二次創作#とは、いったい

 エアプとか同人ゴロとか、二次創作界隈に身を置いていると時々そういう炎上話というのが持ち上がる。原作ミリしらなくせに、キャラの見た目だけでファンアート描くとか、そこはまだいいとしても本を出したりするとかで叩かれたりする。
 イライラすることはイライラするのである。二次創作の前提が原作への愛だと考えれば、そういう行為って原作の威を借りた売名に見えるから。とは言え、これはありふれた一般論で、わざわざブログに書き記すようなことでもない。それに、そういうので炎上するのは中堅どころの連中なわけで、同じようなことを大手がやってもあまり問題にされない。
 問題は逆である。じゃあ、二次創作をするためにはどれだけ原作をやり込めばいいのか。一周プレイして、内容もうろ覚えだけどキャラには偉く魅力を感じた程度のファンが二次創作してはいけないのか、という話である。
 自己弁護じみているのだが、自分は二次創作するなら原作を骨の髄までやりこむべきであるという考え方に対して、全面的には同意できない。まあ、根気も集中力もないエンジョイ勢的なプレイングしかできないから、というのもあるのだが。ものによるのかもしれないし、やり込むことで得られる視点を創作に還元できるのであれば、それでいい。愛があればこそやり込むことができるわけで、そういうのを否定するわけにもいかない。
 でも何だろう、原作へのアプローチの仕方って色々あるべきと思う。アプローチというか原作の「読み」みたいな、「歩き方」みたいなものは多様で、こう、開かれているべきなんだ、とか言ってみる。
 一つの視点に立つことは、当然別のある視点に立たないということであって、そうすることで何かがよりよく見える代わりに、何かが見えにくくなる、あるいは全く見えなくなる。どういう立場に立つかは自由だが、大切なのは、見えなくなるものに対する意識、なのじゃあないか。自分ができないことに対して後ろめたさを持っていること、ある種の憧憬を抱いていること。
 つまりは自分の殻に籠りすぎないこと、籠るにしてもちょっとくらいヒビは入れておくこと。原作へのアプローチが開かれているのと同じくらいに、自分自身も開かれてあること。
 ええと、何の話をしてたんだっけ。ああ、二次創作か。ま、要するにもっと「読め」っていう自戒です。アプローチだって、必要に応じて変えてもいい、それだけのことで。

思い立ったので@tos

 wikiの小説版過去ログのリンクが切れて久しいから、個人用にリンクを貼っておく。ついでに、資料用として他のポケエロ小説のリンクも

ポケモンのエロ小説まとめ→(http://pokero.x.fc2.com/

ポケモン同士エロパロ板まとめ→ (http://green.ribbon.to/~eroparo/contents/pokemon02.html

黒歴史反省〜エタらずに楽しく二次創作書くための7つの方法〜

 約15万字もの、エタなった黒歴史小説の実例をこのブログで示した。(『エターなるオンプテ小説』)
 自分は、HGSSからポケモンに戻ってきて、同時にケモナーも発症しており、その頃から二次小説書いてみてえなあ、とか考えていたわけである。しかしまあ、当時はいわば厨二病とでも言えばいいのか、いわゆる「文学病」を患っており、二次創作自体に斜に構えた態度を取っていたわけである。ただの、馬鹿ですね……
 その一方で、『ポケモン小説wiki』の作品群なんかを読み漁って、特に推しポケが出てきてなんやかんやしてるのを見てムフフとかやってたんだから、素直じゃない。ともかく、小説を書こうとする試み自体は、その頃から既にしていたのだった。2010年代初めのことである。けれども、書いては消し、書いては消しで全く小説として形にならず、そのうち投げてしまう。妄想ばかり逞しくして、ろくに創作に向き合うこともせず、虚しくpixivで推しの画像や小説を探して時が過ぎていった。しかもほとんどないし。
 勢いで遅すぎるtwitterデビューをしてから、久しぶりに創作をしてみようかと思い立ったのが、2019年の秋、関西けもケから帰った直後だった。ポケモンに出戻りしてからちょうど10年が経っていた。その頃から相変わらずポケモン好きのケモナーであり続けたし、一時期はポケモンが好きでなくなったらどうなんだろうなーとか考えて不安になったこともあったが、どっこい性癖はブレていない。
 まあ、これで1年と少し同人の真似事をしてきて、だいぶ交流もできるようになったしネット生活も安定してきたので、ようやく過去のアレだった自分を直視できるようになったのであった。そうすると、結構教訓めいた、それか自戒めいたことがいっぱい浮かんできたので、いつか二次小説を書くかもしれない誰か向けに、自分の経験とその記憶を元にして、いくつか書き残しておこう。

 

「エタらずに楽しく二次創作書くための7つの方法」


 1:むやみに長編を書いてはいけない

 最重要事項。以下の注意事項というのは全部、ここに繋がってくる。しくじった途端に長くなる。よくバズるツイートが言うように、「下手でも完成させろ」であるが、端的に言い換えれば、短く済ませ、ということである。個人的には初めは2〜3万字くらいを上限にすべき。その文量でも、意外と書きたいことは書ける。

 2:全てを書こうとしてはいけない

 何から何まで書こうとすると、書けなくなる。まあ、これをライフワークにするんだという気概があるなら別だが。部分で全体を表現するというスキルは大事。いかに楽するか、手を抜くか、妥協するかも一つの技量。

 3:意味もなくキャラを増やさない、設定も増やさない

 全てを書いてはいけないの亜種である。ノリで新キャラを出してはいけない。増やしたキャラに重要そうな役割を与えるのはもっとNG。筋が複雑になり、肥大長編化、エタへの道が開かれる。出すにしても、主役とエキストラのメリハリをつけるべし。番外編とか、外伝とかも、極力やめようね!

 4:意味もなく視点や人称を変えない、文体も変えない

 一度決めたスタイルは極力崩すな。意図のわからない表現は読者を混乱させるだけ。そのうち作者も混乱する。とかく視点変更はエタる作者がやりがちなのである(n敗)。一章ごとに変えるとかね。

 5:表現を無駄に凝らない

 文学を気取るな。「所詮二次創作」という気分でいけ。慣れないうちは、慣れていても基本は平易な表現を心がけるべきだと思う。書いているのは二次創作だし、そもそも小説だし、詩ではないのである。よって破格語法はNG。

 6:書きたいことに対して素直になる

 エロを書きたければさっさとエロを書けるように書け。ウジウジしてると上記の無駄な長編化に繋がり、エタるリスクも高くなるぞ! もちろんエロまでの導入は大切だけど、きもちあっさりめにするのがいい。というか、エロ書きたいなら、まず恥じらいを捨てよう……それ以外のジャンルにしても然りだ。

 7:独りで書かない

 ある意味、一番大事かもしれないこと。
 「ファン活動なのに孤独になってどうする。病むぞ」
 真理である。書くという活動をする以上、同じ字書きとの触れ合いは大事。馴れ合いだって? 外野に絡まれることが稀な字書き界隈では、そういうの、大事ですよ……


 色々書いてはいるけれど、要約すれば、「明晰な小説を書け」ということに尽きる。主題に向かってまっすぐに書き進め、意図の伝わらないような表現・演出は避け、何より簡潔に済ませる。場合によっては妥協も辞するな。書けないとこがあったって、どうせ次がある。
 ……こういうことは、誰かに言ってるつもりで、自分自身に言っていることである。また最近、文章が長くなり始めたので。

ダイパリメイク雑感

 深夜の「ポケモンプレゼンツ」で噂されていたダイパリメイクが発表された。
 リメイクに関しては、『ORAS』以来ずっと一部のファンが喧しく言いたてていたが、2016年に発売10周年を迎えて以降、一気に増えた気がする。中には発表会のたびに、公式ツイッターやら社長の垢に暴言を飛ばすやつまでいたから、はっきり言って顰蹙の的だった。
 自分としてはポケモンが3年周期の方針を取っている限り、過去作のフルリメイクは困難だし、出せたとしても本編が犠牲になって本末転倒だから(『ORAS』のためにマイチェンが出せずじまいだった『XY』のように)、リメイクはありよりのなし、仮にあるとしても剣盾ベースのリメイクにはならないだろうと思っていたので、『BDSP』のような限りなくリマスターに近いリメイクの仕方は妥当だと思う。もちろん、グラフィックの質の低さ、リメイクとはいえ初の本編外注、しかも開発元にとって全面的なゲーム制作が初めてときては、不安が全くないわけではない。今後の続報次第では荒れる可能性もある。

 そもそも、ポケモンの本質は「通信」と「対戦」である。まだ確定はしていないが、『BDSP』は『剣盾』の環境とは連続しない、『ピカブイ』のように孤立した対戦環境になりそうだ。つまり2006〜08年当時の環境をベースに、それ以降の追加要素を限定的に取り入れたものになるだろう、ってことだ。でも、そうした環境を2021年の今、やりたいかと訊かれたら、返答に困る。
 リメイクを求める層がやりたいのは、おそらく第8世代としての『DP』なのだろう。第4世代としての『HGSS』、第6世代としての『ORAS』のように。でも、そうはならないらしい、というのが『BDSP』の印象である。開発環境を考えれば、これがリメイクの仕方としては妥当なのは間違いないが、それならそもそもリメイクする意味などあるのかと考えれば、たぶん否になる。初代や『金・銀・クリスタル』のように、VCやベタ移植でいい、とも言えるし、何ならオリジナル版をやればいい、とも言える(動作が重いという欠点はあるにせよ)。
 現状『剣盾』未登場のシンオウ出身ポケモンが43体いるが、そのポケモンたちの新規グラが用意されて、『BDSP』から『Pokemon Home』なりを通じて『剣盾』へ送ることができれば、リメイクするメリットはあるかもしれない。クレセリアダークライを一緒にさせたい向きも多いだろうし、やっぱりディアルガパルキアギラティナとくればアルセウスも、となるし。

 

追記:「開発元がこれまでゲーム開発経験ゼロ」と書いていたが、スクエアやバンナムのゲームのグラフィックやムービーを手がけてきたということだから、全くゼロというわけではなかったのでニュアンスを変えておいた。

エターなるオンプテ小説(4/4)

 最後である。

 余談ではあるけれど、当時ポケモンの固有名詞を恥ずかしがってか、アルファベットの頭文字だけで表記していた。黒歴史だしそのままでもいいかと思ったが、さすがにもしこれを読むような人に解読の労までかけさせるわけにもいかないし、まあちゃんと名前を書き換えたわけである。とはいえ、見落とし表記は御免。

 これについてのコメントやら反省やら感想やらは後で書きます……

 

 52

「おお、ご無沙汰じゃないかい、兄貴」
「そうだったかね?」
「そりゃずいぶんの山ごもりで」
「ふむ」
「兄貴と私じゃ、時間の感じ方が違うからねえ。こっちの一日が、かしこじゃあ一年だ。兄貴なら、ジラーチにだってきっと会えちまうさ、願い事がいくら叶うかしれんね」
「湯はどうだい」
「ええ、ええ、ばっちりですよ、石炭は十分に摂ったんでね、まったく、神々もご照覧あれ、この噴き出す煙! って調子でして」
「じゃあ、温まろうか・・・・・・うむ、やはり久々に浸かる湯はよきかな・・・・・・」
「喜んでいただけて、嬉しゅうござい、ですなあ」
「して、わしが来るのはいつぶりだったか」
「んーっと、だねえ・・・・・・ああ、兄貴、プテラって子のこと、覚えてます?」
「ん、今、思い出した」
「その子が、オンのお遣いで来たとき、たまたま兄貴が温泉に浸かってたでしょう、それ以来ですな」
「そうだそうだ、確か、のぼせてしばらく伏せってしまっていたな・・・・・・」
「湯加減はちょうどいいですかい」
「結構結構」
「肩、お揉みしましょうか?」
「いや、結構」
「結構毛だらけ猫灰だらけ、お尻の周りはクソだらけっ、とな」
「その間に、何か変わったことはあったか」
「ええ、ええ。うちんとこの食料を管理してるカクレオンと、世間話をしたんですが」
「ふむ」
「しかしねえ・・・・・・これが、もう、面白くて、私にしちゃあ爆笑もんだ」
「何がだ」
「連絡自体は他愛ない情報交換ですよ。ただ、彼からオンのとこの近況ってやつを聞かされたんですよ。何だったと思います? ペラップが風邪を引いた、って言うんだ! はっはっはっは!」
「それが何故面白いのか」
「分かるんですな、風邪を引いたペラップってのが、いわゆる隠語ってことが、私には、経験上。あいつとは、なかなか長い付き合いがあるもんだから、傾向と対策ってもんは、一通り学んだつもりでいまして。なぜならばです、ペラップがぐずっている時にゃ、風邪を引いたと言い張って引きこもることが、往々にしてありまして、経験則で」
「それはつまり?」
「畢竟ね、誰かとのゴタゴタに決まってらあ。今回は、間違いなくオンの奴と喧嘩したってことですか。原因だって、すぐ分かる。どうせ、あの子の扱いを巡ってのもんでしょうよ。こないだここで喋ったときの様子からも、なんとなく察せられましょう。ペラップがかりかりしているのが目に浮かぶようだ」
「そういうものか」
「ええ」
「・・・・・・ああ、たまらんの」
「実のところ、彼には可愛いところがありまして。語弊を恐れずに言やあ、オンと似たもの同士とでも言いますか。まあ、さすがにペラップのことは、あまりからかいはしませんさ。私だって、一応弁解はしときますが! 卑劣漢じゃございやせんからね」
「ところで、オンの縄張りを荒らす者がいるという話は、どうなった」
「・・・・・・」
「ほれ、いつかオンがここへ来たときに。ひと月ほど前であったか」
「んん、今、思い出しました、いやはや、そんな話もありましたなあ、やれやれ!」
「戯れ言ばかり言うでない。知っているならば、包み隠さず伝えよ」
「それからも、ならず者は何度か、縄張りを荒らしに来たと聞いております。ですが、この間、縄張りにやってきたヘラクロスを池の見張りに雇ったんだとか。まあ、オンの奴、兄貴の助言に従ったというわけですな、珍しく素直な対応で」
ヘラクロス
「ええ。どうやらあのヘラクロスですな。喚くことかまびすしいことで、一帯で有名になってしまった。ただ、腕っ節は、あれだとツノっ節とでもいうんでしょうが、強いらしいとのことで。ま、いんでないでしょかね?」
「なるほど」
「やけにオンのとこにはご執心で」
「若いからの。老婆心というものがな」
「んなもん、あらずもがな、ですわな」
「・・・・・・」
「一遍、韻を踏んで言ってみたかったのですよ、はっはっはっはっは」
「ふむ」
「さて、私は、サウナの様子を見に行って参ります。兄貴、もちろん、入っていきますね?・・・・・・了解で、では、しばしごゆっくり」
 サウナをこしらえている洞穴へと向かう途中で、kは独り言をする。月の光が、kの周りを照らし出していた。
「やれやれ、オンに、ペラップに、あのプテラ、あの三すくみは、なかなかこじれてきておりますなあ! こりゃどこの地方の御三家も形無しではなかろうか。いや、御三家ではなくて、名に聞く三鳥か、三犬か、それかかつて陸と海を二分し大げんかした古代の連中でもあるか、シンオウ神話に乗っ取って時間、空間、反物質とでも例えようか。それかイッシュの神話を借りて、真実、理想、そして虚無とな。カロス的に、生と死と秩序なんて趣向はどうだろう? 不死、破滅、監視、とも言い換えられますかな?・・・・・・まあ言い出せばキリがない、とまれかくまれ、と飛躍を致そう。かくも事態はもつれておる。どいつもみんな、ぐだぐだとやっておりまする。ここにて、諳んじた一節をお耳に入れましょう、どっかの偉いヒトの書いたという・・・・・・こほん・・・・・・ええ・・・・・・智に働きゃあ角が立つ、情に棹さしゃ・・・・・・流される、・・・・・・むむっ・・・・・・意地を通しゃあ?・・・・・・窮屈だとかくにヒトの世は住みにくい、っと! よし! まったく、奴らの前でも聞かせたいもんだ、はっはっはっは!」
 そこへ、弟子のバクガメスが申し訳なさそうに、そそくさと割り込んでくる。
「親方! 独り言の合間に失礼しやっす!」
「ちょっと待て。私が気持ちよくしゃべっているってときに、首を突っ込むとは何だ、馬鹿者! 大体、何の前触れもなしに、いきなり出てこられても迷惑だわい・・・・・・分かってるのか!」
「あいすまねっす・・・・・・でも、ちょっと、取り急ぎで」
「はっきり言えい、はっきりと、何じゃい」
「サウナの具合が芳しくなくて」
「芳しくないのはおめえの顔じゃい。亀なのか竜なのかはっきりしないナリしおって!」
「・・・・・・あいすまねっす」
 サウナからは、もくもくと煙が立ち上っている。立ち上っているというよりは、植物がにょきにょきと生えてくるように見えた。コータスはさすがに思考が停まる。
「何だい、これは」
「煙が出すぎちまって」
「見りゃ分かるわい、そんなもん。なんでこうなったのか教えろっつうんじゃ」
「自分なりに工夫して、尻尾で甲羅を叩いてみたんすが、こんなことに」
「何が自分なりじゃ! わたしゃ、サウナを用意しろと言ったんだ。誰が窯を作れと言ったんだい。ピザでも焼くのか、刀でも作るのかっ、そんなもんどうあがいたってできんからな! 亀のくせに二本足で立ちやがって、ボケえっ!」
「・・・・・・それ、カメックスアバゴーラに失礼っすよ」
「アホなこと抜かしとらんで、水でも汲んでこい! まったく、こりゃ遠くからも見えるだろうが。とんだ騒ぎになるわい、こりゃ!」


