構いませんから、ですがね、驚くなかれ、今度見つけたものはそれ以上なのです、恥ずかしながら、私めも未熟にして、その名に聞きしとはいえ、実のところ、半信半疑でいた代物でありまして・・・・・・ええ、ええ! そうです! 今脇に山と積み上がったこれが、そうなのです、え、なになに? リンゴのようにしか見えないと? なるほど。しかしですよ、ペラップさん、これほど大きいリンゴを見たことがおありで?・・・・・・そうでしょう? ないでしょう? ペラップさんといえども、それは仕方ありません、何せ、これはその名の通り、セカイイチ、という名で呼ばれております品種でして、人間世界ではまず見受けられず、人気のない森のどこかで、それもきわめて限られた環境のもとでしか育たないのですから、そのセカイイチが、なんと、枝もたわわに実っていたのです! ですから私、初めはまったく我が目を疑った程でした、これはもしやダークライの仕業ではあるまいか、などと要らぬ勘ぐりさえ致しました、ですが、もちろん、そうではなかったのです、まさにセカイイチがここに! 夢ではなく! 断じて! しかもどっさり! 私め、今ほど、この仕事をしていて本当によかった、カクレオンという種族に生まれて本当によかったと、心から思ったことはありませんでした、かたじけないっ、ジーランス様! ウルガモス様! そして、この森の皆さんすべてにも感謝! ということで、記念としてセカイイチを一個、ペラップさんに贈呈致します、さて、オンさんも訪ねなければ!あっ! でも、今はまだ寝ていますから後回しにして・・・・・・ピカチュウさんなら大喜びするでしょうねえ!・・・・・・でも、今どこにおられるのだろう?・・・・・・やれやれ、とまれかくまれ、早くここの皆様にお伝えしなければ、そして同業者たちにも自慢せねば、一刻も早く! いやはや私もう我慢できません! 突然のところ、長々と失礼致しました! では、また!」
 煙のようにやってきたカクレオンは、また煙のように走り去って行った。自分の背の丈の数倍にも積み重なったセカイイチを抱えているのに、難なくバランスを取りながら運んでいく姿は、よくよく考えれば空恐ろしい。カクレオンの底の知れないエネルギーにほとほと呆れつつも、セカイイチを抱えるとあまりにも大きくて、前方を見ることができなかった。カクレオンの大声が、ガンガン頭の中で反響する。その音響に気圧されて、ペラップは一瞬、さっきまで何を考えていたのか思い出せなくなるほどだった。
 何気なく、セカイイチを一口囓ってみると、たちまち、今まで味わったことのない甘酸っぱい味が口の中に広がった。この味には、何か新しいものが感じられた。そう感じた瞬間、このセカイイチが、落ち込む自分を勇気づけでもしたかのような気がした。さっきまで何かと、深く思い悩んでいたが、そんなことするまでもなく、pはいま、この森で確かに生きているという、当たり前ではあるが、それ故になかなか実感の持てないことを、確信できた、と思った。
 過去はもう戻らないだろう、だが未来はどうだ?
 こうしていると、何も不可能じゃない気がしないだろうか?
 ドンカラスの言葉が、新しい意味合いをもって、再生された。


 55

 夕方、ボクが目覚めたとき、オンはまだ眠っていた。
 起き上がるときに、お腹の辺りを念のため触ってみるのが、習慣というか、癖のようになってしまった。毎日、というわけではないけど、油断していると忘れた頃にやってしまっているから怖い。さすがに、こう何度かやらかしていたら、そのうちオンにバレるんじゃないだろうか・・・・・・もしかしたら、もうバレてたり? なるべく、そんな恥ずかしいことは考えないようにしているけど。
 前兆のようなものがないかとボクは考えてみるに、気になることはいくつかある。大体、ぐっすりと気持ちよく眠った後に起こることが多いってこと。そういう時、目覚めはものすごく良くて、目をこすったり、伸びをしたり、あくびをしたりするということが全然なかった。
 それと、ぐっすり眠っているときには、変な夢を見ることが多いってのもそうか。変な夢? 変な夢としか言い様のないよく分からない夢。
 夢の内容を整理しようとしても、ボクは困る。だけど夢に出てくるのは、いつもボクとオンだった。ただし、ボクは夢の中で絶え間なく変化し続けている。ボクは一匹ではなく、複数であったり、かと思うと、石になり木になり水になり炎になり土になり空気になったりした。なにものでもなくなることすらあった。ボクは、あまりにも変わり続けるせいで、ボクがボクであるということが分からなくなってしまう。ボクはボクがボクだと考えている、だからボクはボクだ、普通、そうなんじゃないの? とは思うんだけれど、夢の世界では違っている。ボクがいくらそう信じ込んでいたとしても、そこではボクは蹴られる石ころ、根を張った木、飲み干される水、燃えさかる炎、踏みつけられる土、吸い込まれる空気に過ぎなかった。
 でも、夢の最後にはいつもオンが現れた。オンだけが、ボクがたとえ何に姿を変えていたとしても、ボクに気がついてくれて。やっと見つけた! そうオンが言った瞬間に、ボクはボクだと確信するのだ。そこで夢が終わり、ボクは目覚め、濡れている。
 幸い、今日は大丈夫だった。ボクはほっとする。ただ、街を往復した疲れが全然抜けきっていなくて、体が重い、まぶたも重い。今日の朝は、ymとeaのことを考えて全然寝付けなかったんだっけ、いったい、いつ眠りについたんだか分からない。そもそも、あんなに頭が冴えていたのに、よく眠りにつけたなあ、と感心してしまう。
 まだオンも眠っていることだし、ちょっとくらいは二度寝をしても大丈夫かな、と思って、体を丸めて眠ろうとするときに、ボクはちらりとオンの方を見る。今朝のオンは、いつもよりもすごくぐっすりと眠っている。なんせ、あくびをし始めたなと思いきや、すぐに寝ちゃったわけだし。
 そのときのオンの眠り方は、眠るというのではなくて、突然意識を失って倒れるようだったから、心配になってしばらく、体を揺さぶってみたりしていた。オンは全く起きそうもなくて、不安にはなったけれど、寝息は穏やかで、体のどこかにおかしいこともないようだったから、そのまま横にさせておいた。なんだか、オンのその眠り方は、ボクがおかしくなるときの眠り方に似ていなくもなかった。なんかこう、一気に体の力が抜けてしまって、地面にべったりと貼っ付いて動けなくなってしまうような。誰しも、時たまそういう深い眠りに襲われるってこと、あるのかな?・・・・・・そんなことを思っているとき、ボクはそれを見て。


 56

 まずった、と思った時には手遅れで、やけくそに一気に食ってしまったら、即効眠気が襲ってきた。なすすべもなく、オンは眠りに落ちて、夢とも知らぬ夢を見ることになった。