 53

「それで、お前はプテラをあんな場所まで連れて行ったのか」
「ええ。それが最もふさわしい所だと私には思われましたから」
「ふさわしい、とは何のことだ?」
「せっかくですから。あのプテラの同胞と会ってもらおうと思いつきまして。実際に彼、大変関心を示したようですし」
「あの一帯はヒトどものポケモンが巡回していると私は警告したはずだが」
「それを度外視してでも、案内する価値はあったと私は確信しております」
 ヤミカラスはつとめて感情を表に出さずに答えた。そして実際、ヤミカラスの言葉には見事なくらい何の感情も込められなかった。それは単なる義務、陳腐な慣用句でしかなかった。街中から聞こえてくるアナウンス、音声ガイダンスのように人畜無害な。自分の言い分は、決して親分であるドンカラスや他の構成員に理解されることはないだろうという諦めが、かえってヤミカラスを気楽にさせた。
 プテラペラップが森へ帰っていった後で、ヤミカラスドンカラスのもとへ呼び出された。案の定、プテラを危険なエリアにわざわざ連れて行った件について、問いただされることになった。ヤミカラスとしては、答えるべき事は一つだけだった。それが有意義だったということ。何を言われても、最初から最後までそう言い張った。
「価値があるかどうかは、私が決めることではなかったか? 私が命じたのは、彼を街へ案内しろ、ということだけだ。危険がなかったからよかったものを、何事かがあってからでは、手遅れだ。首領が第一に心すべきこととはなんだか、お前に分かるか」
 ヤミカラスが答える暇もなく、ドンカラスは続けた。
「常々、最悪の事態を避けるべく振る舞うことだ。無論、我々は抗争となれば、命を賭けてでも戦うだろう。だが、よく肝に銘じておくがいい。戦いとは、即ち破局なのだ。破局を招くような首領は二流だ」
 そう言うと、ドンカラスキセルを口にして、じっくりと煙を吐いた。
「一流の首領は、巧みに戦わない術を心得ているものだ」
「承りました、親分」
 ヤミカラスは深いお辞儀をした。
「もし、お前の行動が我々の利益に反するのであれば」
 ドンカラスキセルを、ヤミカラスのクチバシの先まで突き出して、
「遺憾だが、ケジメをつけてもらうことになる」
 ヤミカラスは、キセルの先端の、まだ煙が立っているのを、無感情に見つめていた。
 二羽は向かい合ったまま、ずいぶんと長く沈黙した。ドンカラスヤミカラスも、どんな感情も示しはせずに、にらみ合っていた。暗闇を見つめているのも同然だった。
「お前には、もうしばらく森の偵察を続けてもらう。些細な変化でも見逃さずにこちらへ報告しろ。勿論、森の連中の争いごとには介入してはならないが。あくまでもお前のことを、一羽の部下として信頼する」
 ヤミカラスが応接間を出ると、扉のそばに側近が控えていた。ヤミカラスはそいつのことをよく知っている。どんな奴よりもうまく親分に取り入って、媚びへつらい、ごまをすり、こうして常に付き従う立場をつかみ取った、それだけの奴。これといって、嫌悪感も嫉妬も感じてはいない。ただ、ヤミカラスにはこの側近の虚栄心というものが、よく理解できなかった。
「いかがでした?」
 いかにも勝ち誇った目つきを隠しきれずに、側近はささやいた。
「親分は容赦なされましたか」
「それ、あんたに話す必要ある?」
 ヤミカラスは無機質に言い返した。
「左様ですか。しかしながら、はっきりと申し上げなければなりませんが、貴方の振る舞いは一家の者たちから一様に顰蹙を買っているのですよ。不用意な真似は禁物です。このままでは、さすがの親分も貴方を持て余してしまうことでしょう」
「左様ですか」
 ヤミカラスはわざと側近の仰々しい言葉遣いを真似て返事をしたが、相手はその皮肉に対して顔色一つ変えなかった。むしろ、自分の弱みを掴んだかのような、したり顔を浮かべられたので、ヤミカラスはつまらない返しをしたと、自分で寒気がした。
「左様! 実のところ、親分の温情がなければ、貴方は羽根を詰められているところだったのですからね。しかるに、いつ限度が来てもおかしくはありませんが」
 それには何も言い返さずに、にらみつけることもせずに、まるで元々そこにいなかったかのように扱って、通り過ぎた。屋敷内の廊下にたむろしている同胞たちは、彼から距離を取りながら、ひそひそとささやき合っていた。ちらちらとこちらを見るから、おおかた自分についての話なのだろうが、興味はない。
 晴れた朝だ。屋敷の連中は大半が寝静まってる時間だ。不眠持ちの不寝の番の一団だけが、屋敷の周囲に集まっていた。連中には目も暮れず、ヤミカラスは屋敷を飛び立った。はっとするような青空の中で、ヤミカラスの黒い体は異物のようだった。気分は悪くなかった。
 命令通り森へと向かうでもなく、街の上空をぶらぶら飛び回っていると、前からマメパトの群れがやってきた。マメパトたちはヤミカラスに気がつくと、いっそう忙しなく翼をばたつかせて、そばに近寄ってきた。
 チーッス!
 ん。
ヤミカラス兄さん、こんな時間に、お散歩っすか」
 先頭を飛んでいたのが先に声をかける。
「まあね。一応、仕事はあるけど」
 マメパトたちは、いつも10羽から20羽くらいの群れを組んで行動し、駅前の広場だとか、公園だとか、ヒトの集まる場所にたむろしては、勝手におこぼれを預かりながら生活している食えない奴らだった。そのくせ、いじらしさを呼び起こすような小ささと、つぶらな瞳と、豊満なハート型の鳩胸をうまく利用して、ヒトから可愛がられるのだ。ヤミカラスが出会ったこの連中は、とりわけ札付きなことで悪名高くて、ふてぶてしさにかけてはこの街で並ぶものはないかもしれない。ヤミカラスたちの間でも、話題に上ることがあった。
 ヤミカラスは時々、彼らと出会うことがあり、その度に一種の武勇伝としてどこそこの家やアパートの住人をカモにしたという話を聞かされた。純粋無垢な表情と口ぶりでもって、嬉しそうにゲスい自慢話をする様子を、むしろヤミカラスは気に入っていた。
「大変っすねー、ギャングの下っ端って」
「そーいや、このところヤミカラスさんとこ、穏やかじゃないっすね」
 先頭に付き従っている奴が口を挟んだ。
「ヒトさんクソ真剣になって面白かったですよ。撲滅大作戦とかぶちあげっちゃって」
「マジでウケたよなー、あれ! なんつーかさ、なにもかもが大げさなんすよね。まるでヤミカラスがいなくなったら、世界に永久平和が訪れるみたいな感じで。だから僕ら冷やかしで、ちょっと奴らの上をばさーっ、って飛んでったら、どいつもこいつも喜んでやんの。ね、ほら、僕らこう見えて平和の象徴じゃん?」
「ま、白くはないけどねー!」
 別の奴が口を挟む。
「そんで、ぽとりと糞落としたら、お偉いさんの袖にかかっちゃってもう大爆笑。でも、どうせならはげ頭のてっぺんにでも落としときゃよかったなー」
 マメパトたちが勝手に盛り上がっているのを、ヤミカラスは微笑を浮かべながら聞いていた。彼らの馬鹿馬鹿しさは、ヤミカラスの堅苦しさの遙か彼方にあって。
「実言うと、僕、あんま興味ないんだよ」
 ヤミカラスはさばさばと答えた。
「ウチのことも、ヒトのこともさ」
「あれ? これってもしかして裏切りっていう?」
「盗みに、裏切りってもう滅茶苦茶ロックじゃないっすかー!」
 マメパトたちがあまり大げさに囃し立てるので、ヤミカラスは苦笑いした。ふと、いつかどこかで読んだかどうか分からない、本か何かの一節が頭をよぎっていた。そこでは密接な関係を持つものとして、3つのものが挙げられていたっけ。それが確か、盗みと、裏切りで・・・・・・それと何だったっけか、忘れた。それに、そんなもの、どこで目にしたんだろうね?
「ね、ね、ヤミカラスさん」
 マメパトはその天真爛漫さを崩すことなく、それでいて相手に強く迫るように切り出した。
「僕ら、これからランド行くんだけど、一緒にどうすか」
売店の新メニュー、うまいらしいんすよ。今から行って、売店の周りで粘ってれば、誰かしらお人好しがくれますし。何だったら、隙を見て頂戴すればいいんですよ。僕ら何度もランド行ってやってきてますから」
 ヤミカラスはちょっとだけ考えた。森への偵察には行かなければならない。でもすぐに行くこともない。考えるまでもなかった。
「じゃ、僕も付き合わせてもらおっかな、暇だし」
「善は急げっすよー、ヤミカラスさん」
 ヤミカラスを加えたマメパトの群れは、ぎゃあぎゃあとたわいない冗談をまくし立てながら、目的地へと向かった。灰色をしたマメパトたちに混じると、ヤミカラスの黒い体は、何か大きな怪物の瞳のようになった。この巨大不明生物が暴れ狂い、この街の何もかもを破壊し尽くしてしまうという妄想。
 ヤミカラスはほくそ笑む。


 54

 ふらふらと、やっと、巣に戻ってきて、タブレットすら翼から、こぼれ落ち、俯せに倒れ込んだ。重たげに半開きにした目で上向くと、わずかに開けた空に、もう日中だから、鳥の影が見える。地を這うトカゲのような気分だ、自分自身が鳥であることを忘れそうになって。
 こすれる股の辺りが気になって、仰向けに寝返った。
 うっすらとした暗がりの奥にくっきりと見える青い空は、さっき彼の背中の上で四方八方から眺められたものなのに、今は宇宙の果てのように見えた。見れば見るほどに、自分が空の世界から見捨てられたように思え、次第に、自分の存在そのものが拒絶されたかのような錯覚が起こる。憂鬱が思い上がって、ペラップを苛むように暗い妄想を湧き上がらせるが、それがペラップにはかえって心地良いくらいだった。
 結局、私はまったくどうしようもない屑野郎なんだ、とペラップは思った。かつてのマスターにせよ、ドンカラスにせよオンにせよ、誰かの下にいなければまともに生きていくことすらできない、ひ弱な小鳥さ。それを理解しているくせに、支配されることに本能的に我慢がならない質だった。何にも束縛されずに、自分一羽で自由に生きたいという衝動が、性欲のように立ち上り、息も絶え絶えになることさえあった。鳥かごに飼われた小鳥のように、外に恋い焦がれ、悶え苦しみながらも、飼い主から与えられる餌を喜んで食べているような浅ましさを感じながら。だが、哀しいかな、私はたとえ自由になったとしても、夜になるとまた戻りたくて、いじらしく鳥かごの檻を翼で打つのだ。
 再び俯せになり、翼で頭を覆う。
 大体、そこのタブレットのおかげで、飛ぶことすら覚束ないではないか。これをヒトのように使いこなせる知力は、ペラップに特別な強みをもたらしてはくれたが、それだけだ。この薄っぺらい機械が、とてつもなく重い足枷になってしまっていた。パラセクトという種族は、ちょうどその辺にもうろついているやつがいるはずだが、進化前の時に背中に寄生したキノコに体を乗っ取られ、本体は一切の精神を失っているというが、今の私も似たようなものだな、と思う。私は生きているのではなく、常に何かに生かされているのだから。
 本当はこんなこと考えてはいけないのだ、とペラップは後悔した。ネガティブな思考は、ネガティブな効果しかもたらさないと、いかにも先輩面してオンに向かって言ったことがあったのに、すべてこちらにとんぼ返りだ。自分で自分をひっぱたきたい。くそっ! オンのもとに来て以来、何とか立ち直ってきたというのに。結局のところ、あいつがこんなところに迷い込んできたのが全ての!
 ペラップは、自分の心に憎悪のようなものが芽生えたのを察知して、どきりとした。細い脚が、段差を踏み外したときのように、反射的に痙攣した。悪意に対する、こうした敏感さに、ペラップは内心で苦笑いせずにはいられなかった。
 あれだけ信頼していたマスターのもとを離れざるを得なかったのは、ヒトの悪意を笑い飛ばすほどの冷徹さを持てなかったからだ。ドンカラスに十分過ぎるほどの好意を示されていたにもかかわらず、それを受け止め切れなかったのは、ひとえにペラップが良識を持ち過ぎたからだ。気の置けないオンとの関係がぎくしゃくしているのは、この森の掟にあくまでもこだわったからだ。過去から今に至るまで、ペラップにとっての災難は、すべて過剰な正義感から生じていたのだから、誰にせよ、他人に責任を押しつけるのはお門違いだ、そうじゃないか、と諭すように自分に言い聞かせてやる。
 しかし全然眠れない。また仰向けに寝返ると、下腹部が先ほどの感覚を思い出して、痙攣した。思わず身を捩らせてしまうほどに、ペラップは体全体が勝手に熱くなっていくのをどうすることもできなかった。そっと、恐る恐る翼で触れてみると、微かな湿り気を感じる。撫ではしなかった。羞恥心が興奮を抑えつけた。クチバシをめいっぱい開いて、新鮮な空気を吸っては吐きを繰り返し、気持ちが落ち着くまでこらえていた。
 とにかく! ペラップは、頭を切り換えようとする。あの子と街へ出向いた目的は一応達した。上等なタブレットケースが手に入ったし、モバイルバッテリーも貰った。それに、あの子の素性に関しても、ひとまず相談はした。ドンカラスの方から、奴の広範な情報網を駆使して、協力してくれることになった。プテラのようなのが飛び回っていれば、当然目撃した連中がいるはずだから、そいつらの証言を収集していけば、あの子の記憶を補完できるかもしれない、という推理だ。ネットにめぼしい情報がないなら、地道にやっていくしかないってことか。
 衝動がさっと走って、ペラップは巣の上でのたうち回った。それにしても! ドンカラスにすっかり言いくるめられてしまったものだ! つい、その優しさにそそのかされて、ウツボットに吸い寄せられる虫のように、いともたやすく身を任せてしまった。そのとき、過去のことと割り切ったはずのことが、何もかも、奔流となって、体の中へ流れ込むのを感じないわけにはいかなかった。悦びと同時に、哀しみも溢れた。ペラップの混乱する頭の中では、自分というものがドロドロに溶けていくイメージが、永遠に繰り返された。決して、そんなことのためにドンカラスのもとを再訪した訳ではなかった。しかし、自分の心の中に、ドンカラスに対する希望のようなものがあったことは、認めざるを得なかった。
 違う、希望という言葉遣いこそ、私の欺瞞の最たるものだ。ドンカラスならそう私を戒めるだろう。私がいかに行動するにしても、自分自身を率直に受け入れられないようならば駄目だ。でも、どうしても、出来ない。臆病さか、自尊心か、傲慢か?・・・・・・止めろ! こんな分析は、問題を無闇に先送りするだけだ。pには、考えることとは、結論を認めないことに他ならないと思われた。結論はとっくのとうに下されているというのに。
「ごめんくださあい!」
 明るい声に、ペラップは起き上がった。巣から下を覗くと、カクレオンが手ぐすね引いてこちらを見上げている。
「あれ? もしや、寝覚めがお悪い?」
「いや、大丈夫だよ。ちょっと待っててくれ」
 ペラップは平静に答えたが、カクレオンからは見えないように、思いっきり体を伸ばして、気持ちを落ち着かせてから、駆け足気味に地上へ降り立った。挨拶を交わすのも忘れて、カクレオンは早口でまくし立てた。
「こんな時分に大変失礼致しました、ですが、私、今、あまりにも気分が高揚してしまいまして、誰かに報告せずにはいられなかったのです、許されるものなら、腹からあらんばかりの声を出して、この喜びを皆さんに伝えてやりたいくらいなのです、というのも、今朝、いつものように、私め、木の実の計算をしておりましたところ、何やら、また新しいところに実のなっているのが見えたわけですよ、以前にもお話しした通り、この縄張りでは次々と珍種の木の実がなっております・・・・・・ところで、この間のオッカの実はいかがでしたでしょうか?・・・・・・そうですか! いえいえ、ペラップさんは特別ですから、いくら渡したって構いませんから、ですがね、驚くなかれ、今度見つけたものはそれ以上なのです、恥ずかしながら、私めも未熟にして、その名に聞きしとはいえ、実のところ、半信半疑でいた代物でありまして・・・・・・ええ、ええ! そうです! 今脇に山と積み上がったこれが、そうなのです、え、なになに? リンゴのようにしか見えないと? なるほど。しかしですよ、ペラップさん、これほど大きいリンゴを見たことがおありで?・・・・・・そうでしょう? ないでしょう? ペラップさんといえども、それは仕方ありません、何せ、これはその名の通り、セカイイチ、という名で呼ばれております品種でして、人間世界ではまず見受けられず、人気のない森のどこかで、それもきわめて限られた環境のもとでしか育たないのですから、そのセカイイチが、なんと、枝もたわわに実っていたのです! ですから私、初めはまったく我が目を疑った程でした、これはもしやダークライの仕業ではあるまいか、などと要らぬ勘ぐりさえ致しました、ですが、もちろん、そうではなかったのです、まさにセカイイチがここに! 夢ではなく! 断じて! しかもどっさり! 私め、今ほど、この仕事をしていて本当によかった、カクレオンという種族に生まれて本当によかったと、心から思ったことはありませんでした、かたじけないっ、ジーランス様! ウルガモス様! そして、この森の皆さんすべてにも感謝! ということで、記念としてセカイイチを一個、ペラップさんに贈呈致します、さて、オンさんも訪ねなければ!あっ! でも、今はまだ寝ていますから後回しにして・・・・・・ピカチュウさんなら大喜びするでしょうねえ!・・・・・・でも、今どこにおられるのだろう?・・・・・・やれやれ、とまれかくまれ、早くここの皆様にお伝えしなければ、そして同業者たちにも自慢せねば、一刻も早く! いやはや私もう我慢できません! 突然のところ、長々と失礼致しました! では、また!」
 煙のようにやってきたカクレオンは、また煙のように走り去って行った。自分の背の丈の数倍にも積み重なったセカイイチを抱えているのに、難なくバランスを取りながら運んでいく姿は、よくよく考えれば空恐ろしい。カクレオンの底の知れないエネルギーにほとほと呆れつつも、セカイイチを抱えるとあまりにも大きくて、前方を見ることができなかった。カクレオンの大声が、ガンガン頭の中で反響する。その音響に気圧されて、ペラップは一瞬、さっきまで何を考えていたのか思い出せなくなるほどだった。
 何気なく、セカイイチを一口囓ってみると、たちまち、今まで味わったことのない甘酸っぱい味が口の中に広がった。この味には、何か新しいものが感じられた。そう感じた瞬間、このセカイイチが、落ち込む自分を勇気づけでもしたかのような気がした。さっきまで何かと、深く思い悩んでいたが、そんなことするまでもなく、pはいま、この森で確かに生きているという、当たり前ではあるが、それ故になかなか実感の持てないことを、確信できた、と思った。
 過去はもう戻らないだろう、だが未来はどうだ?
 こうしていると、何も不可能じゃない気がしないだろうか?
 ドンカラスの言葉が、新しい意味合いをもって、再生された。


 55

 夕方、ボクが目覚めたとき、オンはまだ眠っていた。
 起き上がるときに、お腹の辺りを念のため触ってみるのが、習慣というか、癖のようになってしまった。毎日、というわけではないけど、油断していると忘れた頃にやってしまっているから怖い。さすがに、こう何度かやらかしていたら、そのうちオンにバレるんじゃないだろうか・・・・・・もしかしたら、もうバレてたり? なるべく、そんな恥ずかしいことは考えないようにしているけど。
 前兆のようなものがないかとボクは考えてみるに、気になることはいくつかある。大体、ぐっすりと気持ちよく眠った後に起こることが多いってこと。そういう時、目覚めはものすごく良くて、目をこすったり、伸びをしたり、あくびをしたりするということが全然なかった。
 それと、ぐっすり眠っているときには、変な夢を見ることが多いってのもそうか。変な夢? 変な夢としか言い様のないよく分からない夢。
 夢の内容を整理しようとしても、ボクは困る。だけど夢に出てくるのは、いつもボクとオンだった。ただし、ボクは夢の中で絶え間なく変化し続けている。ボクは一匹ではなく、複数であったり、かと思うと、石になり木になり水になり炎になり土になり空気になったりした。なにものでもなくなることすらあった。ボクは、あまりにも変わり続けるせいで、ボクがボクであるということが分からなくなってしまう。ボクはボクがボクだと考えている、だからボクはボクだ、普通、そうなんじゃないの? とは思うんだけれど、夢の世界では違っている。ボクがいくらそう信じ込んでいたとしても、そこではボクは蹴られる石ころ、根を張った木、飲み干される水、燃えさかる炎、踏みつけられる土、吸い込まれる空気に過ぎなかった。
 でも、夢の最後にはいつもオンが現れた。オンだけが、ボクがたとえ何に姿を変えていたとしても、ボクに気がついてくれて。やっと見つけた! そうオンが言った瞬間に、ボクはボクだと確信するのだ。そこで夢が終わり、ボクは目覚め、濡れている。
 幸い、今日は大丈夫だった。ボクはほっとする。ただ、街を往復した疲れが全然抜けきっていなくて、体が重い、まぶたも重い。今日の朝は、ymとeaのことを考えて全然寝付けなかったんだっけ、いったい、いつ眠りについたんだか分からない。そもそも、あんなに頭が冴えていたのに、よく眠りにつけたなあ、と感心してしまう。
 まだオンも眠っていることだし、ちょっとくらいは二度寝をしても大丈夫かな、と思って、体を丸めて眠ろうとするときに、ボクはちらりとオンの方を見る。今朝のオンは、いつもよりもすごくぐっすりと眠っている。なんせ、あくびをし始めたなと思いきや、すぐに寝ちゃったわけだし。
 そのときのオンの眠り方は、眠るというのではなくて、突然意識を失って倒れるようだったから、心配になってしばらく、体を揺さぶってみたりしていた。オンは全く起きそうもなくて、不安にはなったけれど、寝息は穏やかで、体のどこかにおかしいこともないようだったから、そのまま横にさせておいた。なんだか、オンのその眠り方は、ボクがおかしくなるときの眠り方に似ていなくもなかった。なんかこう、一気に体の力が抜けてしまって、地面にべったりと貼っ付いて動けなくなってしまうような。誰しも、時たまそういう深い眠りに襲われるってこと、あるのかな?・・・・・・そんなことを思っているとき、ボクはそれを見て。


 56

 まずった、と思った時には手遅れで、やけくそに一気に食ってしまったら、即効眠気が襲ってきた。なすすべもなく、オンは眠りに落ちて、夢とも知らぬ夢を見ることになった。
 そこにはオンと彼だけがいた。場所は、オンが暮らす洞窟ではなく、もっと狭い、岩場にできた巣穴のようなところらしかった。けれど、夢の中では誰も、そんなことは気にもならず、寝そべるようにしているのがやっとな窮屈な空間で、二匹は密接に抱き合っていた。オンは横たわる彼の上に、毛布のように覆い被さって、しつこくうなじに甘噛みをしていた。彼の苦しげな声が、オンの激しい息の合間に小さく漏れ、やめて、と彼は何とか言おうとして、喘ぎながら言うとそこに気息音が混じるせいで、「や」が「は」のように聞こえ、それがいかにも彼の方からオンを求めていると感じられたので、興奮しないわけにはいかなかった。オンの吸血のような口づけは、首から肩へ、肩から胸へ、胸から腹の方へずるずると下がっていったが、この空間は狭く、そのままの姿勢で後ずさりして、下腹部にたどり着くことが出来なかったからだろうか、仕方なくオンは顔を上げたのだった。やるせない気持ちが高ぶり、まともにものを考えることができなかったオンは、彼の顔をまじまじと眺める間もなく、捕食するようにぱっくりと口を開き、せがんだ。
 ねちゃねちゃいう音が、その世界全体に鳴り渡った。オンは彼の頭を捧げ持つようにしながら、狂おしく舌を絡めた。興奮が荒ぶっていくのに任せて、舌を口のいっそう奥へ挿し入れると、彼は激しくえずいて、身をよじらせて抵抗したが、それはかえってオンを意固地にさせた。オンは決して自分の口を離そうとはせず、舌の付け根の辺りが痛んでくるのも気にしないで、彼の口内の何もかもを貪り、味わっていた。彼が限界を訴えて、痙攣的にオンの背中にしがみついて爪を立てると、オンははっと我に返った。彼の目から、一筋の涙が伝うのが見えた。彼の瞳が恨めしそうにオンを見据えているのが見えた。オンは顔を離した。お互い、ほとんど動かせなくなった舌をだらしなく垂らしていた。オンの舌の先端から唾液が垂れ、彼の喉元に落ち、ゆっくりとうなじの方へ伝っていくと、それを舐め取るためにオンは口を近づけたが、そのまま彼の首下に頬を寄せると、長く深いため息をついた。彼もまたため息をついた。二匹の上がった息の音以外に、そこでは何の物音もしなかった。二匹だけの世界が、いつまでも続く、ように思われ。
 その興奮を引き継いだままオンは目覚めてしまったので、夢だと気がついた瞬間には、がっかりする。けれど、あれは夢というにはとても生々しいもので、そこで行われたことはほとんど現実と言ってもよかった。自分が密かに焦がれていたことが、ほんのわずかでも具体的な形で実現したのだから、そのことを思い浮かべると、ふと何かをぎゅっと抱きしめたくなるような幸せな感じが湧き上がってきた。
 オンは、舌の感覚を意識する。あれだけ舌を酷使していたはずなのだから、付け根の辺りに何か重しを乗せられたような痛みや張りを感じるはずだと、素朴に考えたのだったが、舌は軽快で、動かすと口の中で鞭のようにしなり、ぴしゃぴしゃと口の底を打つのだった。
 それにしても、とオンは考えてしまうのだが、夢の中の俺はなんでああまで舌にこだわってたんだろうな、あいつをえずかせるくらいに、喉の奥まで貪ってるってのは、俺の、その、胸が締め付けられちまうくらいに激しい気持ちの反映だとしたって、しつこすぎだろうが、もっと、夢ん中とは言ったって、やるべきことはあっただろうに、だいたい、なんで夢の中の俺は、あいつの腹のところでキスを止めてしまったんだ、横に体をずらせばよかったんじゃないのか、それとも、楽しみは最後にとっておこうとでも考えたのか、結局事は始まったばかりのところで、中断させられちまった、せめて、ほんの少しだけでもよかったんだ、夢なんだから、夢くらい見させてくれたって・・・・・・
 ところで、オンは体の違和感に気がついていないわけでは全然なかった。むしろ、気になって仕方なかった。しくじりにはしくじりが重なる。何が起きたかは明らかだ。夢精してるじゃねえか俺ぇ!
 ようやく、オンは体を起こした。辺りを見回す。彼はオンから少し距離を置いたところにいて、こちらからは背中を向けて横になっている。洞窟の外に出ると、日が沈みかけ、森は薄暗くなってきていた。幸い、今日からまた来るとか言っていたペラップの奴は、まだここには来ていない、来ていないな。それまでには、ちゃちゃっと体を洗ってしまわないとと、オンは翼で股の辺りを隠しながら、こそこそと池へ急いだ。
 何とか誰にも見られずにたどり着くやいなや、オンは池に勢いよく飛び込んで、苦々しく思いながら、汚れていた腹を擦った。股の切れ込みに爪が触れると、粘っこい精液がまとわりついて、水中でしつこく爪を擦り合わせても、まだ落ちずに残っていた。まじまじと自分の精液の粘り気を見つめて、気持ち悪っ、とオンは思ったが、同じ精液でも、あいつのは何のためらいも感じずに口にしたくせに、と自嘲する。しかも、ちょっとおいしいとか思ったんだぞ、ちくしょう。
 すぐに洞窟に戻る気にならずに、オンは池のほとりにあぐらをかいて、暮れゆく水面を眺めていた。無性に情けなくてしょうがない。俺はあいつが、それは絶対確実なことで、否定しようとしたって無駄だ、事実だし、現実だ、素直に認めるべきことだ。けど、俺は言い切ることができない、あいつのことを、その先の言葉、もちろん言うべきことは分かってる、だけどどうしてもそこから口が開かなくなる。こわい、臆病なんだ、意気地なしだ、卑怯もんだ、ったく。
 このまま、自分の思いをひた隠しにしながら、彼と過ごし続けることに、そろそろオンは耐えられなくなってきていた。今朝、うっかり食べてしまったために、例の木の実はいよいよあと一個だけになってしまった。オンは、この不可思議な木の実が尽きたら、腹を決めなければならないと思っていたが、そのときがこうしてにわかに近づくと、もううろたえてしまう。我慢してこいつをずっととっておけば、と思うのもつかの間で、自分の考えの浅はかさにすぐに気付く。それが木の実である以上は、いつか腐ってしまうし、だいたい、それまでにオンが使わないでいられるという想定が馬鹿げていた。遅かれ早かれ、彼に対する感情が、抑えの利かなくなるほどまでに高ぶれば、苦笑いしながらも、自嘲しながらも、そいつを彼に食べさせてしまうことだろう。
 素直になればいいんだ、とオンは暗示をかけようとする。結果はひとまず考えないでおけ。素直になるんだ。そうしなきゃ俺は、下手すりゃ一生苦しむ羽目になるんだから。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥、とか、ペラップに教えられたそのことわざみたいな感じで、どっちがましかははっきりとしてるじゃねえか。思い切ってしまえば、意外と簡単なもんだこういうのは、ほら、俺はあいつを。
 オンはクリムガンのように顔が真っ赤になったと思い、がむしゃらに首下の毛をかきむしった。興奮に任せて、腕の動きを早めるにつれて、オンの動作はわざとらしく、こわばったものになった。その姿が、まるでオン自身が近くから自分を観察でもしていたかのように、ありありと目に浮かんだので、ぴたりと動くのをやめ、恥ずかしさにうつむいた。脱力して、その場に倒れ込み、体をごろごろと転がした。それに飽きると、心を無にして、腹筋を始めた。腹が痛くて熱くなって、草の上に仰向けになっても、オンはしきりに腹の締まり具合を気にする。
 触って確かめるだけでは不十分で、オンは池のへりに立ち、水面にゆらゆらと映る自分の体を眺めた。両翼を水平に伸ばしながら、膨らみすぎない胸筋に、力を入れると浮かび上がってくる腹筋の陰影、胸から腹にかけてはきゅっと引き締まり、腰のあたりでぽこっとはみ出る脇腹を確認した。つり上がった胸筋に繋がる脇と腕の肉が、絞り上げられたようになっているのを確認した。とりわけ、胸筋と腹筋の境目に、くっきりと逆三角形に浮かぶ窪みをじっくりと観察した。
 急に、喉が渇いてきた。オンは四つん這いになって、顔を水面に近づける。不意に、鼻先にまで迫ってくる自分の顔を見て、動きが止まった。水が揺らめくせいなのだろうが、自分の目がやぶにらみになったように見え、一瞬、いよいよ俺は顔まで狂っちまったのかとぞっとすると、自分の顔が徐々にのっぺりとした顔に溶けていき、丸い目が二つ、瞳は点でしかなくなり、口は間抜けに開き。それは、何かをほのめかしているのでは、と、考えないではいられなかった。


 57 一人称・ボク

「なんだ、オンの奴いないのか」
「はい。ボクが起きたときには、いなくなってて」
「空中をお散歩か? まあ、今回は急ぎでもないからな」
 ペラップさんは、これまでよりも少し遅れて、すっかり夜になってからやってきた。しばらく来ないと、身に染みた習慣とは思っていても、感覚を忘れてしまうものだとペラップさんは言う。
「その、タブレットのカバー、どうでしたか」
「なかなかいい。ドンカラスのとこの奴らが、しっかりしたのを持ってきてくれたんだな。これなら多少の雨に曝されても、心配なしさ」
「モバイルバッテリー?・・・・・・も貰いましたしね」
「あいつは昔から気が利くからね。よかったよ、わざわざ街を訪ねて」
 心がむずむずするのを感じる。そこに嘘が混ざっているのは分かっているのに、口に出すわけにもいかない。だけど、ボクにとってのペラップさんの印象は、昨晩のことがあってから、取り返しのつかないほどに変わってしまった。ペラップさんがボクを疑っているのだから、ボクもペラップさんを疑わないわけにはいかないのだ。
 疲れているのか、珍しくあくびをしながら、ペラップさんが言った。
「そういえば、カクレオンのやつがここに来なかったか」
「ああ! ちょっと前に来て、セカイイチ、っていうのを何個か置いていきましたよ」
 そのカクレオンが来たのは、オンが一人洞窟をそそくさと出て行ってしばらくのことだ。ボクはその様子を実はこっそりとうかがっていて、眠ったふりをしていたのだけど、聞き慣れない声が外からしたから、起き上がった。ボクが洞窟から出てくると、そのカクレオンはぎょっと目を点にして、まじまじとボクを見た。ボクたちは互いに自己紹介をし合ったけれど、どこかよそよそしく、緊張した雰囲気になってしまった。これを私カクレオンが、持ってきたと後でオンさんにお伝えください、と言っただけで、カクレオンは逃げ去るように去ってしまった。
 その話を伝えたとき、ペラップさんが不愉快そうに目を細めたのを、ボクは見逃すことができないのだ。そのとき、ペラップさんは間違いなく、何かを考えた、たぶん、あまりよくないこと。でも、それをはっきりと問いただすことには、慎重にならないといけなかった。ペラップさんとの関係が壊れたら、たとえオンがいたとしても、ボクはここにいることに耐えられなくなるだろう。
「そうだった、お前が、カクレオンと会うのは初めてだったんだな。悪かったよ、やつに前もって事情を伝えておくべきだった」
「事情、って何のことですか?」
 なぜボクは口に出してしまったんだろう? 意識したのか、無意識なのか、ペラップさんの「事情」という言葉が、やけに嫌みたらしく聞こえた気がして、ボクは頭を小突かれたように感じ、かっとしてしまったのか。
 強い口調で聞き返されたからだろう、ペラップさんは、さっきのカクレオンと同じように、ぎょっと目を点にしてボクを見た。思わぬことで、ボクたちはお互いにひるんで、言葉も出なくなってしまった。
「ええと」
 ペラップさんは、やっと水から這い上ったかのように息苦しい口調で答えた。
「おまえがオンのところにいる、ということは話していなかったから、それをだ・・・・・・」
 ペラップさんができる限り、優しい口調でボクに話しているのはよく分かった。でも、どうしたって、言葉の裏に垣間見えるペラップさんの本心を意識しないわけにもいかない。分かってるんだ、もうそれくらい。
「ごめんなさい。ちょっと、引っかかっただけなんです」
「いいさ。私もつい明晰でない話し方をしてしまったんだから。むしろ、尋ねてくれてありがたい」
 落ち着きはしたけれど、話すべきことがなくなって、黙り込んでしまった。
 ボクはオンの、さっきのあれのことを考えるようになる。ボクが知らぬ間に、何度も起きていたことが、たぶん、オンにも起こったのだ。でもボクはそれを見て、正直驚いてしまった。オンは寝ているのに、そこで勝手に事が起こったのだから。息を殺して、ボクはその一連の光景を観察していたわけだけれども、へー、こんな風にアレがああしてああなったんだなー、という好奇心と、でも、これって一体何なんだろう、という疑念がないまぜになっていた。ただ、アレはボクだけではなく、オンにも起こるんだ、とそう考えれば、特に不安がることではないことになって、それは安心だ。そうは言っても、とうていうかつに口にできる話ではないというのも何となく分かっていて。またあんなことになったらイヤだな、とは思う。
 ボクもペラップさんも、ちらちらと洞窟の入り口の方を見やる。オンはまだ帰ってこない。たぶん、ボクの時と同じように、池に体を洗いに行ったんだろうから、そろそろ戻ってきてもいい頃なのに。
「あの、ペラップさん」
 ボクはやっとのことで、話しかけることができた。
「せっかくですから、この、セカイイチ食べていきませんか?」
「えっ、ああ、いや、私は」
「食べましょうよ」
 ボクはセカイイチを二人分、胸に抱えて持ってくると、ペラップさんに片方を差し出す。
 ペラップさんは渋々ながらも、受け取った。
 セカイイチは、一口かじったら、舌の上で小さな氷のかけらのようにじんわりと溶けていき、それと一緒に、他の木の実では感じたことのないほど、甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。心の底から、初めてだと言える味だった。少なくとも、ここに来る前のボクが食べたことがないものであることは確かだ、そう思った。
「これ、すごく美味しいですね、食べたことない味で」
 ペラップさんは、黙々とセカイイチをかじりながら、目を伏せて、相変わらず考え事をしているような様子をしている。
「ああ」
 それは、ボクに答えているのか、ペラップさん自身に言い聞かせているのか、分からなかった。
「とても美味いよ」
 もしかしたら、どっちでもあるのかもしれない。
 ボクは適当にうなずいておき、今度はセカイイチを口いっぱいに頬張る。ボクが新しくなったように感じていく。ある手応え、ボクがこの森の暮らしで、前のボクとは違うボクに変わっていくという、今のボクに、ここにいてもいいんだと、励ましてくれる何か、ボクがかつてなんであったにしても。
 ボクは今の今まで、目の前で起きることに対して、実は困惑ばかりしていたことを、つくづくと感じる。何もかもが、新鮮なことであるはずなのに、何故か懐かしかったり、親しみ深かったりさえする、変な感情。この森も、街も、オンも、ペラップさんも、コータスさん、バンギラスさん、ピカチュウさん、ヘラクロスさん、ドンカラスさん、ヤミカラスたち、エアームドとか、初めて会ったはずのみんなも、それはただ姿形だけが変わっただけで、ボクがかつて、どこかで、経験していた何かの繰り返しに過ぎないような、そんな気が。その何かは、今の生活を通じて、存在を感じ取ることができるだけだった(そしてボクはその何かをはっきり認識しなければいけないという義務感に、焦っている)。
 けれど、このセカイイチの味は、そんな過去の面影とは無縁だった。だからこそ、口にした瞬間から、ボクはボクがふにゃふにゃした状態から抜け出して、くっきりとした輪郭をもったボクに生まれ変わりつつあるのだ。
 それがボクの思ったことだった。とはいえ、これで終わりなんかではなく。あくまでも、長い長い冒険の始まりでしかないこともボクは意識している。ボクが一体どこから来たのか、という問題に、いよいよ向き合わなくては。取り返しがつかないところまで来てしまった気がした。でも、遅かれ早かれ、これはやってくるものだったんだ。ボクは今、カントー地方への第一歩を踏み出した、まさしく。
 ボクはうずうずし始めた。今すぐにでも、街へ、あの場所に行きたかった。ボクの痕跡について、何か少しでも手がかりが得られるのなら、どんな面倒だってこなしてしまえそうだ。だけど、こんな時によりにもよってだけど、オンが戻ってこないうちは、ボクはどうにもできない。まずは、ボクの決意をオンに伝えないと。それにしても、オンが出て行ってからかなり時間が経ったんじゃないか、その間にボクはpさんとおしゃべりをして、セカイイチを食べている余裕すらあって。いくらなんでも遅すぎな気が。
 ボクはもう食べ終わってしまった。ペラップさんはまだ、黙々とついばんでいる。さっきから、ほとんど食べ進んでいない。一口食べては、ボクには見えない何かを見つめながら、物思いに沈んでいるように見える。セカイイチを受け取るときの、ちょっとためらいがちな素振りからして、あまり食欲がなかったのかもしれない。
ペラップさん、もしかしてお腹いっぱいだったりします?」
「ん。そうだな・・・・・・とてもうまいんだが、いかんせん、私みたいな小鳥には量が多すぎてな」
「無理しなくても大丈夫ですよ。余った分、食べてもいいですかね?」
「ああ。もちろん」
 ペラップさんの分のセカイイチを、ボクは夢中でがっついた。いくら食べても、飽きのこない味というか何というか。セカイイチを食べて感じた気持ちの高ぶりは、とても忘れがたいものだったから、いくらでも食べてしまえそうだ。これは、ボクにとって、すがることのできるものになったわけで、それは確かに頼りないものに違いないかも分からないけれど、あるとないとでは大違いって話だ。ボクがボクであるということに、ちょっと自信を持てるようになったわけでもあるし。今までが、ずいぶんあやふやであった分、大きな一歩になったのは間違いないんだから。


 58

 それはオンの目の前に、水面から堂々と突き出していた、顔を、といっても大半はぼうっと開いた口で占められていて、しかも少々間抜け面で。そのくせ、やたらと誇り高く傲慢な様子をしているのが、オンの癪に障る。
「何だお前?」
「何だお前って!・・・・・・言うまでもねえじゃんかよ?」それは、口を馬鹿でかく開いて、破裂しそうなくらいに息を吸い込んで、力を溜め込んでから、一時の間を置いて、あらんばかりのエネルギーを込めたつもりで、叫び返す。「俺こそが、この池の主なんだからな!」
 オンはしばし腕を組んで考え込んだ。考えるというか、当たり前のことを確認するだけではある。まず、この池の主は、森の掟に乗っ取れば自分だろう、こいつなんかじゃない。そいつはすごく当然のことだと思う。そして改めて、目の前のそれを見つめて、ほんの一瞬でも、こんなものに心を乱されそうになった自分の心の弱さが、無性に情けなく感じられてどうしようもないのだ。さっきは本当に、水面を見つめているうちに、自分がおかしくなってしまったんじゃないかと思いかけただけに、それのみすぼらしい姿を見ると、馬鹿馬鹿しい気持ちになってくる。
 というか、今まで池に誰かが住んでたなんて全く知らなかったぞ? オンはもちろんのこと、森の住民たちだって、こんなのを見かけたことはなかったはずだ。不手際か。
 オンはしたたかに水面を翼で打ち、威張り散らすそれを陸地の方へ吹き飛ばした。隙をつかれたそれは、甲高くて情けない悲鳴を上げながら、宙に舞い上がり、空しくもじたばた身を捩らせるが、そのとき、どこからともなくピジョンが飛んできて、そいつを頑強な爪でしっかりと掴んで、どこかへと運び去ろうとする。
「待て待て待て待て! ちょっと待ってくれ! 俺はまずいんだぞ、言っとくけど! そりゃ、みすぼらしい身分かもわからんけど! ちょっとは話を聞いてくれたっていいだろうが! 馬鹿! アホ! 間抜け! 変態! ナルシスト!」
 やたらとタフなそれは、自力でピジョンの爪から逃れて、ぐるぐると円を描きながら、大げさな水しぶきを上げて着水した。オンは顔からまともにしぶきを浴びた。

エターなるオンプテ小説(3/4)

 続き。

 大文量を一度にコピペしたせいか、改行がおかしくなっている箇所があるかもしれないが、まあエタなった黒歴史小説なので……

 