 そこにはオンと彼だけがいた。場所は、オンが暮らす洞窟ではなく、もっと狭い、岩場にできた巣穴のようなところらしかった。けれど、夢の中では誰も、そんなことは気にもならず、寝そべるようにしているのがやっとな窮屈な空間で、二匹は密接に抱き合っていた。オンは横たわる彼の上に、毛布のように覆い被さって、しつこくうなじに甘噛みをしていた。彼の苦しげな声が、オンの激しい息の合間に小さく漏れ、やめて、と彼は何とか言おうとして、喘ぎながら言うとそこに気息音が混じるせいで、「や」が「は」のように聞こえ、それがいかにも彼の方からオンを求めていると感じられたので、興奮しないわけにはいかなかった。オンの吸血のような口づけは、首から肩へ、肩から胸へ、胸から腹の方へずるずると下がっていったが、この空間は狭く、そのままの姿勢で後ずさりして、下腹部にたどり着くことが出来なかったからだろうか、仕方なくオンは顔を上げたのだった。やるせない気持ちが高ぶり、まともにものを考えることができなかったオンは、彼の顔をまじまじと眺める間もなく、捕食するようにぱっくりと口を開き、せがんだ。
 ねちゃねちゃいう音が、その世界全体に鳴り渡った。オンは彼の頭を捧げ持つようにしながら、狂おしく舌を絡めた。興奮が荒ぶっていくのに任せて、舌を口のいっそう奥へ挿し入れると、彼は激しくえずいて、身をよじらせて抵抗したが、それはかえってオンを意固地にさせた。オンは決して自分の口を離そうとはせず、舌の付け根の辺りが痛んでくるのも気にしないで、彼の口内の何もかもを貪り、味わっていた。彼が限界を訴えて、痙攣的にオンの背中にしがみついて爪を立てると、オンははっと我に返った。彼の目から、一筋の涙が伝うのが見えた。彼の瞳が恨めしそうにオンを見据えているのが見えた。オンは顔を離した。お互い、ほとんど動かせなくなった舌をだらしなく垂らしていた。オンの舌の先端から唾液が垂れ、彼の喉元に落ち、ゆっくりとうなじの方へ伝っていくと、それを舐め取るためにオンは口を近づけたが、そのまま彼の首下に頬を寄せると、長く深いため息をついた。彼もまたため息をついた。二匹の上がった息の音以外に、そこでは何の物音もしなかった。二匹だけの世界が、いつまでも続く、ように思われ。
 その興奮を引き継いだままオンは目覚めてしまったので、夢だと気がついた瞬間には、がっかりする。けれど、あれは夢というにはとても生々しいもので、そこで行われたことはほとんど現実と言ってもよかった。自分が密かに焦がれていたことが、ほんのわずかでも具体的な形で実現したのだから、そのことを思い浮かべると、ふと何かをぎゅっと抱きしめたくなるような幸せな感じが湧き上がってきた。
 オンは、舌の感覚を意識する。あれだけ舌を酷使していたはずなのだから、付け根の辺りに何か重しを乗せられたような痛みや張りを感じるはずだと、素朴に考えたのだったが、舌は軽快で、動かすと口の中で鞭のようにしなり、ぴしゃぴしゃと口の底を打つのだった。
 それにしても、とオンは考えてしまうのだが、夢の中の俺はなんでああまで舌にこだわってたんだろうな、あいつをえずかせるくらいに、喉の奥まで貪ってるってのは、俺の、その、胸が締め付けられちまうくらいに激しい気持ちの反映だとしたって、しつこすぎだろうが、もっと、夢ん中とは言ったって、やるべきことはあっただろうに、だいたい、なんで夢の中の俺は、あいつの腹のところでキスを止めてしまったんだ、横に体をずらせばよかったんじゃないのか、それとも、楽しみは最後にとっておこうとでも考えたのか、結局事は始まったばかりのところで、中断させられちまった、せめて、ほんの少しだけでもよかったんだ、夢なんだから、夢くらい見させてくれたって・・・・・・
 ところで、オンは体の違和感に気がついていないわけでは全然なかった。むしろ、気になって仕方なかった。しくじりにはしくじりが重なる。何が起きたかは明らかだ。夢精してるじゃねえか俺ぇ!