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 ちくしょう、何てこった! 木の実一個もありゃしねえ! カスさえ残ってなかった・・・・・・全部ここいらのろくでなしどもがかっさらいちまいやがったんだ・・・・・・ったくろくでもねえ連中だあいつら! どいつもこいつも! 好き勝手ばかりで! 相変わらず秩序ってもんがなかった! まさに無法地帯だった・・・・・・ここいらの連中は自分が生き残ることしか考えちゃいないんだ・・・・・・ちょいと茂みに潜れば、いくらでも死骸が転がってた・・・・・・それこそゴミみたいに捨てられてる・・・・・・腐ってるのも、まだ死にたてなのも・・・・・・糞やションベンみたいに放っぽかれてる・・・・・・餌の取り合いに負けたのや、ワケもなくくたばってんのが・・・・・・いずれにしてもひどい有様だった! してそいつら目がけてどっからかグラエナが蛆みたいに湧いてくる・・・・・・奴らいつも徒党を組んで・・・・・・ケツにはポチエナもくっついて・・・・・・お陀仏んなったコラッタ、ラッタ・・・・・・なりに糸目も付けずがっつくんだ・・・・・・時にはそいつら同士で喧嘩し出す・・・・・・こいつらにもそれなりにはルールってのがあるらしい・・・・・・首領が生意気な奴にかみつく!・・・・・・反撃!・・・・・・こいつますますいきり立った・・・・・・吠える!・・・・・・威嚇!・・・・・・のしかかり!・・・・・・かみくだく!・・・・・・のど笛かっきろうと・・・・・・力を見せつけてやろうと!・・・・・・でも下の連中も黙っちゃいなかった・・・・・・いつだって下克上したがってるんだこのやくざども・・・・・・瞬く間に! 一転攻勢! 形勢逆転! うめき声、喘ぎ声、遠吠え! 醜悪な!・・・・・・けど、結局首領が一番!・・・・・・ぶちのめされ、服従のポーズ!・・・・・・胸突き出し・・・・・・舌をだらり・・・・・・時には下まではみだして・・・・・・ 虫たちが、鳥どもが、物陰からこっそり窺ってる・・・・・・余り物はせしめてやろうと・・・・・・中にはヤミカラスみたいに平気で奪い取ろうするのもいるが・・・・・・すると、餌巡って喧嘩してた連中、手のひら返し、結束し、戦い・・・・・・けたたましい音とともに、毛が飛び散る、羽根が舞い落ち、草葉が舞い上がって、ぶわあっ!・・・・・・さあっ!・・・・・・どん!・・・・・・grどもが勝ちゃあ、ついでに鳥肉もせしめられるが・・・・・・大抵はヤミカラスは狡猾に逃げ切ってた!・・・・・・こっそりと混乱から抜け出して、グラエナどもが興奮して飛びかかり、ぶつかり合ってるその上で、得々と肉をついばんでる・・・・・・したり顔で・・・・・・不敵な笑み・・・・・・にんまり・・・・・・やがては眼中になくなり、突然明後日に首を向け、さっと飛び去った・・・・・・間抜けども、相変わらず意味のない戦いを続けてた・・・・・・見えないものと・・・・・・分からないものと・・・・・・誰かが気づく・・・・・・いない!・・・・・・いつの間に!・・・・・・群れは静まりかえる・・・・・・冷静になった・・・・・・辺りを見回し、嗅ぎまわり・・・・・・そのうち納得する・・・・・・沈黙!・・・・・・吠える!・・・・・・奴らはっとして余った肉塊を見る・・・・・・そしてまたぞろ争い出す・・・・・・脳が溶けてやがるんだ・・・・・・ 誰かの目が行き届いてなけりゃ、すぐにでもこうなっちまうわけだった! 野生の連中なんて所詮こんなもん!・・・・・・どいつも自分が一番大事・・・・・・とまあこんなとこで俺は生きてるけど・・・・・・ときたま反吐が出そうなことはあるっちゃある・・・・・・でも強ければ・・・・・・この鎌で!・・・・・・ちょいと脅しつければ・・・・・・こいつがあれば!・・・・・・刈って、掘って、始末して、なんでも!・・・・・・これでも俺は満足はしてた・・・・・・我が物顔に振る舞ってた!・・・・・・鎌を大手に振るいながら・・・・・・立派なのを見せつけながら・・・・・・時にはかまととぶったのと一発かまし!・・・・・・これでもまあ充足はしてた・・・・・・中にはこっから縄張りを作り出していくやつもいるが、俺はどうでもよかった・・・・・・だいたい、俺は根っからの悪党だった・・・・・・それは俺が一番自覚してた・・・・・・いかさま野郎・・・・・・優しさなんてひとかたまりも・・・・・・思いやりなんて考えるだけで!・・・・・・ぞっと!・・・・・・秩序! 仲間! 絆!・・・・・・そいつら俺の首を締め付け!・・・・・・へし折ろうと!・・・・・・企み謀って・・・・・・畜生! 黙れ! 失せちまえ! だが、水が! これが問題になった!・・・・・・あのコウモリのせいで池を手放しちまってから、喉の乾きを何とかするのは一苦労になってた・・・・・・あそこはここいらじゃ貴重な水辺だった・・・・・・湖なんか遠いし、それにことごとく縄張りが築かれてた・・・・・・それも確固たる・・・・・・だからあそこは欠かせない場所だった・・・・・・それに俺なりに思い入れってのもあった・・・・・・俺だってしんみりすることだってあるんだ・・・・・・思いを馳せるってことが・・・・・・あのコウモリ・・・・・・コウモリなんだか竜なんだか!・・・・・・キマイラ野郎が!・・・・・・それからだここのやくざどもイナゴみたいに木の実を食い荒らしてくようになったのは!・・・・・・今じゃそれが水代わりってわけだ・・・・・・環境が厳しくなると奴らいっそう陰険に、自己中心的に、排他的になっていった・・・・・・脅しだってここんとこ効き目が・・・・・・何せこいつら生きようとしてる!・・・・・・冗談じゃなく!・・・・・・本気で・・・・・・いつもいつでも・・・・・・おずおずなんてしなかった!・・・・・・ここで退いたら死だと言わんばかり! おかげで少々面倒なことになった・・・・・・何を得るにもいちいち戦闘しなくちゃなんなくなっていた・・・・・・そりゃ連中屁でもない・・・・・・屁でもないが・・・・・・余計な手間かけさせやがって! あの池に忍び込める時間は限られてた! 夜中はあの野郎、ずっと遠くから耳をひそませてやがった・・・・・・敵に対しちゃあいつは俺以上にケモノだった・・・・・・部外者には水一滴だって飲ませたがらないんだあの化け物は!・・・・・・だからこっそり入るなら昼間だが・・・・・・それだって隙はわずかでしかない・・・・・・大体誰かしら水を飲んでた・・・・・・それにあそこは格好のたまり場にもなってて・・・・・・一度たむろしだしたらなかなか出てかない! しゃべりまくってるうちにまた喉が渇いて、また飲む! おしゃべる! 立ち替わり入れ替わり!・・・・・・延々と・・・・・・そうこうして日が暮れ! 夕去れば! あいつのお出まし!・・・・・・となりゃ、一番安全なのは夜明けだった・・・・・・あいつが眠りにつき、他の連中が起き出すわずかな時間・・・・・・虫だから朝には強いし・・・・・・意を決して池に駆け込んで、口を水に突っ込む!・・・・・・そりゃありがたいもんだ! 俺は無我夢中で飲んだ・・・・・・一滴だってこぼしたくなかった・・・・・・できるもんなら、池が涸れるほど飲んでいたかった! ただ、な、それにしても・・・・・・こうして跪いて、頭を低くしてなんてしてると、まるで土下座してるみたいだった・・・・・・次第に俺は屈辱的な気持ちになっていく・・・・・・心から自分が恥ずかしく、情けなくなってくる・・・・・・まるであの野郎の足下にひれ伏してるようにすら思えてきた・・・・・・水をペロペロしてるのが、やがてあいつの足でも舐めてるみたいに錯覚する・・・・・・俺はおぞましくなってきた!・・・・・・ここだって前は俺が好き勝手してたのに! それが今や! こうでもしなけりゃろくに飲めやしないなんて!・・・・・・だがどうせ、俺が狂気にでも駆られてそういう真似をしたとして、どうせあいつは俺を受け入れるなんてしないに決まってる!・・・・・・陵辱させまくった挙げ句、ぼろ切れみたいに放り投げるさ! くそっ! 飲まずも、飲むも地獄だった! でも、臥薪嘗胆! 堪え忍んでりゃそこそこいいことはあるもんだ!・・・・・・全体的にゃ、俺は気分がいい方!・・・・・・全てが俺にとって良い方向へと突き進んでるように思える! それに比べりゃ、あんな外道、ゴミだ・・・・・・フッと吹きかけるだけで、四散しちまう憐れな奴だ! 俺はもっと広大なんだ! でもさしあたっては、木の実だ!・・・・・・忘れてたわけじゃない!・・・・・・ただ一足遅かっただけだ・・・・・・奴ら実ったそばから食い散らかすもんだから・・・・・・木の排泄物を大口開けて喜んで待ち受けてて・・・・・・肉便器ってわけだった・・・・・・あいつら何にも気づいちゃいないだろうが!・・・・・・無法地帯じゃよくあることだが・・・・・・まあいいさ! 木立の中に、オーロットの奴が蠢いてる・・・・・・ちょっと、話し相手でもしてやろう! ちょっとは、木の実も持ってるかもしれないし!

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 ボクは暗闇の中、横になっている。それはとても確かなことだ。でも、とても真っ暗なせいで、ボクはあらゆる感覚を一時的に喪失している。ボクはどこにいるのか、どんな体つきをしているのか、どんな姿勢でいるのか、といったことがすべてあやふやになっているかのようだ。普通に考えれば、ボクはオンの洞窟にいて、プテラという種族の体格をしていて、地べたにうずくまるようにして眠っている。当たり前のことだ。ただ、何も識別できない闇の中で、目をつむっていると、そうとは知りながらも、ボクは果てしないくらいに独りなんだと感じる。まるで、この時だけ、ボクはあらゆる繋がりから切り離されてでもいるかのようで。束縛から解き放たれて、自由で、どこまでもきりがないくらい。 バカみたいだとボクも思う。考えすぎというものだ。実際には、ボクは寝ているだけなんだから。たったそれだけで、ボクの世界が一変するなんてことはありえない。そんなことで変容するほど、世界というのが単純じゃないなんて、こんなボクでも理解できることだ。ボクは世界に対して何でもない、けれど、だからといってボクはなんとも思わない。むしろ、それこそが素晴らしいことなんじゃないか! この森に暮らすみんなも、きっと言葉では言い表せなくとも、同じようなことを感じてるに違いない。 けれど、起きていることと眠っていることとの間の、この不安定な境目にいると、ボクはついボク自身について思いを巡らせてしまうのだ。ボクはボクがなんであるのか、相変わらずうまく説明することができない。オンは別に気にもしていないみたいだから、ボクだってそこまで真剣に思い悩んでもいない。たぶん、ボクというのは、誰かから尋ねられることのない限りは、存在しないものなんだ。だから、ボクはあくまでもボク、と言っているけれど、実際にはボクですらないのかもしれない。ボクはボクであることを、大して意識もしなくなっていた。 言ってみれば、ボクが漂っているのは、現実とそうでないもの(夢、というべきなのかもしれないが、それにはまだ達しないまどろんだ意識も含めて)が絶えず入れ替わる流れのまっただ中なのだった。(そうでなければ、どうして今、ボクの意識はくっきりとしているのだろう?) ボクはそこへ沈み込んで、溶け込んでいくのを感じる。ボクは当たり前のボクではなくなり、どんどん分解され、細かな粒が偶然に寄り集まって出来た集合体に過ぎなくなった、と思える。そこではどんなことだって可能だった。ボクは何だってありえる。というか、ボクがボクである必要はなく、たった一つの存在である必要すらないのだ、ここでは・・・・・・ ボクは俺で、俺はボクだった。ボクはどうやら横になっていて、俺は少し離れたところからボクを眺めている。ボクと俺は異なるものでありながら、同じものだと感じている。ボクは俺を通してボクを眺めているし、俺はボクを通じて俺に見つめられている。 俄に、暗闇はかき消え、くっきりとした空間に変わっていたが、それはどこであるとも言いがたかった。あるときはオンの洞窟で、あるときはオンの池やkさんの温泉のそばであったりする。ボクは俺の姿をはっきりと見る。全くボクと同じ姿をしている俺には、ボクが少し困惑しながら俺を見ていることがはっきりと分かる。でもボクは、俺が何を考えているのか、まるでボク自身のことのようにはっきりと分かっている。俺は、ずっとボクのことを探していたんだ、靄のかかった幻覚の世界を彷徨いながら、ボクを。俺のこれまでの苦労を、ボクはちゃんと分かっていた。なぜなら、その苦労はボク自身の苦労でもあるのだから。でもボクと俺は、近くにいながら、無限のような隔たりを感じている。俺はボクに近寄りたい、しかしなぜだか全然前へ進むことができない。体が凄まじく重かった。足をほんの少し上げるだけでも、永遠のような時間がかかった。一方で、ボクも立ち上がって、俺のもとに駆け寄りたいが、金縛りにでもあったかのように、全然、指一本持ち上げることさえできなかった。 俺がボクのそばにたどり着くまでに、おそらくボクの目覚めが先に来てしまうに違いなかった。そうしたら、また最初からやり直しだ。また、ボクが俺のいるこの幻覚に現れる、不確かな瞬間を待たなくてはならなくなる。 ボクと俺が出会えるのは、この奇妙な幻覚とでもいうしかない空間だけなのだ。それはちょっとおとぎ話めいてもいる。気まぐれに変化し続ける背景の前で、ボクと俺は対面し、強く意識し合った。けれど、ボクは俺が何者か、俺はボクが何者か、そもそもボク自身が、俺自身が何者なのか、全然分からなかった。あるのは、ボクが俺で、俺がボクであるという先天的な確信だけで、とにかく一緒にならなければ、何も始まらない、そうボクは、俺は、思うのだ、ぼんやりと、でも強く! 俺は、時間が残り少なくなってきたことを予感して、ボクに呼びかけようとする。ボクには、俺が口を開く前から何を言うかが分かっている。聞こえるか?! 俺だ! 早くおまえのそばに行きたい。そうすれば、何かが分かるはずなんだ・・・・・・ボクは答える、うん、そんな気がするよ・・・・・・俺にもそれがよく聞こえた。だから、早くこっちへ来てよ! なぜだかわかんないけど、動けないんだ・・・・・・俺だって動きたいのに体が言うことを聞いてくれないんだ!・・・・・・頼む・・・・・・ずっとそのままでいてくれ! きっとそっちへ行く! 話はそれからだ! 一緒になるんだ!・・・・・・でも、ボクは俺の言葉が次第に遠のいてくるのを感じずにはいられない。ボクはまた深い眠りに沈んでいく。俺は必死にボクに向かって叫んでいる、眠らせまいと、必死になって。 突然、俺は誰かに後ろから殴られたような衝撃を感じ、ばたりと倒れ込む。ボクは俺の意識が薄れていくのを感じた。同時に、ボクの意識もそのまま、ここからすうっと遠のいてしまうのをどうすることもできなかった。・・・・・・ ボクは再び独りになっている。今度は、空に浮かび上がって。仰向けの姿勢で、翼をはためかせていなくても、ボクは悠々と空を漂っていた。遙か上空には月が輝いていて、とてもキレイだ。穏やかな風がボクの体をくすぐる。何かに優しく抱きしめられているかのようで、気持ちが良い。ボクの体は、風船のように軽々としている。風は少しずつボクを上へ上へと吹き上げていった。ボクはこの上ない解放感を感じ、このままどこまでも、天まで昇っていけるとさえ思っていた。 けれど月に近づくにつれて、ボクの翼はドロドロとし、次第にポタポタと灰色の水滴となって地上へ垂れ始めた。月光のなんとも言いようのない力が、ボクの翼を溶かしてしまったらしい。両翼を奪われたボクは、瞬く間に下界へ転落してしまった。何日もの間、ボクは落ち続けたように思えた。速度はいや増し、自分が雨粒にでもなったかのように思った。ついに、ボクは地面に墜落した。衝撃の余りに、ボクの体は潰れ、石灰色に濁った水たまりになってしまった。ボクは声を出そうとするが、もはやどこから声を出せばいいのか分からない。 濁った水たまりになってしまったボクの上を森の住民たちが通り過ぎていった。誰もボクのことには気づかない。時々、水たまりに目をとめて、どうしてここだけこんなに濁っているのかいぶかしがるのもいるけれど、結局は大して気にすることもなく立ち去ってしまう。その中にはペラップさんもいた、コータスさんもいた、バンギラスさんもいた。ボクは長いこと、そのままにされていた。早くしないとボクは蒸発してしまいそうだった。 そのとき、オンがボクのそばに現れた。オンは素通りしそうになったものの、ボクの方を二度見すると、じっと水面を覗き込んだ。ボクにはオンの好奇心に満ちた瞳が、一際大きく見えた。鼻がピクピクと上下していた。耳も感情の起伏に従って、震えていた。オンは五感でボクのことを感じ取ってくれていた。ボクは思わず赤くなった、水たまりが赤くなることがどういうことか、全く分からないけれど。でも、オンはそれをもしっかりと感じ取ってくれていたんだ。「やっと見つけた!」 オンはそう水面で囁くと、音を立ててボクを飲み始めた。うっすらと赤みを帯びた舌が、ボクを舐める。ボクはあらゆる気持ちよさを同時に感じた。感じたこともない快感に串刺しにされ、打ちのめされた、何も言えなくなった。そうしてボクは少しずつオンの体に取り込まれていった。オンは我を忘れたように、ボクを味わっている。舌で舐めたり、口で吸ったりしながら、オンはボクの一滴すら逃さまいと躍起になっている。一口ごとに、ごっくん、喉を大きく鳴らしながらオンはボクを飲んだ。 最後の一滴まで飲み干したら、オンは深くため息をついた。ボクはすっかりオンの喉からお腹の中に収まっていた。そして、オンの体中に循環していくのだろう。ボクは暗闇の中で、これ以上ないくらいに幸福な気持ちでいた。オンのささやきが、体内にもこだましてきた。「ああ、美味しかった!」 夕方、目が覚めると、また体が汚れていた。あの時と全く同じだった。とはいえ、ボクは前ほどには狼狽していなかった。オンがまだ眠っているのを確かめて、体を洗いに池へ行った。今まで見ていた夢?・・・・・・のことを考えていた。長く、複雑な夢だ、幻覚なのかもしれないけれど。いったい、どう考えたらいいものか困った。俺というもう一人のボクのこと、そして、水たまりになったボクをオンが飲んでしまったこと。でも、こんな光景をいつかどこかで見たことがあると、ボクはなぜかはっきりと確信している。でも、それ以上のことは何も、思い出せなかった。ボクがこの森へやってくる以前のことのように、目に見えないものであるかのように。

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 予報によれば、この辺はまもなく雨が降ってきてもおかしくない。ペラップタブレットを守るために、雨宿りの場所を探し回っていた。オンの洞窟以外となると、雨からすっかり身を守れる場所はけして多いわけではなかった。オンとは先日喧嘩をした手前、顔を出しにくい。あっさりと顔出しをしたら、あの口論はなんだったのかという話になる。 当分の間、ペラップとオンとの間のやりとりは彼に任せることになっていた。ある日、彼がペラップのもとを訪れて、そのことを伝えて来たのだ。天気のこととか、縄張りの治安とか、お互いの知る情報は彼を介して交換し合った。お互いほとぼりが冷めて、もう一度話し合う気になるまでの措置だ。もちろん、こんな状態をいつまでも続けていくわけにはいかないとは、ペラップも、おそらくはオンだって分かっている。ただ、しばらくは互いの顔をまともに見ることはできそうもなかった。一秒だって耐えられないだろう。 様子を観察する限りだと、彼は相変わらず、何も知らされていないようだった。ただペラップの体調がよくないからとオンは説明したみたいだ。とはいえ、そもそもこの状況を引き起こしたのは、紛れもなく彼の存在だ。健康に気をつけてくださいね、と彼に気遣われると、おまえに言われたくないよ、と心の中でつぶやかずにはいられなくなる。屈託のない彼の笑顔を見るにつれ、もどかしい思いが募っていく。 彼は、オンからと言って、木の実をいくらか袋に詰めて持ってきていた。辛みのある実が多めに入っていた。あいつはあいつなりに気にかけてはくれているらしい。それはわずかながら安心材料だが・・・・・・ ちょうど大きめの木を見つけると、その陰に潜り込んで雨を待った。おおむね予報の通り、太陽がちょうど真上に昇った頃に、雨が少しずつ降り始めた。次第に強く、土に打ち付けて炸裂する雨を眺めながら、ペラップは木の幹にもたれかけた。両翼でタブレットは大切に覆い隠した。雨だとタブレットは全く使えなくなる。こんな機器を使うことが想定されていない場所なのだから当然だが、それにしてもペラップは手持ちぶさたになってしまう。この手の機械は水に弱いから、どんなことがあったとしてもおちおち水にさらすことはできない。ましてや雷だったら大変である。ということは、ペラップ自身も雨の間は一歩も木陰から出られないということにもなる。もはやこのタブレットは、ペラップの体の一部と化していた。 普段だったらオンの世話になっているところだから、これまでこういう状況はあまり考えてはきていなかった。しょうがないことではあるが、雨があがるまではここから一歩も動けないとなると、ほんの少しこの機械の板が鬱陶しくなるのだった。これを持っていると、その多大な利便性と引き替えに、野生の暮らし方の多くを犠牲にしなければいけなくなるのだ。 たとえば、飛ぶ、という鳥にはありふれた行動がとりにくくなる。飛ぶとしたら、必然的にタブレットを足でがっちりと掴んでいなくてはならないが、ペラップの足ではおぼつかない。それに、足に結構な重みがかかるわけだから、羽ばたきの力加減にしても、空中での姿勢の取り方にしても、普通とはだいぶ変わってきてしまう。こういうわけで、枝に飛び乗るだけでも一苦労だった。たとえタブレットを足で掴んだまま、うまく飛ぶことができたとしても、足が塞がっているわけだからすぐには枝に飛び乗ることができない。タブレットをうまく、枝の付け根のところに立てかける必要が出てくる。それもまたかなりの注意力を要する。もちろん、タブレットを置くことができる十分な幅があることが前提だった。長い距離を移動するとなれば、鳥でありながら、誰かの協力がなければ不可能だった。コータスのもとを尋ねるときには、オンの背中でも借りないといけない。 自分のような者が文明の利器を手にするということは、危うさもまた孕んでいることを、ペラップも十分理解してはいる。タブレットを持ち、その使い方を熟知しているとはいえ、ペラップは所詮ペラップであるに過ぎない。それなのに、ペラップとしては本来あるべき生活が、こうして制限されている。ペラップは文明の世界でも、野生の世界でも、中途半端な立ち位置に置かれている。どちらにも所属しており、そのせいで、どちらにも所属しきれていないという不思議な立場だ。そのような境遇を持ったペラップにとって、オンとの関係がまさしく死活問題になるのは言うまでもない。 オンとの信頼関係がこじれたことで、ペラップはそのことを強く意識せざるをえなくなった。目に見えるものは一緒でも、立場が変われば、その見え方は一変してしまう。親しく感じられたものが急にそうでなくなり、逆のこともまた同様だった。 雨の中からカゲロウのような輪郭が浮かび上がっているのが見えた。それはそそくさと、ペラップの前を横切っていくが、ピンク色のギザギザ模様だけが不自然に浮かんでいる。「おい、君」 呼び止められると、その透明な影はぴたりと動きを止め、踵を返し、ペラップのそばに近づいた。じんわりと、黄緑色の体が浮かび上がってきた。「あ、どうも、ペラップさん。ご無沙汰じゃあないですか」 正体はカクレオンだった。雨水に擬態して、あたかも透明な姿で森を徘徊していたのだ。カクレオンという種族は、ほとんどが縄張りの経済に携わっており、それが何なのかといえば、縄張り内の食料の管理がそれにあたる。食料とは、そのまま木の実のことを意味する。縄張りにとっては、木の実の数こそがその勢力の大小を左右する。そこで、住民が木の実を取り過ぎて食糧不足に陥るのを防ぐために、カクレオンに縄張り全体の木の実を管理させているのだ。彼らカクレオンは、毎日、一帯の木の実の数を数えては、その増減を記憶する。もし木の実の数が少なくなってくれば、縄張り中に摂取制限を取らせる権限まで握っていた。その手のやり繰りに関しては、なぜだかカクレオンの連中はみな優れているものだから、自然と、彼らは森中の縄張りの食糧管理を一手に担うようになったのだ。 そのうえ、彼らのネットワークでは、食料だけではなく、それぞれの縄張りごとの近況や、ゴシップまでがやりとりされているので、他の縄張りの話を知りたければ、カクレオンに尋ねるだけで、どんなことでも教えてもらえる。「ああ、お久しぶり」「雨宿りですかい」 カクレオンは木の葉の裂け目からのぞく雨雲を見るともなく見やった。「さすがに、ペラップさんは察しがいいですなあ。そのタブレットというのは、話に聞いてはいたが、やはり万能なのですね」「木の実の様子はどうだい」 ペラップ儀礼的に尋ねた。「この頃は大変育ちがいいようですよ」 とカクレオンは自慢げに答えた。「クラボ、カゴ、モモン、チーゴ、ナナシ、ヒメリ、オレン、キー、ラム、オボン、この辺りの基本種はみな堅調に実りつつあります。さらにいいことには、突然変異でネコブ、タポル、ロメ、マトマの実もなり始めていますね。これは、このエリアに木の実が豊富に繁殖していることの証でもあります。いい循環がもっといい新しい好循環を生み出しているというわけです。また最近では、オッカやイトケなんかも見られるようになりました。あなたもご存じの通り、人間の世界では大量生産されている種ですが、野生のものはなかなか珍しい。これらの実も順調に育っていけば、とても重宝しますよ。食用でももちろん結構ですが、薬としてはさらに有能なものですから。もしかしたら他にも新たな種が実っているかもしれませんねえ。私といたしましても、大変鼻高々です!・・・・・・」 カクレオンは短い両腕を高く掲げて、体を清めでもするかのように、一身に雨を浴びた。「この雨の恵みによって、さらに実が実るでしょう! 今から、私、数え直すのが楽しみでたまらなくて・・・・・・!」 ペラップカクレオンの止めどない話に熱心に耳を傾けていた。カクレオンの話といったら、商売人の面目躍如とでも言うように、もっぱら木の実の話ばかりではある。カクレオンは、他の地域の数値を引き合いに出しながら、オンの縄張りの環境がいかに豊かであるかを雄弁に語っていた。いつもなら辟易してしまうところなのだが、今のペラップはその長話を聴いて、むしろ心が温かくなった。ためらいも邪念も一切ない語りは、一つの出来のいい音楽のようにペラップには響いていた。自分の務めに忠実で、無垢と言ってしまえるほどに素朴な誇りをもって臨んでいるカクレオンの姿が、ペラップにはうらやましい。病人が、健康な相手に大して抱く強い羨望の気持ちだ。カクレオンのようでありたいと、思わずにはいられない。だがそれはまだ可能なのか?・・・・・・私は野生の純粋さから、取り返しも付かないほどに遠ざかってしまったのではないか?・・・・・・雨の降る音と、カクレオンの声の重なりは、pを今まで考えたことのないような思索へと沈めていった。「どうしましたか? 調子が悪いのですか?」 カクレオンは、ペラップの表情がにわかに重々しくなったのを察知し、すかさず尋ねた。「いやっ! いや、すまない。」 とはいえ、ペラップは上の空だった。いろいろな思いが頭に去来していた。ふと、ピカチュウのことを想い、特に用事もないけれど、雨が止んだら会いに行きたいと思った。オンとも、もう少ししたら改めて会って話をしたいと思った。互いの気持ちを分かり合うことができれば、きっと大丈夫だ、何せ、長い付き合いなのだから。そして、彼の問題。森にいて情報を集めているだけでは、いい手がかりを得ることは難しそうだった。「風邪を引いたらしい。雨というのは、やはり苦手だね。頭もぼうっとするし、寒気も走るし」「いやはや、お体には気をつけなければ、ですよ」 カクレオンは愛想良く相づちを打つ。そして、ペラペラと話を続けた。 タブレットを雨から守るためのカバーがあればな、ペラップはふと思った。

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 ペラップがそのように居心地の悪さを感じ始めていたように、オンにもまた微妙な心境の変化が起こっていた。 そばにいるとあれだけ口うるさくってならなかったpが、急に頼もしくありがたい奴と思えるようになってきた。一人で冷静にペラップの忠告を振り返ってみれば、それはいちいちごもっともだった。けれども、それを素直に受け入れることはできそうもなかった。実際、ペラップとまた顔を合わせるようになれば、頑なな心がまたぞろぶり返してくるんだろう。この振る舞いが、そりゃあ好ましいものなんかじゃないってことは十分、分かっているのに控えることもできない。もどかしい悩みだった。 しかし何につけてもあいつのことが頭によぎる、よぎってしまう。考えるのをやめようとすると、かえっていっそう考えてしまう。考えれば考えるほど止まらなくなっちまう。 高ぶってしまった気持ちを我慢することはもうできなくなっている。オンにできることといえば二つに一つ、陰でこっそりと空想に浸りながら自分のを慰めてやるか、手持ちの実で眠らせた彼を慰み者にするか、どちらかだった。今度もまた、彼を深い眠りに落とした。そして日の沈む頃までけっして目覚めることのない眠れる彼を、狂ったように眺めて過ごした。オンの振る舞いはだんだんと大胆になり、彼の体の敏感なところをさりげなく、しつこく、丁寧に撫で回す。それで彼が目覚めなければ、手さばきはいっそう過激になる。 彼のが無意識に立ちあがり、絶頂にさえ達すると、溢れ出た液体を手にとって舐める。それが彼から出たものというだけで、水よりも美味いと思えるのだから我ながらおかしい。ただしそれはいつも、というのではなく、一種の恵みだとオンは考えることにしていた。恵まれればありがたく受け取るが、無理に乞うものでは決してない。一応、オンは自分なりに一線を引いてはいたのだ。 だから、こんなことをしていてもオンは決して満ち足りない。いくらそのように彼を愛そうとしての、オンの気持ちが伝わることはいつまでもないに決まっている。そのことはオンを痙攣しそうなほどに身悶えさせる。だから、満たされない部分は、自分自身で補っておくしかない。そのためには、実現の見込みのない想像をしながら、せっせと耽る。 寝る前に、今にも暴れ出しそうな体を抑えようと、駆け込んだ木陰で脚を開き、自分の雄を扱きながらオンが思うことは、これを彼の大きな口や、尻尾の付け根にちょこっと走るあの切れ込みの中へ入れてやりたいということばかりで。淫らな想像は日に日に支離滅裂に、荒唐無稽なものと化していくのだった。それがどのようなものであったとしても、おそらくはオンが今まで経験したことのないくらいに、気持ちがよくて、幸福感に満ちているのは間違いないと思った。 もし、彼が自分と同じように感じてくれるなら、なおさら! それにしても、なぜこうも遠回しで、傍目から見れば馬鹿げてるとしか思えないことをしているのかといえば、相変わらず、オンの中で欲望と良心がいがみ合っていたからだった。雄が雄に真剣に欲情するということに対して、なおも心の整理がついていなかった。この気持ちは、嘘偽りない、純粋で、一途なものだってことは知りすぎるほどに知っている。 けれども、オンはこの愛情を恐れてもいる。オンが抱え込んでいるものは、下手をしたら俺の世界を一気にひっくり返してしまいかねない危ういものだと気づいていたから。俺にすら受け止めきれないことを、ペラップや他の仲間たちが理解なんてしてくれるもんなのか? それは俺の立場にふさわしいことなんだろうか? いや、何より彼だ、やっぱり彼だ、彼が一番問題で。もし他のみんな全員が俺の想いを認めてくれたとしてもだ、彼に拒絶されたらもうおしまいだ。その可能性をほんの少しでも想像しただけで、オンは絶望しそうだった。 縄張りの主としての自尊心と、彼への悶えるほどの想いとの板挟みになっているせいで、オンはひどく倒錯した行動に駆り立てられている。おかしなことは百も承知だ。でも、自分の欲望を最低限満たしつつ、周囲に体面を保っているには、こういうことをするしかないんだ、悪いか!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!! 高ぶっていた感情がふっと途切れると、にわかに空しさと恥ずかしさがわき上がってきて、オンはいたたまれなくなり、すぐさまいつもの大樹のもとを飛び回りに行った。上空の涼しい風を浴びながら、飛行姿勢を安定させることに心を集中させ、気持ちを落ち着かせた。ねぐらに戻ってくると、オンはさっきまでのことを考えて一人肩をすくめた。最近はもっぱらこの繰り返しな気がする。ペラップとはしばらく顔を合わせていないだけに、日々の時間はいっそう平板になっていた。 ペラップとの連絡は彼を介在させて続けてはいるが、さすがにずっとそんなことをしているわけにはいかない。オンがここまで来ることができたのは、ペラップの助言は欠かせなかった。ペラップの冴えた洞察力、それとタブレットを使った情報収集能力は、この世界にあっては唯一無二のものだ。俺はそいつにどれだけ助けられてきたか分からない。本当は、こんなことでぎくしゃくしていいわけがないのに。 なるべく早いうちに、仲直りをしておかないといけないけれど、さて、どう話をつければいいのか、相変わらず決めかねていた。まず第一に、なぜオンは彼をそこまでして自分のもとに引き留めておくのか、ということにもっともらしい理由を付けなければいけない。オンはあれこれと、理屈を捻り出してみるが、どれもpに通じそうには思えなかった。あやふやな屁理屈ならば、容赦なく論破されて終わりだろう。そしたら、状況がいっそう危うくもなりかねない。すっかり袋小路に陥っていた。俺が何とかしなくちゃいけないのに、一人ではどうにもならなそうだった。 こうしていい考えが浮かばずに、また一日が過ぎてしまう。次の日もまた次の日も、そして次の日も、とどめにもう次の日も・・・・・・死体蹴りか。 オンは洞窟の中で寝っ転がった。難しい問題を考えていると、頭が痛くなり、まぶたが重くなる。まだまとまりのない思いが心の中によどんでいたが、それも気づかぬうちに闇の底へ消えてしまった。眠っているのか、起きているのか、オンには曖昧だった。時間の感覚さえ、どうでもよくなっていった。

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 カクレオンの長話が終わり、雨がようやく止む頃には、日がほとんど沈みかけていた。ペラップは、タブレットを脇に抱えて、森の中を歩き始めた。脇のもう片方には、去り際にカクレオンにおすそわけといって、半ば押しつけるように渡されたオッカの実が挟まっていた。記念にいくつかとっておいてしまうくらい、カクレオンは嬉しかったらしい。ただ、ペラップはまだお腹は空いていなかったから、食べる気にはならない。でもこうして小脇に挟んで持ち歩くと羽根がふさがって面倒だ。といって、カクレオンの厚意を無駄にしてもいけない。 ペラップは池へと向かった。あの喧嘩以来、オンとの連絡は彼を通じてするということになっていたが、連絡役の彼と会うのは、日暮れ頃にあの池のほとりということに決めてあった。それはちょうどオンと彼が目覚めて活動し始める頃おいでもあるから、互いにとって一番都合がいい。その場所で、ペラップタブレットから得られる情報を彼に伝える。時たま、彼はオンからの差し入れと言って木の実を手渡す。それから、近況を報告し合って別れる。手短なやりとりだった。「あっ! こんにちは、ペラップさん」 彼は早いうちから池へやってきていたようだ。岸にぽつんと佇んでいる灰色の彼は、この風景には場違いな岩石のように見える。「やあ。遅れてしまって悪いね」 ペラップは型どおりに挨拶をする。「そんなことないですよ。ボクがちょっと早く来すぎてしまっただけで」 彼はそうせずにはいられないかのように、手を組み、両翼をこすり合わせる。「早く目が覚めちゃって。それにすごく喉も渇いてたし」「あいつはまだ寝てるのか?」「ええ。ぐっすりでしたよ。でも、そろそろ起きたのかな?・・・・・・それはそうと、もう元気になりましたか、ペラップさん」「小康状態だ。今は元気だが、もうしばらくは様子を見なければな」 きっぱりと答えながら、ペラップは苦々しい気分だった。「そうですか。早く回復するといいですね! オンも早く元気になったペラップさんに会いたいって言ってましたよ」 にこやかに彼は言ったが、こんなことをぬけぬけと言える彼のおめでたいほどの無邪気さは、ペラップを苦笑いさせた。ペラップが病気だということを信じ込んでいるのは、彼ただ一人だ。ペラップは病気の振りをして、オンはそんなペラップを心配している振りをしている。自分たちがこんなことになっている原因が、彼自身にあるということなど、思いもがけないことなのだろう。とはいえ、彼ばかりを責めたってどうにもならないことはペラップも分かってはいた。 一番の問題はオンだ。なぜ、このどこからやってきたのかも分からない奴に対して、いつまでたっても煮え切らない態度をとり続けているのか、なおも理解しかねた。そのせいで、この子はこの森の一員になりきれないのだ。 さっきもカクレオンが木の実談義の合間にふと漏らしていた。「それにいたしましても、この頃縄張り内でプテラのようなものを見かけるようになったのですがあれはどのような・・・・・・はあ・・・・・・へえっ?・・・・・・ははあ、なるほど・・・・・・いえいえ、私としたことがこれまで全く存じ上げなかったものですから。プテラなど話には聞いたことはあれど、こんなところで見るなど思ってもみませんでしたから。てっきり、以前オンさんから知らされていた部外者のことかと疑って、私としたことが、震え上がって透明になっていました! はははは・・・・・・」  ペラップと彼は決められたとおりに情報を交換し合った。さっきの雨が止んでからは、当分いい天気が続くことになっていた。オンにも、彼にも、ペラップにも、変わったことは何もなかった。「それとだ」 ペラップが声を張り上げると、一本の木ががさごそと揺れて、黒い影が落ちてきた。ヘラクロスだ。「は・・・・・・はいっ!!」 ヘラクロスは直立し、ツノをピンと突き立てた。「そこまで畏まらなくてもいい」「そんなところにいたんですか、ヘラクロスさん」「は・・・・・・はい」 ヘラクロスは恐縮する。 ヘラクロスはオンとの契約通り、池の近くの木を住みかにして、池の往来を見張っていた。小心者ではあるが、仕事ぶりは堅実で、池にやってきた住人の数、その種族、滞在時間まで正確に記憶していて、ペラップをえらく驚かせた。まるで池に監視カメラでも設置しているようで、外の世界で旅をしていた頃には、こういう機械が通りや街のあちこちに置かれていたっけなと、ふと昔を懐かしんでしまうほどだった。「そして、少し前に、プテラさんがやって来て、それから、ペラップさんがやってきた、というわけです」「そうか。ご苦労」 ペラップはさっきカクレオンから貰って手持ちぶさたにしていたオッカの実を取り出した。「褒美というのではないが、これを貰ってくれないか」「申し訳ありません! 僕は蜜しか食べられないんです!」 妙に毅然とした口調で、断られた。「そ、そうだったか」 ペラップは困惑して、翼にのった木の実をじっと見つめた。ヘラクロスが偏食家だとは、聞かされていなかった。ピカチュウもそんなことは話していなかった。まだ縄張りで暮らし始めたばかりとはいっても、ヘラクロスにはまだまだ思いがけないところがありそうだった。「なら、おまえにやろう。少しは腹の足しにもなるだろう」 と言って、ペラップは押しつけるように木の実を彼に渡した。「あ、ありがとうございます」 彼は受け取った木の実をしっかりと握った。 ヘラクロスは二人に馬鹿丁寧なお辞儀をすると、住みかの木の茂みの中に戻っていった。 いつもなら、二人も自然に別れるのだが、今日はペラップがなかなか別れの挨拶を言い出さなかった。彼の方も何も言えずに黙り込んでいた。 ふと、ペラップは決然として彼を見上げた。「なあ。ちょっと私に付き合ってくれないか」

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 飛んでいる間も、ペラップさんから貰った木の実をずっと掴んでいないといけなかった。それに背中にはペラップさんが乗っかっているから、飛行中の体勢にはいつも以上に気を配る必要があった。スピードもあまり出せない。 ボクはペラップさんから、外の世界に用事があるから背中を貸して欲しいと頼まれたのだった。ペラップさんはタブレットをいつも持ち歩いていて、それを持ちながら飛ぶことはできないからだそうだ。でも、それならオンのところに預けていけばいいんじゃないかとボクは思っていた。外の世界から小物を持ってくるときには、よくそうしていたからだった。でも、ペラップさんはタブレットを持っていくことにこだわっていた。「今回の用は、どうしてもこれがないといけなくてね」 まあ、ペラップさんがそう言うんだ。ボクが口を突っ込むことでもないんだろう。 出発する前に念のため、オンに伝えに言ったのだけれど、オンは寝床でぐっすり眠っていた。まだ起きていないなんて意外だった。たぶん、疲れているんだと思う。ボクもわずかながらではあるけれど、オンを取り囲む状況を把握できるようになってきていた。結局、オンのことを寝かせたまま、ボクはペラップさんと出発してしまった。 ペラップさんから貰った木の実、何となく持ってきてしまった。このまま持っているのは面倒だけれど、洞窟に黙って置いていっても、オンが戸惑うのではとちょっと考えてしまったのだ。どうしようか、グズグズと迷っていると、どんどん時間が経っていった。こうしている間にも、ペラップさんがボクのことを待っているわけで、ボクは焦る。けれども、考えて答えが出てくるようなことではなかった。ボクがどちらかを思い切って決断しないといけない話だった。 はやく! ペラップさんそう急かす声が聞こえたような気がして、ボクはぎょっとして、木の実を握ったままペラップさんの待っている池に戻って来てしまった。 いま、ペラップさんはさっきからボクの背中で、大事なタブレットを操作しているようだった。何かを叩くような音が、微かにボクの耳に入ってくる。「いやあ、森を抜けると電波が段違いだ。常に5本! ピンと立ってくれている。久々の光景だなあ・・・・・・ああ回線速度がみるみると上がっていく・・・・・・普段もこのくらい快適に接続できればいいんだけどもなあ。携帯会社は圏外をなくすとずっと前から意気込んでいたが、まったく、この辺りに鉄塔一つでも建ててくれればそれこそ劇的に変わるはずだが・・・・・・」 らしくなく独り言なんか話している。ボクに話しかけているのかもしれないけれど、たぶんそうじゃないだろう。だいたい、ボクにはペラップさんの言っていることがほとんど理解できない。「おっと。方角がずれているぞ。もっと北の方・・・・・・え?・・・・・・ああ、もっと右に頭を向けてくれ」「わかりました」 ボクは言われたとおりに方向転換する。「よし。しばらく真っ直ぐ飛んでいれば、そのうち街というのが見えてくる」「街?」「ヒトが群れ集って暮らす、広い土地のことを言う」「ヒト・・・・・・」「意外だな。おまえは、ヒトを知らないのか?」「なんだかピンと来ないなあ」「だが、おまえは外の世界からやってきたんだろう?」「たぶん、そうなんだと思うんですけど」 ボクはよくわからなかった。 ペラップさんはしばらく黙り込んで、タブレットをいじった。「まあいい。とにかく、大きな建物がたくさん立ち並んでいる街が見えてきたら知らせてくれ。そこからは、私が細かく指示を出すから」「わかりました! 任せてください、ペラップさん」 ペラップさんはまた黙々とタブレットで何かをし始めた。ボクもボクのことに集中する。でも頭の片隅では、さっきのヘラクロスさんのことを考えずにはいられない。そうか、池にはヘラクロスさんがいるんだった。