 ようやく、オンは体を起こした。辺りを見回す。彼はオンから少し距離を置いたところにいて、こちらからは背中を向けて横になっている。洞窟の外に出ると、日が沈みかけ、森は薄暗くなってきていた。幸い、今日からまた来るとか言っていたペラップの奴は、まだここには来ていない、来ていないな。それまでには、ちゃちゃっと体を洗ってしまわないとと、オンは翼で股の辺りを隠しながら、こそこそと池へ急いだ。
 何とか誰にも見られずにたどり着くやいなや、オンは池に勢いよく飛び込んで、苦々しく思いながら、汚れていた腹を擦った。股の切れ込みに爪が触れると、粘っこい精液がまとわりついて、水中でしつこく爪を擦り合わせても、まだ落ちずに残っていた。まじまじと自分の精液の粘り気を見つめて、気持ち悪っ、とオンは思ったが、同じ精液でも、あいつのは何のためらいも感じずに口にしたくせに、と自嘲する。しかも、ちょっとおいしいとか思ったんだぞ、ちくしょう。
 すぐに洞窟に戻る気にならずに、オンは池のほとりにあぐらをかいて、暮れゆく水面を眺めていた。無性に情けなくてしょうがない。俺はあいつが、それは絶対確実なことで、否定しようとしたって無駄だ、事実だし、現実だ、素直に認めるべきことだ。けど、俺は言い切ることができない、あいつのことを、その先の言葉、もちろん言うべきことは分かってる、だけどどうしてもそこから口が開かなくなる。こわい、臆病なんだ、意気地なしだ、卑怯もんだ、ったく。
 このまま、自分の思いをひた隠しにしながら、彼と過ごし続けることに、そろそろオンは耐えられなくなってきていた。今朝、うっかり食べてしまったために、例の木の実はいよいよあと一個だけになってしまった。オンは、この不可思議な木の実が尽きたら、腹を決めなければならないと思っていたが、そのときがこうしてにわかに近づくと、もううろたえてしまう。我慢してこいつをずっととっておけば、と思うのもつかの間で、自分の考えの浅はかさにすぐに気付く。それが木の実である以上は、いつか腐ってしまうし、だいたい、それまでにオンが使わないでいられるという想定が馬鹿げていた。遅かれ早かれ、彼に対する感情が、抑えの利かなくなるほどまでに高ぶれば、苦笑いしながらも、自嘲しながらも、そいつを彼に食べさせてしまうことだろう。
 素直になればいいんだ、とオンは暗示をかけようとする。結果はひとまず考えないでおけ。素直になるんだ。そうしなきゃ俺は、下手すりゃ一生苦しむ羽目になるんだから。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥、とか、ペラップに教えられたそのことわざみたいな感じで、どっちがましかははっきりとしてるじゃねえか。思い切ってしまえば、意外と簡単なもんだこういうのは、ほら、俺はあいつを。
 オンはクリムガンのように顔が真っ赤になったと思い、がむしゃらに首下の毛をかきむしった。興奮に任せて、腕の動きを早めるにつれて、オンの動作はわざとらしく、こわばったものになった。その姿が、まるでオン自身が近くから自分を観察でもしていたかのように、ありありと目に浮かんだので、ぴたりと動くのをやめ、恥ずかしさにうつむいた。脱力して、その場に倒れ込み、体をごろごろと転がした。それに飽きると、心を無にして、腹筋を始めた。腹が痛くて熱くなって、草の上に仰向けになっても、オンはしきりに腹の締まり具合を気にする。
 触って確かめるだけでは不十分で、オンは池のへりに立ち、水面にゆらゆらと映る自分の体を眺めた。両翼を水平に伸ばしながら、膨らみすぎない胸筋に、力を入れると浮かび上がってくる腹筋の陰影、胸から腹にかけてはきゅっと引き締まり、腰のあたりでぽこっとはみ出る脇腹を確認した。つり上がった胸筋に繋がる脇と腕の肉が、絞り上げられたようになっているのを確認した。とりわけ、胸筋と腹筋の境目に、くっきりと逆三角形に浮かぶ窪みをじっくりと観察した。