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 森の夕暮れ時、ピカチュウは晩ご飯のために腕一杯の木の実を取ってきた。木の実を持って帰る途中で、倉庫番カクレオンと出会ってしばらくおしゃべりをした。カクレオンは相変わらず機嫌が良かったのとピカチュウが可愛らしかったのとで、ピカチュウに特別な木の実をいくつも贈った。おかげで住みかに帰ってくるまでは、綱渡りをするように慎重な足取りをしなければいけなかった。 無事に住みかへ戻ってきたら、ピカチュウは両腕を胸元にぐっと引き寄せながら、体を屈めた。すると、ピカチュウの赤い電気袋から電撃がぱちぱちと爆ぜ始めた。そうして力を十分に溜めたら、体に溜め込んだ力を一気に解放して、木の実めがけて100万ボルトを喰らわせた。暗くなった森の中、ピカチュウの周りだけしばらくの間、昼よりも明るくなった。何事かと野次馬に来た、コラッタやらポッポなんかは、それが電撃だと気がつくとそそくさとその場を立ち去っていく。 強烈な電撃を受けた木の実は、あれだけ堅かったのが瞬く間に、程よい焦げ目がついて、柔らかくなっていた。ただ、いくつかは焦げすぎてしまっていた。「いただきまあす」 ピカチュウはぱんと叩いた手を、胸元にぴったりと当てながら、木の実の前で丁寧なお辞儀をした。それから、一個ずつ木の実を食べ始めた。食事中、ピカチュウはずっと笑顔を絶やさなかった。何を食べても、大好物で、幸せ一杯になれるかのようだった。 腹8分目となり、次の木の実を食べるかどうか、それとも後に取っておくべきかどうか迷っているときに、ヘラクロスピカチュウのもとを尋ねてきた。「あっ! ヘラクロスさんだ! やっほー、元気?」 ピカチュウ楽天的な挨拶に対して、ヘラクロスはぎこちない笑顔で返した。それはヘラクロスならば普通の反応だったから、ピカチュウは何も気にしていなかったが、ただ、ヘラクロスがもじもじしているのが気になった。明らかに何かを言いたそうにしているのに、なかなか言い出せないでいる様そのものだ。「ピカチュウさん、あの・・・・・・」 ヘラクロスは思い切ってそう切り出したが、そこから言葉が出てこなくなった。口はパクパクと動くのだが、音が出てこなかった。息さえも出てこなかった。 ピカチュウヘラクロスのペースに任せて、決して口出しはしなかった。首をかしげながら、ずっとヘラクロスの言葉を待っている。「僕・・・・・・は・・・・・・いや・・・・・・僕、は・・・・・・ああ・・・・・・ぼ、くは・・・・・・・・・・・・僕は・・・・・・」 ヘラクロスはそこで口を噤んでしまう。せわしい深呼吸を繰り返して、息をどうにか整えてから言った言葉はまたしても「僕は」だった。ヘラクロスは身震いし、きっとピカチュウの目を見つめた。 ヘラクロスの覚悟を決めたかのような目つきは、男前に見えた。ピカチュウは以前助けられた時にも、その目を見たことがあった。思いがけない時に、その顔を見てしまったので、どきりとさせられた。「あ、あ・・・・・・あなた、に・・・・・・あなたに、伝えたい、伝えたいことがある・・・・・・んです」 ヘラクロスは、溺れかけたかのように喘いだ。それを口に出すことができないと、殺されるとでも言わんばかりだった。「大丈夫だよ、ヘラクロスさん。何を言ったって、絶対に驚かないから!」 ピカチュウが声援を送ると、ヘラクロスの目が潤んだ。深刻そうな表情の中に、穏やかさが混入した。何を意味するかはよく分からないが、ヘラクロスはこくりとうなずいた。「ちつ・・・・・・あっ・・・・・・ああ・・・・・・みつ・・・・・・うん・・・・・・ぜーっ!・・・・・・はーっ!・・・・・・じ・・・・・・実はっ!!!・・・・・・」 ヘラクロスの勢い余った大きすぎる声で、辺りがさっと静まりかえった。けれど、それに一番驚いていたのは、他ならぬhrだった。再び優柔不断に陥り、やってきたときよりも緊張し、おどおどしてしまった。 ヘラクロスの目からはさっきの男前な雰囲気は消え失せ、ウソハチみたいな涙目になっていた。立派な三つ叉のツノが前方に深く垂れ下がって、枝のように重みでへし折れてしまいそうだった。 ピカチュウヘラクロスを励まそうと、そばへ駆け寄った。大丈夫だよ、ほら、この距離だったら大声出さなくてもいいよね、とそういうことを言おうとしていたのだったのだが、ヘラクロスは駆け寄ってくるピカチュウを何だと思ったのか、金切り声を上げて、後ずさった。「ああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」 ヘラクロスはいきなり頭を抱えて、茂みの中へ飛び込むとどこかへ走り去っていってしまった。その金切り声は至る所に共鳴して、まるで木の葉や草の葉の一枚一枚が叫んでいるように響いた。叫び声は地面の奥底からも聞こえてくるような気がした。地鳴りの起きるような錯覚までした。「ど、どうしたんだろ、ヘラクロスさん」 まだ指を耳から離さないまま、ピカチュウヘラクロスが走り去って行った方向に足を向けると、何かにけつまずき、空中にうつぶせに投げ出された。とっさに手を出すのも間に合わず、ピカチュウは地面にまともに顔面を打ち付けてしまった。  痛む顔を押さえながら、ピカチュウは自分が今つまづいた辺りを手探りした。そうしたら、何かの感触があった。手にとってよく見てみると、それは、何かとしかいいようのないものだった。

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 彼にとって、それは度肝を抜くような光景だった。街はピンと突き立っていた。森の木々より遙かに高くそびえる建物の群らがりは彼を圧倒した。この街に比べれば、自分たちが住んでいる森は地べたに寝そべっているようなものだと思った。そう思うと、彼はこのまま先へ進んでいくのに尻込みしそうにさえなったが、ペラップは至って冷静に、「平気だよ。野生の連中が街中に入ったくらいじゃ、誰も気になんてしないから」 と言い切った。「悪目立ちさえしなければな」 二人は街の灯のど真ん中に飛び込んでいった。彼の眼下に、見たこともないと思えるような街の景観が広がってきた。真上から見て垂直にそそりたった建物は、今にも自分たちに向かってせり出してきそうだ。このなんだかよく分からないものの根本の辺りで、大量の何かが絶えず蠢いているのが見えた。その粒のようなものがヒトなんだと、ペラップは説明した。ここからだとあまりにも小さく、弱々しく見えるけれど、この「ビルディング」を建てたのも、ペラップが肌身離さず携帯しているこの「タブレット」も、ヒトの発明品なのだ。そして、ヒトの作り上げたこの強大な縄張りを、「街」と呼ぶ。「ペラップさんは、よく来てるんですか? こんな、凄いとこに」「時々ね。」 ペラップタブレットの画面をさすっていた。「ツテがあって、欲しいものは何でも手に入れることができるからね」 街はピカピカ光っている。街は歌い、騒ぎ続け、一瞬たりとも黙ることがないようだ。オンたちが暮らす森とは全然、別世界だ。それなのに、この二つの異世界は同じ空で繋がっている。当たり前のことのはずなのに、彼にはそれをうまく理解することができなかった。この街は、夢のように、現実からかけ離れた場所に思えた。 興味深そうにきょろきょろと街を見渡す彼を、ペラップは密かに訝しく思いながら眺めていた。彼をこの街に連れてきたのは、ペラップが欲しいものを調達してくると同時に、もはや懸案事項となっている彼の素性の問題ついて、何か得られるものがないかと考えてのことなのだ。しかし、彼の様子を見る限りだと、人間世界を目にするのは本当に初めてみたいだった。 だが、そんなことがあるわけがない、とペラップは心のうちでつぶやいた。彼が外の世界からやってきたのでなければいったいどこからやってきたというんだ。宇宙から? 過去から? 異世界? 並行世界から? あり得ない。万が一だってありっこないだろう。彼がもともと森の住民でないならば、当然だが、この世界のどこかから流れ込んできたと考えるほかはない。どこかの古代研究所から逃げ出してきたか、どこぞのトレーナーか誰かが逃がしたのか、ペラップに想像できる合理的な可能性としては、どちらかしかなかった。「あ、ペラップさん。これからどこに向かえばよかったんですっけ?!」 目的の方向を指示してやりながらも、ペラップは彼が何かを隠しているような気がしてならなかった。やはり、核心には自力で迫るしかないのか、ペラップは改めて思った。これはもはやこの子だけの問題じゃなくなっている。オンが乗り気でない以上、結局自分がやらなければいけなくなる。 ペラップがため息をついたのに、彼は気がつかなかった。出発したときから握り続けている木の実が気になってしょうがなかった。やっぱり、オンのところに置いてきた方がよかったかなあ、と今更になって後悔している。

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 そこは、この賑やかな街にしては奇妙な場所だった。華やかに光を放つ高低さまざまなビルディングの合間から、場違いなくらいに薄気味悪い建物が現れたのだ。他の建物とは違って、どこにも光が灯っていないし、壁面の至る所にツタのようなものが生い茂っていて異様だった。ペラップにその建物を指し示されると、彼は何度もpに、本当にそこなんですよね、と聞き返してしまった。「そうだ」 ペラップは断言する。「でも、なんだか近づくと危ないような、そんな感じが・・・・・・」「大丈夫さ、一度入れば、たいしたこともない。ともかく、行けば分かることさ」 建物の庭とおぼしきところに着地すると、ペラップは彼の背中から飛び降り、つかつかと出入り口の扉の方に向かっていった。彼は怯えながら、辺りを見回した。華やかな街にはあまり似つかわしいとはいえない、この建物の周りは、金網状のフェンスで囲まれていた。しかも、フェンスの上から分厚いシートが覆い被せてあるから、外側からは中の様子を覗くのは難しいようだった。ただ、彼にはそういう環境が何を意味しているのかは、よく分からない。何となく気味が悪いという印象だけが先立っていたが、ここがいったいどういうところなのかは全く見当もつかないのだった。 ペラップが扉の前で一声鳴いた。しばらくすると、扉の奥からがさごそと物音が聞こえてきた。扉がほんの少しだけ開く。「私だ」 ペラップが半開きになった扉の暗闇に向かってささやいていた。「ボスに会いに来た。あれから少し間が空いてしまったものだからね、頼み事ついでに話も出来ればと思ってきたんだが・・・・・・ああ」 ペラップはなおも落ち着かないでいる彼の方を一瞥した。「あの子は私の連れだ。事情は後で話すが、一度紹介はしておこうと思ってね・・・・・・」 ペラップと、扉の向こうにいる誰かとは、まだ言葉を交わしていたが、彼は目の前の建物の奇妙さに気を取られていたせいで、彼らの話がよく聞こえていなかった。隣りのビルディングは、あちこちから光を放っているというのに、ここだけは死んだようにひっそりしていた。この二つの建物は、同じ「街」の同じ空間に位置しているはずなのに、どうしてここまで世界が違うのだろう、と彼は素朴に考えた。これならまだ、オンと暮らしている森の洞窟の方が、確かにあのビルディングのような光はないけれど、イキイキしていると思えた。 自然と、オンのことが頭に浮かんできた。さすがにもうそろそろ目が覚めた頃だろうか。だとしたら、今頃何をしているんだろう。そのように思いを巡らせてみると、ここからだいぶ遠く離れているのに、あの森の世界の方が、いま彼が立っているこの不気味な場所よりも遙かにリアリティがあるようだった。「おい!」 ペラップの叫ぶ声で彼ははっとさせられた。「こっちへ来い」 さっきからずっと半開きだった扉は、いつのまにやら大きく開かれていた。そこから、一羽のヤミカラスがゆったりとした歩調で現れ、左側の翼を深く胸に押し当てながら、長々と深いお辞儀をした。「態々遠方からの御足労、誠に感謝申し上げます。では、ご案内致しますから、お二方、此方へ・・・・・・」「ペラップさん、ここっていったいなんなんでしょう?」 戸惑いを隠せずに、彼は尋ねた。「ああ。ここは少々、訳ありの土地でね。とりあえず、詳しいことは中で話すことにするよ」 意外にも、建物の内部は思っていたほど暗くはなかった。廊下や部屋のところどころに、形も大きさも様々なランプが灯されていたからだ。そして、この建物にはヤミカラスが何匹も住みついているらしく、3人が通り過ぎると、皆一様に赤い目を向けてくるのだった。とりわけ、彼は図体が一回り大きいものだから、いっそう奇異の目線を向けられていた。「こんなところにプテラなんて珍奇だね」「ペラップさんが一緒にいる。少なくとも、不審な輩ではないんだろう」「あんな奴、親分に会わせていいものなんすかね?」「あの顎を見てみろよ。柔和そうに見えて、ありゃ凶暴だ」「空の王者、とか言いますからねえ」「ちょいと脅かしてみますかい、皆の衆?」「まあ、ここは様子見としよう。何せ、彼の連れだからな・・・・・・」 いつの間にか3人の周りを、ヤミカラスたちが取り巻いていた。先頭を行くヤミカラスが、邪魔になっているヤミカラスたちに翼で合図を送ると、彼らは黙って退くのだが、しばらくするとまた寄り集まってくるのだった。余程、彼を見かけるのが珍しいということなのか、3人の通る廊下はちょっとした祝祭のような体を成した。「誠に申し訳御座いませんね。矢張り、彼のことが気になって仕方ないのでしょうね。如何せん、我々一家は、常日頃、気晴らしに飢えておりまして」 二人を先導するヤミカラスは、振り向きもせず、独り言でもしているかのように話した。「再開発か」 ペラップが物思わし気に言葉を継いだ。「ネットニュースでおぼろげには知っていたが、今晩鳥瞰してみて、よく分かった。かなりの速度で進められているようだな」「如何にも。これまで我々は一家団結してこの土地を死守してきましたが、ヒトどもが再びここへ攻め入るのは最早時間の問題と言わざるを得ないでしょう。事実、見てお分かりでしたでしょうが、この土地の周囲が矢庭に開発されるようになりましてね。我々への最後通牒、ということなのでしょうな」「ええっ?! つまり、それってヒトと戦わなくちゃいけなくなるってことですか?」 あまりに物騒な話が飛び出したので、彼は叫ばずにはいられなくなってしまった。 すると、今まで陽気にこそこそ話をしていたヤミカラスたちが一斉に静まりかえってしまった。誰もがきょとんとして、顔を見合わせていた。彼は、誰もが薄々思っているけれども口に出すのを控えていたことをあからさまに漏らしてしまったことを悟り、申し訳のなさにうなだれた。「仕方ありませんよ。これは不可避の、現実ですから」 すかさず、先頭のヤミカラスが言い繕って見せた。「しかしながら、誰が敗北すると言ったのか! 軟弱者め! 如何ほど相手が野蛮な策を弄し、我らの四股を引き裂かんとすれども、畢竟付け焼刃に過ぎぬじゃないか。そんなものは、我が一族郎党、その結束の炎で以て、忽ちにして歪めてみせよう! これまでもそうだった! 況んや次をや!」 ヤミカラスが興奮に駆られて檄を飛ばすと、取り巻きたちの目つきがたちまち変わった。激しい情熱と、一家への愛に突き動かされて、瞳は燃え立っていた。全員が腹の底からけたたましい鳴き声をあげて応えた。鳴き声というよりも、咆哮といった方がいいくらいだ。目まぐるしく変わる状況から、彼はもう何も言えなくなってしまった。「安泰だな」 ペラップは熱狂する彼らに向かってつぶやく。

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 二人は応接間と呼ばれる他よりも広い空間に通されると、そこでしばらくお待ちいただくようにとヤミカラスに告げられた。表の扉でしたときと同じような深く長々としたお辞儀をして、ヤミカラスがいなくなると、彼はようやく肩の力を抜くことができた。ヤミカラスの群れからの好奇の目に曝されていると、なぜだかわからないが、心が激しく揺れ動いた。緊張したり、不安に陥るかと思えば、ちょっぴり嬉しかったり、誇らしい気分になったりして、目まぐるしかった。「大丈夫だったか? 思いの外、騒がしくなってしまったな」 ペラップが声をかけると、彼ははっとした。今の今まで、ペラップと一緒にいたことをうっかり忘れてしまっていたかのような表情だった。ヤミカラスたちの熱狂の渦の中に投げ込まれて、そこで神輿として散々に担がれた挙げ句、ここへ放り出されてしまったので、心ここにあらずといった体で、まだ自分がどういう状況に置かれているのか、よく分からないといった様子だ。 彼は曖昧にうなずいたが、ためらいがちな声がいつまでも糸を引くように続いた。ようやく、聞きたかったことが頭に浮かぶと、ペラップに言った。「ペラップさん、結局、いったい、この場所はなんなんでしょうか? なんだか、いろいろありすぎてボクにはよく分かんないです・・・・・・」 そこで、ようやくペラップは彼にこの土地のことを説明し始めた。ここはかつては、当然と言えば当然だが、ヒトのものだった。この街にある他の建物と同じように、そこでヒトが暮らしたり、集まって仕事というものをしたり、遊んだりもしていた。だが、街というのは時間と共に成長するものだから、古くなって使えなくなった建物は取り壊され、新しい建物に取って代わることになる。本当ならば、ここもそのようにして、取り壊されてしまうはずだった。そんなとき、この街のヤミカラスの一団が住み着いて、自分たちの砦に変えたのだ。「この建物の周りが、布で覆われていたのは見ただろ」「はい。あれじゃ、外から建物の様子は見えないですよね」「あいつらがここにやってくる時には、解体といって、ヒトたちがここを壊す作業をしていたんだ。あれはその名残りとでもいうのかな。何せ、ここは一晩のうちに占拠されてしまって、ヒトなんか誰一人近づくことができなくなってしまったからな」「だけど、さっきのヤミカラスさん、ちょっと不穏なこと話してませんでした?」 ペラップは大きく息を吸った。「うん。この頃は、街の連中が本腰を上げて、ここのヤミカラスたちを追い払おうとしているらしいのさ。これまでも、そんなことはなくはなかった。ただ、今度のやつは連中、かなり本気でいるらしいから、みんな戦々恐々としてるってわけだ」 街へ偵察に行っていた子分が、ある日持ってきた新聞から事態が知れた。この街の人間たちが「ym撲滅大作戦」と銘打って、自分たちをここから排除するために様々な対策を実施すると、そこには書かれていた。鳥使いたちを動員して、強力な鳥ポケモンを街に放つこと。ヤミカラスたちの溜まり場となるような衛生環境の悪い一帯を減らすことなどが、作戦の目玉だった。この情報はヤミカラスたちの間でたちまち広まり、大議論となった。ヤミカラスたちは、放たれる鳥ポケモンの種族はどうなるのか、「衛生環境の悪い一帯を減らす」という文面は、この場所を解体するという意思を示すものであるのかどうか議論をし、果たしてこの対策の脅威がどれほどのものか、検討しようとした。 当初は、今までと同様に、ヒト特有の口だけの脅かしと考え、さほど警戒を払わないでいたのだが、子分たちが次々と鳥ポケモンに襲われる事案がにわかに増え出すと、楽観論は途端に吹き飛んでしまった。今や、街の至る所で、プロの鳥使いたちから繰り出された鳥ポケモンどもが、ヤミカラスの一挙一動を監視している。ヤミカラスたちの勢力はじりじりと後退せざるをえなくなってきた。「そんなところへ、にわかにこの辺の土地の再開発が始まったんだ。再開発というのは、古くなった土地をいったん更地にしてしまったところに、新しく建物を作ることだな」「たとえば、近くのでっかいビル、とかですか?」「そうだ。少し前まで、この一帯にある建物は、まあ、ここと似たり寄ったりの年季の入ったものばっかりだったんだけどな」「ということは、やっぱり」「そう遠くないうちに、ここを潰そうとする動きがあるだろうな。だが、開発の速さを見るに、もしかしたら時間の問題かもしれん。明日あったっておかしくないさ」 彼はそれからどういう反応をすればいいのか分からなくなってしまった。初めてやってきた場所で、いきなり深刻な状況を聞かされてしまったが、ほとんど新参者で傍観者ですらある立場で、ヤミカラスたちの境遇に同情するのはかえって白々しいのではないかと思ってしまう。なおも持ち続けていたオッカの実を、意味もなく別の手に持ち替えたが、まもなく元の側に戻した。 何かを言おうとしても、言葉が全然出てこないでいる彼の戸惑いを察して、ペラップは言葉を継いだ。「ただ、あいつらはしぶといんだ。どんな逆風が吹こうが、愚直に前へ飛んでいこうとする。吹き飛ばされようがお構いなしだ。良い意味でバカなのさ。だから、私はそれほど悲観はしていないんだ」「仰せの通り。我々は断じて絶望などしておりません」 いつの間にか、さっきのヤミカラスが扉のそばに立っていた。柔和な笑みを浮かべながら、例のお辞儀をしてみせる。「お待たせ致しました。親分がいらっしゃいました。では、私はこれで失礼致します・・・・・・」 彼と入れ替わるようにして、ヤミカラスたちよりも一回り大きい体をしたものが、扉の奥から現れた。胸元の白い豊かな羽毛が、歩くたびに細かく震えている。時折、翼で山高帽のような形をした頭に触れながら、ペラップと彼の方に歩み寄ってくる。「ようこそ我らが砦へ。ペラップと、それから連れのものと聞いたが、プテラ君か、わざわざここまで来てくれて嬉しいよ」 親分は、両翼で二人を包み込むようにして、親愛の情を示した。「ご無沙汰していたな、親分」 ペラップは、にやりとしながら言った。「親分とは! まあまあ、堅い言葉は抜きにしよう。昔からの呼び名でいいだろうが。ペラップとドン、それで十分」「どうも。初めまして・・・・・・」 どうやら旧知の仲らしい二人の間に挟まれて、いたたまれなさを感じたせいで、彼の挨拶はかすれて、うわずった。 ペラップドンカラスは示し合わせたように、にっこりした。彼もまた、ぎこちない笑顔で応じた。