 急に、喉が渇いてきた。オンは四つん這いになって、顔を水面に近づける。不意に、鼻先にまで迫ってくる自分の顔を見て、動きが止まった。水が揺らめくせいなのだろうが、自分の目がやぶにらみになったように見え、一瞬、いよいよ俺は顔まで狂っちまったのかとぞっとすると、自分の顔が徐々にのっぺりとした顔に溶けていき、丸い目が二つ、瞳は点でしかなくなり、口は間抜けに開き。それは、何かをほのめかしているのでは、と、考えないではいられなかった。


 57 一人称・ボク

「なんだ、オンの奴いないのか」
「はい。ボクが起きたときには、いなくなってて」
「空中をお散歩か? まあ、今回は急ぎでもないからな」
 ペラップさんは、これまでよりも少し遅れて、すっかり夜になってからやってきた。しばらく来ないと、身に染みた習慣とは思っていても、感覚を忘れてしまうものだとペラップさんは言う。
「その、タブレットのカバー、どうでしたか」
「なかなかいい。ドンカラスのとこの奴らが、しっかりしたのを持ってきてくれたんだな。これなら多少の雨に曝されても、心配なしさ」
「モバイルバッテリー?・・・・・・も貰いましたしね」
「あいつは昔から気が利くからね。よかったよ、わざわざ街を訪ねて」
 心がむずむずするのを感じる。そこに嘘が混ざっているのは分かっているのに、口に出すわけにもいかない。だけど、ボクにとってのペラップさんの印象は、昨晩のことがあってから、取り返しのつかないほどに変わってしまった。ペラップさんがボクを疑っているのだから、ボクもペラップさんを疑わないわけにはいかないのだ。
 疲れているのか、珍しくあくびをしながら、ペラップさんが言った。
「そういえば、カクレオンのやつがここに来なかったか」
「ああ! ちょっと前に来て、セカイイチ、っていうのを何個か置いていきましたよ」
 そのカクレオンが来たのは、オンが一人洞窟をそそくさと出て行ってしばらくのことだ。ボクはその様子を実はこっそりとうかがっていて、眠ったふりをしていたのだけど、聞き慣れない声が外からしたから、起き上がった。ボクが洞窟から出てくると、そのカクレオンはぎょっと目を点にして、まじまじとボクを見た。ボクたちは互いに自己紹介をし合ったけれど、どこかよそよそしく、緊張した雰囲気になってしまった。これを私カクレオンが、持ってきたと後でオンさんにお伝えください、と言っただけで、カクレオンは逃げ去るように去ってしまった。
 その話を伝えたとき、ペラップさんが不愉快そうに目を細めたのを、ボクは見逃すことができないのだ。そのとき、ペラップさんは間違いなく、何かを考えた、たぶん、あまりよくないこと。でも、それをはっきりと問いただすことには、慎重にならないといけなかった。ペラップさんとの関係が壊れたら、たとえオンがいたとしても、ボクはここにいることに耐えられなくなるだろう。
「そうだった、お前が、カクレオンと会うのは初めてだったんだな。悪かったよ、やつに前もって事情を伝えておくべきだった」
「事情、って何のことですか?」
 なぜボクは口に出してしまったんだろう? 意識したのか、無意識なのか、ペラップさんの「事情」という言葉が、やけに嫌みたらしく聞こえた気がして、ボクは頭を小突かれたように感じ、かっとしてしまったのか。
 強い口調で聞き返されたからだろう、ペラップさんは、さっきのカクレオンと同じように、ぎょっと目を点にしてボクを見た。思わぬことで、ボクたちはお互いにひるんで、言葉も出なくなってしまった。
「ええと」
 ペラップさんは、やっと水から這い上ったかのように息苦しい口調で答えた。
「おまえがオンのところにいる、ということは話していなかったから、それをだ・・・・・・」
 ペラップさんができる限り、優しい口調でボクに話しているのはよく分かった。でも、どうしたって、言葉の裏に垣間見えるペラップさんの本心を意識しないわけにもいかない。分かってるんだ、もうそれくらい。
「ごめんなさい。ちょっと、引っかかっただけなんです」
「いいさ。私もつい明晰でない話し方をしてしまったんだから。むしろ、尋ねてくれてありがたい」