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 その頃、ピカチュウヘラクロスが落としていったのだろうそのよく分からないものを持って、池へ向かっていた。 困ったときには、まずはペラップに相談しに行くのだが、今日はどこをあたっても姿が見当たらない。しかし、ピカチュウは少しでも気になることがあると、もううずうずして、どうしようもなくなってしまう。 念のために、オンの住む洞窟も訪ねてみたが、やはりペラップはいないし、呼びかけても洞窟からは何の返事もなかった。とりあえず、中に忍び込んでみると、オンは床の上で寝そべって、静かにいびきをたてていた。電撃を浴びせて起こしてみたらどうなるんだろうと、興味本位で考えたが、オンがカンカンになったときの場合を思うと、さすがに冗談では済まなかった。 結局、ヘラクロスのところへ直接訪ねに行くのが一番手っ取り早かった。さっきは突然大きな声をあげながら走り去ってしまったが、素振りからして何かを伝えようとしていたのは間違いない。それだったら、このよく分からないものを返しにいくついでに、いったい自分に何を話そうとしていたのかも聞いてしまおう。これなら一石二鳥だ、とピカチュウはポンと手を叩いた。 池へと向かう途中で、ピカチュウは何度もそのよく分からないものを見つめ、これがいったい何なのかを考えた。しかし、それはどこをとっても、ピカチュウが見たことのないものだったから、それは草でも木でも水でもないし、石ともなんだか違う。説明するためのどんな言葉も浮かび上がってこないのだった。そうした言葉を与えてくれるペラップといった存在がないと、ピカチュウにはもうお手上げなのだ。それでも、ピカチュウの抑えられない好奇心がブクブクと噴き出してきて、止めどない。 この茂みを抜ければ、池のほとりに出るというところで、誰かの話し声が聞こえてきた。それも、あまり穏やかではない口調だったから、慌ててピカチュウは茂みの中に潜り込み、耳を澄ませた。「はい、それはもちろん、分かっていますよ。分かっていますけど」 はきはきと話すこの声は、間違えようもなくヘラクロスの声だ。ただ、いつも自分や森の住人たちに接するときとは違う、余所余所しい口調のように感じられる。何がもちろんなのか、もう少しそばで話を聞きたいのだが、少しでも動くと葉のこすれる音で、自分の存在が気づかれてしまう。「はは!・・・・・・あまり真面目くさって考えるなよ。よしみって奴だろうが・・・・・・ま、おまえとゆっくり話するのも、なかなか悪くなかった!・・・・・・考えてみろ、ここじゃなきゃ、話し相手なんかさもしくて!・・・・・・ここいらのグラエナだとか、ヤミカラスだなんてのは脳なしだからな・・・・・・ゴーストの方がまだまともで! 信じられるか?・・・・・・」 ヘラクロスはいったい誰と話しているのだろう、全然聞き覚えのない声だった。含み笑いをしながら、いつまでもくどくどと終わりそうで終わらない話をする話し方に、ピカチュウは本能的に嫌な感じを抱いた。それに、心の奥底に溜め込んだ苛立ちとか憎しみとかを、言葉に込めて、ツバのように吐き出すのが、体中がむずがゆくなってしまうくらいに不愉快だった。この声の主が誰なのかは知らないが、そんなことよりも、どうしてヘラクロスさんがそんな相手と話していんだろう。頭がこんがらがってしまう。「一度は経験してみるといい、オーロットと世間話なんてのも!・・・・・・乙なもんだぜ、おまえみたいなやつには特にな!・・・・・・その臆病癖も治りゃあ! なあ?・・・・・・ずっと前から思ってはいたんだが・・・・・・雌なんか一斉にひれ伏して! 股でも何でもおっ広げ! 何もかも! 何もかもおまえの思うがまま!・・・・・・あと一息なんだ・・・・・・まあ、ちょっと試してみる価値はある・・・・・・」 あまりのおぞましさに、ピカチュウは茂みの中で思いっきり身震いをしてしまった。あの気味悪い口調は、生理的にとても耐えられるものではなく、うっかり火の中に指を突っ込んでしまったら、誰だって反射的に指を引っ込めてしまうのと同じようなものだった。しかしそのせいで、ピカチュウが隠れている茂みだけが不自然に大きく揺れてしまった。 二人の会話は中断され、しばらくの間、息苦しい沈黙が漂った。明らかにこちらの方に視線が注がれているように感じられ、ピカチュウは中でうずくまったまま、目を閉じることも、息をすることもまともにできなくなった。それはいつまで続いたものだろう? 恐怖や焦りにとらわれると、時間なんてどこかに消えてしまうらしい。「用心には用心! 俺はもう行くが!・・・・・・・・・・・・」 それから、謎の相手がヘラクロスに何かをささやいたようだった。ただ、ピカチュウにかろうじて聴き取れたのは、その息づかいだけだ。やがて、何かが宙を切る音が数度聞こえた後、茂みが大きく揺すられる音が響き、その後は何も聞こえなくなった。 嵐が過ぎ去ったかのような、奇妙な静寂に包まれながら、ここから池に出て行こうかどうか、ピカチュウは決めかねていた。気になることはたくさんあったが、さっきまでひしひしと感じられた殺気を思うと、安易に顔を出しにくかった。けれど、ピカチュウの中では、結局いつも、好奇心が優るのだった。よく考えれば、深く考えるまでもない。ずっと胸に抱え込んでいた、このよく分からないものを見れば、どんなに迷っていたとしても、結論はもう決まっているのだ。 ヘラクロスは、池のそばであぐらをかきながら、どうやらじっと水面を見つめているらしかった。ピカチュウは忍び足でこっそり近づき、ヘラクロスの背中にたどり着くと、くるりと振り返って、ヘラクロスの丈夫な背中に深く寄りかかった。驚いたヘラクロスの体の震えが、そのままピカチュウの体に直接伝わってくる。「驚かなくてもいいよ、ヘラクロスさん」 ピカチュウは、ささやくように言った。「ピ、ピカチュウさん! どうしてここに?」 ヘラクロスは驚きというより、困惑と焦りのこもった声音をしていた。「急にごめん。なんだか、さっきのことがすごく気になっちゃって」「ああ。さっきはすみませんでした。本当に意気地なしで、僕は」「それに、さっきまでヘラクロスさん、誰かと話していたみたいだったね」 そう言われたときに、ヘラクロスは腕を強く組んで、ツノが水面に触れるくらいにうなだれてしまった。「・・・・・・もしかして、聞いちゃマズかった?」「いえ、何も問題はありません。何にしても、いつまでも黙っていられることではないと思っていましたから」 ヘラクロスはいきなりすっくと立ち上がった。支えを失って仰向けに倒れたピカチュウには、ヘラクロスの背中が、周りの木々よりも高くそびえ立っているように見えた。「むしろ、ピカチュウさんが僕の背中を押してくれました。やっぱり、話すべきことは話しておかないといけなかったんですよ!」 ピカチュウは足で勢いを付けて起き上がった。しかしその弾みでうまくバランスをとることが出来ず、前へ後ろへ重心がぐらぐらと揺れた挙げ句に、ヘラクロスの背中目がけて倒れ込んでしまった。 感情が高ぶったおかげで、ヘラクロスは池に向かって前掛かりの姿勢を取っていたので、倒れかかったピカチュウの重みが本当に彼の背中を押してしまった。ヘラクロスは顔から池に突っ込み、豪快な水しぶきをあげた。 慌てて池に飛び込もうとしたピカチュウは、そばに置いていたよく分からないもののことをすっかり忘れていたので、またしても躓いてしまった。ピカチュウの体が空中に浮かび上がると、そのままの姿勢でお腹から池に突っ込んでいった。 最後に、よく分からないものが、重心をゆっくりと池の方に傾けて、転がり落ちていった。着水音は静かで、ヘラクロスピカチュウの耳にも聞こえていなかった。

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 ペラップさんと、ドンカラスさんとの対話は朗らかに進んだ。やっぱりとは思ったけど、二人は昔からの知り合いだった。ペラップさんがトレーナーと呼ばれるヒトと旅をしていた時に、その頃はまだヤミカラスとしてこの街で暮らしていたドンカラスさんと出会ったのが、付き合いの始まりなんだとかいう。 そういう縁があって、ペラップさんが森で暮らすようになってからも、こうして時々は街にやってきては、話をしながら、必要なものをやりとりしたりしているみたいだ。 で、ペラップさんが今晩ここへ来た一番の目的というのは、ペラップさんのタブレットにぴったりと合うカバーはないか、ということだった。 ペラップさんの話を聞くと、ドンカラスさんは黒と橙色の羽毛が織り合わさった翼を鳴らして、誰かに合図を送ったようだった。 驚くくらいすぐに、ドンカラスさんに付き従っているヤミカラスが現れた。「この機種にちょうどいいカバーがないか、探させろ」 かしこまりました、とヤミカラスはすかさずカバーを探しに向かったようだった。ボクたちに見えないところで、ヤミカラスたちの威勢のいいかけ声が聞こえてきた。それは不思議と楽しげで、ちょっぴり滑稽だった。「まあ安心してくれ。ヒトどもがどんな策を弄していようが、我々の収集力が衰えたわけではない。ましてや、お前のためだ、今晩のうちには必ず希望に答えて見せるとも」 ドンカラスさんは胸を張ると、ボクの方へ視線を移した。興味深そうに、翼でクチバシの下の辺りをいじっている。「そういえば、君は」 ドンカラスさんは切り出した。「なんでも、最近から森で暮らすようになったとか」 ボクはドンカラスさんに、自分のことを一通り説明する。とはいっても、自分のことなのに、話せば話すほど、本当のことを言っているような気がしないのは何故だろう。あてになるのは、そんな気がするという頼りない感覚だけだ。「なるほど」 ボクが内心困惑しているのを知ってか知らずか、ドンカラスさんは話を続ける。「この街を見て、どう思ったか」「はい。こんな凄いところ、生まれて初めて見たような気がしました」 ボクは素直にそう伝える。「なるほど。ならば、もっとよく街を見物したいと思わんかね?」「えっ? いいんですか、そんなこと・・・・・・」「構わない。確かにこの頃は我々への監視は厳しくなっている。だが、私とて手をこまねいているわけではないのだ」 そうして、ドンカラスさんはボクに微笑みかけた。「といっても、どうすればいいのか・・・・・・」「子分を何人か同行させる。彼らはみな街のことは知り尽くしているから、忠告に従っていれば、何も危ないことはない」 ボクは、ペラップさんに助言を求めて目配せをするが、ペラップさんもドンカラスさんの提案に賛成のようだった。「安心しろ。奴らはそこのところはうまくやるんだ。それに、街をあちこち見て回れば、もしかしたら何か役立つ発見があるかもしれない」「部下どもも、君に興味津々のようでもあるしな」 ボクは二人にうまく丸め込まれるようにして、街へ見物に出ることになってしまった。応接間を出たら、もうヤミカラスたちがボクのことを待ち構えていて、あっという間にボクは取り囲まれた。いったいどこにそんな力があるんだろう? ヤミカラスたちはボクのことをひょいとかつぎあげてしまった。どんちゃん騒ぎの中、ボクは玄関口まで運ばれていった。「ささ、私たちに付いてきてください。親分の指示通り、あなたを街にご案内致しますから」「この街で一番高いタワーなんかどうでしょう? ヒトどもの役所の建築なんかも間近で見る価値はありますよ! それか歴史ある建造物がお好みですか? 自然公園も、森の自然とはまた違った趣がありますね。横町なんてのも覗いていきましょうか、居酒屋が立ち並んでいて、ヒトどもの食い物にもありつけますよ。それがまた粋でしてね・・・・・・」「こら、おまえの願望を押しつけるなよ。まずはお客さんの希望をお聞きするんだろうが」 で、いかが致しましょう?!・・・・・・ボクを見つめるきらきらとした目、目、目。ボクは爪でポリポリと頬を掻いた。「ええと、じゃあ、お任せします」 ヤミカラスたちは一斉に顔を見合わせた。ボクの方からお任せしますと言われて、どうすればいいのか分からなくなってしまったらしい。適当でも、タワーとか言えばよかったかもしれない。なんだか申し訳なくなって、ボクは恐縮してしまう。「じゃ、僕が案内する」 群れの中から、一匹のヤミカラスが現れた。口ぶりもそうだけど、見るからに、この子だけ他のヤミカラスたちとは違う雰囲気を漂わせているのが、ボクにも分かった。「あんたのお眼鏡にかなう場所ならアテがあるよ。グダグダ話してたって何も決まらないんだから、おまえらもそれでいいだろ?」 ヤミカラスたちの間からは、ボチボチとため息や舌打ちが聞こえたが、みんなしぶしぶとこのヤミカラスの提案に従っていた。嵐が来てしまった以上は、どう抗っても無駄、みたいな諦めだった。「決まり。護衛はみんながしっかりとするから、安心して付いて来なよ」 斜に構えた眼差しは、ボクというよりは、ボクの心臓を生々しく見つめているような気がした。仕留めた獲物を、もはや生き物としてではなく食べ物として眺めているときの目だ。「えー・・・・・・ちなみに、どこへ?」「あっち」 からかうように、ヤミカラスは本当にあっちを指す。ボクはぽかんとしてしまったが、それを全然気にする様子もなく。「あっち」

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 彼が戸惑いつつ応接間を出て行く姿を見送ると、ドンカラスは部下を呼び出し、愛用のキセルを持ってこさせ、それを器用に足で掴み取った。脇に控えた部下にマッチで火をつけさせると、吸い口をクチバシに持っていき、一服した。「おまえも何か吸ったらどうだ。こういうときにしか味わないだろう」「なら、お言葉に甘えるか」 ペラップはタバコを受け取ると、手早くクチバシでくわえ、火をつけてもらった。ゆっくりと煙を吸い込むと、その味をたっぷりと堪能した。タバコを足で掴みあげた後で、満足げに瘴気のような煙を吐き出した。「たまに吸うタバコは、やっぱりいいもんだな」「何本か森に持って帰ればいい」「いやな、向こうだと清純な奴だと思われてるからな。イメージを壊すわけにもいかないんだよ」「清純、か! 我々にはだいぶ不似合いな単語じゃないか」 ドンカラスは苦笑する。「お互いに淀んでいるし、濁っているだろうが」「ヒトの世界で生きてきたんだ。純粋でいることなんか出来ないさ」 煙と一緒に、言葉が吐き出される。「私たちは言うなればポケモンとしては堕落したわけだ。ヒトの世界で言えば、禁断の果実を食ってしまったようなものだな」 二人は地獄に墜ちたもの同士のように、諦めと、その裏返しとしての倒錯した誇りを感じながら、忍び笑いをした。 お互いに、せっかくのひとときだったから、自然と思い出話が始まった。まだヤミカラスだった頃のドンカラスが、堅物だったペラップを巻き込んで起こした「悪徳」の数々を一つ一つ振り返っては、笑いをこらえた。 それから時が過ぎて、ドンカラスが一家の首領となるにあたって、ペラップが進化の儀式にお呼ばれしたときのことを振り返った。貴重なやみのいしを調達するために、暇をしていたペラップまで駆り出され、わざマシンでどろぼうの講習を受けさせられ、めぼしいショップやらトレーナーやらから、手当たり次第にかっぱらったりなんかしていたのは、今となっては微笑ましい思い出だった。「時の流れは残酷か、そうでもないものか。遙か昔のような気もするし、つい先だってのことのようにも思われる」 キセルの煙をくゆらせながら、ドンカラスがポツリと口にする。「あの頃に戻りたいとか、考えてしまうことはあるのか」 そう聞きながら、ペラップはゆっくりと煙を吐いた。「いや。あの頃は、この素晴らしい時がずっと続くものだと、訳もなく思っていたものだけれどもな。終わってしまったことでも、不思議と悲しくはならない。今がどうあろうと関係なく、あの頃の幸福の感覚は、ずっとそのままの形で我々の心に残っている、この頃私は、それで十分なのではないかとも思うようになった。そもそも、そのような感覚を、切実に感じることが出来る者は、決して多くないからね。私たちは幸いなのさ、ペラップ」 そうして、ドンカラスは深くキセルの煙を吸い込んだ。ペラップドンカラスに合わせて一服しようとしたが、煙を吸い過ぎてむせてしまった。「動揺しているな。なるほど、つい過去を懐かしみたくなる嘆かわしい悩みを抱えているらしい」 ドンカラスペラップの内面を見抜いたかのように、断言した。「図星だろうな。いやいや、何も言わなくて結構。今から、私が言い当ててやる」 ペラップは翼を首元の羽毛をさすり、考える素振りをした。「間違いなく」 ドンカラスは、掴んだキセルペラップに突き出した。「あのptのことだな?」「さすが親分なだけはあるな」 ペラップは脇に用意された灰皿に、吸い殻を丁寧に落とした。「おそらくは私に言われなくとも、もうあらかた事情は知っているんだろう?」 老獪な笑みを浮かべて、ドンカラスキセルを咥えて長い一服をした。配下のヤミカラスたちのネットワークを駆使して、情報は抜け目なく仕入れていた。森の近辺にたむろしている札付きのヤミカラスたちを、甘言と脅迫を巧みに取り混ぜながら手なずけさせるなど、ドンカラスにとっては容易であり、彼らを通じて受け取る情報を通じて、縄張りの内部事情を街にいながら知ることができた。プテラの存在をだいぶ前から知っていたばかりではなく、ストライクがオンたちの縄張りに出没するようになったという情報も、こっそりと掴んでいたくらいである。「何、一目見ればすぐに察しがつく」「あいつのことについて、直接、おまえの見解を聞きたいんだが。」 ペラップは、彼が森にやってきた経緯をかいつまんで話し始めた。ドンカラスは、時折キセルの中身を変えさせながら、じっくりと耳を傾けていた。お付きのヤミカラスは忙しなく、灰皿を空にし、相づちを打つドンカラスキセルの中身を補充し、ペラップのタバコを新しく取り替えるために動き回っていた。応接間が煙たくなってくれば、ヤミカラスは換気をするために、窓を開け放ち、夜の冷たい風が吹き込んだ。「一番の問題は、あいつが自分の素性を、まともに説明できないということだ」 ペラップは、強く感情を込めて、「さっきの話しぶりを考えてみてほしい。まるで出来合いの話を機械的に繰り返しているようにしか聞こえなかっただろ?」「蓋し、彼自身もよく分かっていないようだったな。自分のことを話しているくせ、確信がないという印象を受ける。記憶を部分的にか、失ってでもいるのか、何らかの理由で嘘をついているか、だろう」「率直に言えば、あいつは何かを隠していると思うんだよ。それが、森に害をもたらすものかどうかまでは分からない。ただ、はっきりさせなければいけないことなのは確かだ」「ヒトの回し者、という可能性も否定はできない、と言いたいか」 ドンカラスはすかさず口を挟み、「プテラという種族は本来、ヒトの手によって化石から復元されているからな。しかも、元は古代の生物だったのだから、現在の環境で野生として生きていくのは困難。となれば、彼は以前ヒトの影響下に置かれていた、と考えるのがさしあたっては自然だ、というのがおまえの考えか」「そういうことになる」 ペラップはタバコをもう一本要求する。「ただヒトのもとから逃げ出したというのであれば、最初からそう言えば、何の問題もないはずだろう。なのに、あいつは記憶がはっきりしないとヘンテコなことを言うから怪しいんだ。あいつの体を観察しても、記憶を失ってしまうほどのショックを受けた跡は見当たらない。仮にそうだったとしても、記憶の断片くらいは残っていてもいいものじゃないか? とにかく、森に来る前のことについては、ぼんやりとしている、うまく言葉に出来ないの一点張りで困るんだ。正直に言って、そんな素性のよく分からないやつを置いておくのは危なっかしい。元が化石となれば、なおさらだというのに!」「だから、上司と喧嘩したのか。困り者だな」 ドンカラスキセルをいったん従者のヤミカラスに預け、足で首元の羽毛をゆっくりと掻く。「集団の長としては、いささか資質が問われるものな」「確かにあいつにはまだ未熟なところはあるが・・・・・・それにしたって、あの子に対して甘すぎるな。ろくに身辺調査もせずに、おまけに自分のねぐらに住まわせるんだからさ」 そのとき、ドンカラスはこらえきれずに笑い出した。「だがまさか、おまえにオンの心情が分からない、などということもないだろう? それは、けして我々に無縁のものではないではなかったか」 ペラップは一瞬、青白く浮かぶ月の幻影を見た。積み重なったゴミ袋、揺れる電線、消えかかった電灯の光を見た。幻か、遠くなのか、それとも案外近いのか、ヒトの騒がしい話し声や、車の往来の音が聞こえてきた。それをおぼろげにする小雨の音がした。そして、その景色の前面に、一羽のヤミカラスが妖艶な様子で佇んでいるのを、ペラップは見た。「もちろん、考えないことはなかったさ、もちろん」 うつむいて、わざとらしく咳払いする。「もちろん、脳裏によぎったことはある。ただ・・・・・・」「ただ?」「そんなことは考えたくなかった」「そうか」「もしそうだとしたら、私はどうすればいいか分からない」「ふむ」「まさか、そうなんだろうか・・・・・・?」「直接尋ねてみればいいことだ」 ドンカラスは脇に控えていたヤミカラスに何かをささやいた。ヤミカラスキセルと灰皿を片付けると、深いお辞儀をして、応接間を退いた。「さて、幕間といこう。どうする、ペラップ」 ドンカラスが翼を大きく広げた。「申し訳ないが、お断りするよ、ドン」「自分自身を平気で欺く。それがお前の欠点だと、昔から言っていたじゃないか? 過去に溺れることが必ずしも悪いこととは限らない」「でも、そんなことしたら」 ペラップは息が荒くなり、返事をするのもやっとだった。「言っただろう? お前は自分自身を平気で欺く。それに、優しすぎる」「・・・・・・」「香辛料のように、悪徳を持つがいい、ペラップよ」 ようやく、ペラップはうなずいた。