 落ち着きはしたけれど、話すべきことがなくなって、黙り込んでしまった。
 ボクはオンの、さっきのあれのことを考えるようになる。ボクが知らぬ間に、何度も起きていたことが、たぶん、オンにも起こったのだ。でもボクはそれを見て、正直驚いてしまった。オンは寝ているのに、そこで勝手に事が起こったのだから。息を殺して、ボクはその一連の光景を観察していたわけだけれども、へー、こんな風にアレがああしてああなったんだなー、という好奇心と、でも、これって一体何なんだろう、という疑念がないまぜになっていた。ただ、アレはボクだけではなく、オンにも起こるんだ、とそう考えれば、特に不安がることではないことになって、それは安心だ。そうは言っても、とうていうかつに口にできる話ではないというのも何となく分かっていて。またあんなことになったらイヤだな、とは思う。
 ボクもペラップさんも、ちらちらと洞窟の入り口の方を見やる。オンはまだ帰ってこない。たぶん、ボクの時と同じように、池に体を洗いに行ったんだろうから、そろそろ戻ってきてもいい頃なのに。
「あの、ペラップさん」
 ボクはやっとのことで、話しかけることができた。
「せっかくですから、この、セカイイチ食べていきませんか?」
「えっ、ああ、いや、私は」
「食べましょうよ」
 ボクはセカイイチを二人分、胸に抱えて持ってくると、ペラップさんに片方を差し出す。
 ペラップさんは渋々ながらも、受け取った。
 セカイイチは、一口かじったら、舌の上で小さな氷のかけらのようにじんわりと溶けていき、それと一緒に、他の木の実では感じたことのないほど、甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。心の底から、初めてだと言える味だった。少なくとも、ここに来る前のボクが食べたことがないものであることは確かだ、そう思った。
「これ、すごく美味しいですね、食べたことない味で」
 ペラップさんは、黙々とセカイイチをかじりながら、目を伏せて、相変わらず考え事をしているような様子をしている。
「ああ」
 それは、ボクに答えているのか、ペラップさん自身に言い聞かせているのか、分からなかった。
「とても美味いよ」
 もしかしたら、どっちでもあるのかもしれない。
 ボクは適当にうなずいておき、今度はセカイイチを口いっぱいに頬張る。ボクが新しくなったように感じていく。ある手応え、ボクがこの森の暮らしで、前のボクとは違うボクに変わっていくという、今のボクに、ここにいてもいいんだと、励ましてくれる何か、ボクがかつてなんであったにしても。
 ボクは今の今まで、目の前で起きることに対して、実は困惑ばかりしていたことを、つくづくと感じる。何もかもが、新鮮なことであるはずなのに、何故か懐かしかったり、親しみ深かったりさえする、変な感情。この森も、街も、オンも、ペラップさんも、コータスさん、バンギラスさん、ピカチュウさん、ヘラクロスさん、ドンカラスさん、ヤミカラスたち、エアームドとか、初めて会ったはずのみんなも、それはただ姿形だけが変わっただけで、ボクがかつて、どこかで、経験していた何かの繰り返しに過ぎないような、そんな気が。その何かは、今の生活を通じて、存在を感じ取ることができるだけだった(そしてボクはその何かをはっきり認識しなければいけないという義務感に、焦っている)。
 けれど、このセカイイチの味は、そんな過去の面影とは無縁だった。だからこそ、口にした瞬間から、ボクはボクがふにゃふにゃした状態から抜け出して、くっきりとした輪郭をもったボクに生まれ変わりつつあるのだ。
 それがボクの思ったことだった。とはいえ、これで終わりなんかではなく。あくまでも、長い長い冒険の始まりでしかないこともボクは意識している。ボクが一体どこから来たのか、という問題に、いよいよ向き合わなくては。取り返しがつかないところまで来てしまった気がした。でも、遅かれ早かれ、これはやってくるものだったんだ。ボクは今、カントー地方への第一歩を踏み出した、まさしく。
 ボクはうずうずし始めた。今すぐにでも、街へ、あの場所に行きたかった。ボクの痕跡について、何か少しでも手がかりが得られるのなら、どんな面倒だってこなしてしまえそうだ。だけど、こんな時によりにもよってだけど、オンが戻ってこないうちは、ボクはどうにもできない。まずは、ボクの決意をオンに伝えないと。それにしても、オンが出て行ってからかなり時間が経ったんじゃないか、その間にボクはpさんとおしゃべりをして、セカイイチを食べている余裕すらあって。いくらなんでも遅すぎな気が。
 ボクはもう食べ終わってしまった。ペラップさんはまだ、黙々とついばんでいる。さっきから、ほとんど食べ進んでいない。一口食べては、ボクには見えない何かを見つめながら、物思いに沈んでいるように見える。セカイイチを受け取るときの、ちょっとためらいがちな素振りからして、あまり食欲がなかったのかもしれない。
ペラップさん、もしかしてお腹いっぱいだったりします?」
「ん。そうだな・・・・・・とてもうまいんだが、いかんせん、私みたいな小鳥には量が多すぎてな」
「無理しなくても大丈夫ですよ。余った分、食べてもいいですかね?」
「ああ。もちろん」
 ペラップさんの分のセカイイチを、ボクは夢中でがっついた。いくら食べても、飽きのこない味というか何というか。セカイイチを食べて感じた気持ちの高ぶりは、とても忘れがたいものだったから、いくらでも食べてしまえそうだ。これは、ボクにとって、すがることのできるものになったわけで、それは確かに頼りないものに違いないかも分からないけれど、あるとないとでは大違いって話だ。ボクがボクであるということに、ちょっと自信を持てるようになったわけでもあるし。今までが、ずいぶんあやふやであった分、大きな一歩になったのは間違いないんだから。


 58

 それはオンの目の前に、水面から堂々と突き出していた、顔を、といっても大半はぼうっと開いた口で占められていて、しかも少々間抜け面で。そのくせ、やたらと誇り高く傲慢な様子をしているのが、オンの癪に障る。
「何だお前?」
「何だお前って!・・・・・・言うまでもねえじゃんかよ?」それは、口を馬鹿でかく開いて、破裂しそうなくらいに息を吸い込んで、力を溜め込んでから、一時の間を置いて、あらんばかりのエネルギーを込めたつもりで、叫び返す。「俺こそが、この池の主なんだからな!」
 オンはしばし腕を組んで考え込んだ。考えるというか、当たり前のことを確認するだけではある。まず、この池の主は、森の掟に乗っ取れば自分だろう、こいつなんかじゃない。そいつはすごく当然のことだと思う。そして改めて、目の前のそれを見つめて、ほんの一瞬でも、こんなものに心を乱されそうになった自分の心の弱さが、無性に情けなく感じられてどうしようもないのだ。さっきは本当に、水面を見つめているうちに、自分がおかしくなってしまったんじゃないかと思いかけただけに、それのみすぼらしい姿を見ると、馬鹿馬鹿しい気持ちになってくる。
 というか、今まで池に誰かが住んでたなんて全く知らなかったぞ? オンはもちろんのこと、森の住民たちだって、こんなのを見かけたことはなかったはずだ。不手際か。
 オンはしたたかに水面を翼で打ち、威張り散らすそれを陸地の方へ吹き飛ばした。隙をつかれたそれは、甲高くて情けない悲鳴を上げながら、宙に舞い上がり、空しくもじたばた身を捩らせるが、そのとき、どこからともなくピジョンが飛んできて、そいつを頑強な爪でしっかりと掴んで、どこかへと運び去ろうとする。
「待て待て待て待て! ちょっと待ってくれ! 俺はまずいんだぞ、言っとくけど! そりゃ、みすぼらしい身分かもわからんけど! ちょっとは話を聞いてくれたっていいだろうが! 馬鹿! アホ! 間抜け! 変態! ナルシスト!」
 やたらとタフなそれは、自力でピジョンの爪から逃れて、ぐるぐると円を描きながら、大げさな水しぶきを上げて着水した。オンは顔からまともにしぶきを浴びた。