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 一羽だけ雰囲気が違うリーダー格(?)のヤミカラスを先頭にして、十羽ほどのヤミカラスの群れに囲まれながらボクは街を巡った。 街で一番高いという鉄塔にボクたちは止まり、広大な街を見渡す。リーダーのヤミカラスは、気のすすまないと言いたげな口ぶりで、大ざっぱに街のことをボクに説明した。分かったのは、この街はとてつもなく大きく、数え切れないほどの施設がそこに密集している、ということだ。「だって、そんな興味もないんだろ」 彼は冷淡に言った。「だいたい、詳しく話したってすぐに忘れそうなツラしてるし。無理して、気なんか遣わなくたっていいし」 鉄塔を飛び立つと、今度はとあるビルの屋上に降りた。わりあい低めなその建物からは、交差点というのが見えた。もう夜は更けているのに、おびただしい車だとかヒトが絶え間なく往き来していて、それでいて、何一つぶつかり合うこともなく、驚くくらい規律立って動いていた。「ま、ヒトってそんなもんだよ。じゃ、次行こっか」 ボクの印象が言葉にまとまるのを待たないで、ヤミカラスはさっさと屋上から飛び立ってしまった。慌てて彼に付いていかなくちゃいけなかった。「申し訳ありません。うちらから謝っておきますね。あいつ、本当にぶっきらぼうで、驕慢というか」 耳元でささやく割には、やけに大きい声で、ボクのそばについていたヤミカラスが声をかけた。 当てこすられた当のリーダーは、一切振り向かずに先へ進んでいった。 その後も、ずっとこんな調子で街案内は続いた。街の中でも有名らしい場所にとりあえず降り立ってみても、とても簡単な説明を済ませてしまうと、自分から勝手に飛んでいってしまう。ボクが質問をする機会すら与えてくれないのだった。 そりゃあ確かに、ペラップさんに突然ここへ連れてこられた手前、ボクはこの街を前にして困惑するばかりで、いきなり街を案内するともてなされても、何をしたらいいのか分かりようもない。とはいえ、リーダーなのか何なのかよく分からないヤミカラスに一方的に振り回されるのは、ボクといえども愉快であるわけはない。けれども、こうなってしまったからには、もどかしい気持ちを抱えたまま、ボクは彼に付いていかないといけない。「つまんないトコ見て回んのはもういいでしょ。そろそろ、いい場所を紹介してあげる」 突然、彼がそう言い出して、飛んでいく向きを変えると、周囲のヤミカラスたちが一様にざわつき始めた。「おい、馬鹿! そっちは、親分に行くなと言われてるじゃねえかよ!」「何かあったとしても、助けに行ける保証はないですって!」「いや放っときなよ。あいつがどうなろうが、俺らにゃ関係もないし・・・・・・」 けれども、彼は仲間たちの言うことには全然耳を傾けていないようだった。「来なよ」 そう、ボクに言う。「でも、みんなが危ないって・・・・・・」「来なよ」 彼は繰り返す。「あの・・・・・・」「来いって」 真っ黒な目でボクをじっとにらみつけて、彼は凄みを利かせた。尖ったクチバシがボクの鼻先にまで迫っていた。「あんたなら、たぶん、面白いって思うよ」 一切飾り立てをしない彼のささやきは、ボクは脳天から一撃をくらったみたいに恍惚とさせた。彼はボクが心の奥底で密かに考えていたことを、無理矢理引きずり出して、目の前で得意げにそれを振りかざしたのだ。そうなったら、もう選択肢はなくなっていた。ボクは悠然と飛んでいく彼を、意を決して追いかけていく。 後ろの方では、他のヤミカラスたちが慌ただしく翼をばたつかせて、騒ぐのが聞こえる。「おい! 帰って親分に報告だ!」「どうなっても知らんからな! 落とし前は全部おまえに払ってもらおうか!」「お客様に、傷一つでもつけたら、羽詰めてもらうから覚悟しろよ!」 彼を除いた他のヤミカラスたちは、みんな砦の方へと飛び去ってしまった。夜空に溶け込んでいくヤミカラスたちの群れを、彼はちらりと見やりもしなかった。彼がいまどんな気持ちなのか、ボクには想像もつかなかった。「ボクたちはどこへ向かうんでしょう?」 恐る恐る、ボクは質問するが、まともに教えてもらえないだろうってことは、薄々分かっていた。「あっち」 今度は顎をしゃくって、ボクたちが向かっている方角を指し示した。見えるのは街の夜景だ。それも、どっちを向いても同じようなものでしかない。「いちいち説明すんの、面倒くさい」「危険なところなんですか? みんなそう叫んでいたけど・・・・・・」 念のため、ボクは質問する。 彼は、そんなこと尋ねる必要すらないだろ、とでも言うかのように、無反応だった。「無事に終わればそれはいいんですけど。ただ、帰りが遅くなったら、ドンカラスさんとペラップさんが心配しませんか?」 退路を断ってしまったとはいえ、ボクはまた弱気になり始める。砦を出発してから、だいぶ時間は過ぎているはずだった。「あんた、本当に何も分かってないね」 彼は呆れながら返事する。「なんで、親分とペラップが、無理矢理あんたのこと街に連れ出さすように言ったのか、わかんないわけ?」 ボクはどきっとする。ペラップさんとドンカラスさんが、どうしてボクを? 思いも寄らない話だった。「ああ、本当の本当に知らないんだな。あんたって、思ってた以上にナイーブなんだな」 ヤミカラスは心から驚いたような表情をするが、なんだかわざとらしかった。「ま、ヒントくらいあげるよ。一つは崇高な理由。もう一つは下劣な理由、ってとこ」「はあ・・・・・・」「到着するまで考えてれば。いい暇つぶしにはなるんじゃない」 ボクは、彼が問いかけた謎かけを、飛行中ずっと考えることになった。崇高な理由と、下劣な理由? 崇高というんだから、それだけ大事な理由、ってことか。ボクを一時的に退けてでも、二人で話し合わなければならない相談があったって考えてもいいんだろうか。やっぱり例の撲滅作戦のこと? 大人の話だから、ボクがそばにいても仕方がないってこと?・・・・・・でも、彼の口ぶりは、もっと意味深なものがあるとほのめかしているようにしか聞こえなかった。 なんだか、謎を解くために必要な材料が、ボクには欠けているという気がしてきた。それがなければ、答えに近づくのはどうしても不可能に感じる。ボクには、根本的に何かが欠落している。「あの、たとえば、それって、今ボクたちが向かっているところと関係あったりするんですかね?」 ボクはせめてものとっかかりを求めて、彼に尋ねると、「さて、どうですかねえ」 はぐらかされた。 一方で、下劣な理由の方はいくら考えても、全然答えらしい答えが浮かび上がらなかった。下劣と聞くと、考えるのは自分のことばかりで。寝起きにたびたび見たあのイヤな光景が、ちくちくとボクの頭を刺す。もうこっちは考えるのやめ! ああ! それにしても、ボクはいつまでこのオッカの実を握り続けてなくちゃいけないんだろう? いっそここから落としてしまおうか、と考えてはみるけれど、そう思い切れないのがボクの性格だった。握りつぶしたくても、この実はあまりに堅すぎた。

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 興奮が静かに脈を打った。 まとまりのある言葉、思考が、緩慢に頭の中で形をとりつつあるのを感じる。ドンカラスのふっくらとした胸に顔を埋めるペラップは、まだ言葉にならない、赤ん坊のような声を漏らしながら、いっそうドンカラスの奥へと分け入ろうとする。自分からドンカラスの中へ取り込まれていこうというように。このところずっと感じていなかった衝動が、狂おしいくらいにペラップを突き動かしていた。 その間、ドンカラスペラップの音符形のトサカを、クチバシで取り繕ってやっていたが、穏やかにペラップを自分の胸から突き離すと、両翼で床の上に釘付けにした。ドンカラスは口をゆっくりと開き、ペラップに合図を送るために、首を少し傾ける。応接間にはまだキセルとタバコの煙が漂っていた。窓から差し入る月の光に照らされると、まるで神秘的なものを包み込む靄のように思えた。ペラップは、何も言われずとも、自ずと口を開いていた。 目の前に迫るドンカラスの目つきは、姿こそ進化しているが、あの頃から何も変わっていなかった。情愛に満ちているというのでもなく、乱暴な支配欲に取り憑かれているというのでもない。その目は、もし神様というのをこの目で見ることができるのであればきっとこういうものなのだろうと思えるように、無表情だった。無表情であるために、そこからはあらゆる感情を読み取ることができるように思え、そのくせどんな解釈もつっけんどんにはねつけてしまう冷淡さを持ち合わせていた。その説明しようのなさはまさに絶対的としか言いようがない。 ペラップドンカラスの表情に、慈愛というものを勝手に感じ取って、全身にその効能を受け入れて満足していた。ドンカラスの目に見つめられると、その途端にペラップは打ちのめされたような衝撃を受け、されるがままに、身を任せざるをえなかった。 時間の感覚は失われていた。ペラップにはそれが永遠のように感じられもしたが、ほんの一瞬であるようにも思えた。とにかく激しい感情が、ペラップに理性を忘れさせ、神がかりにさえさせていた。気がつけば、ドンカラスは顔を上げて、なおも絶対的な目線をこちらに向けていた。クチバシから垂れかかった唾液を、すかさず舌で吸い取りながら、「随分と忍んでいたのだな」 と語りかける。 体は雌のように濡れていた。うっかり体を動かすと、なんとも言えない感覚が静電気のように走り、たちまち全身を痙攣させ、あらぬ声まであげてしまう。すぐに恥ずかしさがペラップを火照らせる、でもその一方で、悦びとしか言いようのないものも同時にこみ上げてくるのが分かった。 ドンカラスのためにそうした目に遭わされるまで、自分の性について、ペラップは全く考えたこともなかった。純粋に野生であった頃の感覚は、それほど過去のことではないのに、ほとんど思い出すことができなかった。ボールに収まり、トレーナーと共に旅をしていた時でさえ、たとえば育て屋につがいと一所に預けられるといった経験も幸いかすることはなく、雄を自覚させる機会にはとうとう恵まれることがなかった。だから、あの時、知り合ったばかりのあのヤミカラスが不意打ちを仕掛けてきたときに、ペラップは正直に言って、深く混乱してしまった。何より、ヤミカラスの超然とした目線が、ペラップに考えるのを止めさせてしまった。「だが、苦しめたのは、元はと言えば、お前が、じゃないか?」 やっとのことでペラップは口にしたが、「・・・・・・違うんだ、悪い。私には何も分からない」「お前は十分、満足しているだろう」 楽しげに、全身を揺すらせる。「それが分からないんだ、体はともかく、頭が付いていかないよ」 ペラップはやっとのことで苦笑する。 強いてどちらかと答えるなら、ペラップドンカラスのことを愛しているんだろう。ただそれが、どのような意味合いであるのかというと、面倒が起こった。単に、仲睦まじい恋人同士のような関係であるならば、何も思い悩む必要はなかったかもしれない。そうであってくれれば、それはそれでまた別の葛藤を生むことにはなるかもしれないが、どれだけ楽な気持ちになることができただろうか。 この瞬間は、二羽にとって確かに幸福な瞬間だった。けれどもそれは、不幸な幸福なのだった。絶頂を過ぎた後に訪れる不安や虚無感のような幸福なのだった。 ドンカラスは意味もなく開いた窓の方を振り向いた。月は見えない。またキセルを吸いたくてたまらなくなって、やむを得ず深く息を吸って、漂う煙を吸い込んでみたら、かえって気持ちが悪い。「戻ってくるつもりはないのか」 ペラップの耳元にささやく。「また、私の参謀になってくれても構わないんだ。過去はもう戻らないだろう、だが未来はどうだ?」 しかし、同時にペラップドンカラスをおそれてもいる。ドンカラスとは出会った時からずっと、心が通じ合っているという確信を持てた。ヤミカラスたちの一党に混じって、行動を共にするようになって以降、その確信はますます強まっていったと思う。でも一方では、ヤミカラスが進化してドンカラスとなり、群れを率いる身分となり、そして街の連中と対立するほどまでの力を持つようになると、次第に恐れを感じるようになった。ドンカラスがリーダーとなったことで、ペラップの立場も一変していた。ドンカラスは参謀と呼んでいるけれど、ペラップの扱いは限りなく、そう言っていいなら、妾のそれに近かった。種族も違うし、性別の問題もあった。いたたまれなさが募り、とうとうペラップドンカラスのもとを離れることになったわけだが、二羽がそれを決断するまでにも紆余曲折があった。その当時の諍いは、今も口に出すのをはばかるくらいには、疼く古傷として残っている。「その言葉はありがたいよ、ドン。だが」「それほどに、森が大事か」「そのためにわざわざ来たんだからな」 強気に笑ってみせる。「お前のそういうところは、相も変わらず好きだな、ペラップ」 ドンカラスは再び、卵を温めるように、ペラップの上にのしかかる。 心地よさに溺れそうになりながら、やれやれと、つい心のうちでつぶやいてしまった。オン、あのプテラ、親しい森の住人たちの顔が浮かんでくる。それに、ピカチュウの朗らかな笑顔が。私はただ、静かに、ささやかに、幸せに、共にいる、それが一番いいのに。簡単なことのはずなんだ、どうしてこんなに思い悩まなくちゃいけないのか、誰も悪くないのだ、悪いのは、それは、ただ私自身が、甲斐性なしであるだけで。私に強い意志がありさえすれば、そもそもこんなことにはならなかったんだ。嗚呼、ああ。何もかもに、申し訳がない。「こうしていると、何も不可能じゃない気がしないだろうか?」 ドンカラスの声が聞こえる。「ああ」 適当に答えた。もちろん嘘だ。みんな嘘だ。そうじゃないか? 私は素直になることができない。

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 なぞなぞを考えるのはもう止めていた。その代わりに、前を飛ぶヤミカラスの鼻歌を聞くともなく聞いていた。夜の空は澄み渡っていて、とても静かで、その歌は空気中によく響き渡る。結構、きれいな歌声だと思った。「あ、もう着く」 ボクに言っているのか、単なる独り言なのか。ヤミカラスは振り向くこともなく、勝手に地上の方へと下りていった。 ヤミカラスの背中を追いながら、ボクはあの歌を、そういえばこのあいだオンが歌っていたのと同じだったと気がつく。ペラップさんから教えてもらったと、確か、外の世界で流行っているとか、そんなことを言っていた。ボクはそのとき、何て感想を言ったっけ? いきなりオンが歌い出したから、ちょっと戸惑ってしまったことの方が印象に残ってしまっている。「あの、ヤ、ヤミカラスさん」 話を切り出す。「今の歌って、何ですか?」「え? 今、何て?」 まるで、たったいま、ボクがいたことを思い出したかのような口ぶりだ。「いや、何でもないです」 仕返しのつもりで、そう言っておいた。 ボクたちはだだっぴろい場所に降り立った。そこは、あんなに高いビルが密集するこの街にしては、場違いなくらいに何にもなかった。ビルの群れは、闇に包まれた背景に、ぼんやりと浮かんでいるだけだった。街の中心部からは、ちょっと遠いところにまで飛んできたらしい。ここは、いわゆる公園というものではなさそうだった。ぞっとするくらい、人気を感じない。 間遠に並んでいる街灯が、ボクたちの進む先を不安げに照らしていた。これはいったいどこへボクたちを導くんだろう?「それは進んでからのお楽しみ」 はぐらかすヤミカラスは何故か楽しげだった。「最初から、そこに飛んでいってもいいっきゃいいんだけどさ。でも、こういう無駄も時には必要なわけよ」 街灯を抜けると、何やら大きなアーチがあり、そこをボクたちはくぐってさらに先へ進んだ。ヤミカラスはまたさっきの鼻歌を口ずさみ始めた。ボクはその歌のことを尋ねたくってたまらなかったけれど、またスルーされたらとか考えると、聞く気も失せてしまうのだった。それに、このヤミカラスのことだから、まともに答えてはくれないだろうという気も手伝った。 やがて、ボクたちの目の前に、大きくて深い溝が現れる。ヤミカラスがそこで立ち止まったから、ボクも歩くのを止めた。「ねえすごくない?」 ヤミカラスは言う。なんだか妙に興奮しているみたいだ。「この街のど真ん中にこんなものがあるなんてさ」「いったい何なんですか、ここ」 ボクは素直に言った。「発掘現場」 ヤミカラスは彼らしくなく即答した。「ここで化石が採れるんだ。ちょっと下に降りてみよっか」 すると、ヤミカラスは勝手に溝の中に飛び込んでいってしまう。ボクは慌てて、彼に続いた。溝の底は思っていたよりもずっと浅く、そのおかげで、着地のタイミングを測り間違えて、ボクは前のめりになって勢いよく地面に激突する形になってしまう。ずうっと手にしていたオッカの実が勢い余って、とうとう手から離れた。「大丈夫? ほら、立てるなら早く立って」 俯せのボクの鼻先に立って、ヤミカラスが声をかける。「大事なのはここからなんだから。ちょっと足下見てみなよ」 ボクは苦々しく立ち上がって、言われたとおりに足下に目をこらす。地面からかすかに、細いものがあばらのように浮き上がっていた。「これはあんたの仲間、の化石」 ヤミカラスは滔々と説明し始めた。「あんたが生きていた大昔には、ここは海辺だった。あんたの種族は、さすがに知ってると思うけど、遙か昔に一度絶滅してるんだよ。それを、今の時代の技術で蘇らせたわけ。奴らは、いつだったか何かの理由でみんな死んじゃったんだけど、海の底深くに沈んだそいつらの死骸には、たとえば川から流れ出た土砂とかがどんどんと覆い被さって、腐敗を防ぐ。そのおかげで、骨は長い間消えてなくなることもなく、ゆっくりと化石になっていったんだって、こいつみたいに。どう、面白くない?」「はあ・・・・・・」「あんただって、ついこないだまではこんな姿だったかもしれないのに?」 ヤミカラスの言おうとしていることは分かった。この骨のようなものが、実際に骨で、しかもボクの仲間のものであること。この仲間が死んだのはつい最近のことではなく、想像もつかないほど以前だということ。「ここ、とにかくプテラの化石がいっぱい見つかってるんだよ。まあ、一緒に見ていこうよ、せっかくだしさ、仲間に挨拶くらいしていきなよ」 と、ヤミカラスは溝の中を歩き回りながら、次々と化石を見つけてはボクに指し示した。プテラの牙、頭蓋骨、翼と指、肋骨、背骨の化石が、溝のあちこちに埋まっていた。それも、かなりの量あった。二体が折り重なっているように見える化石もあった。首とか、翼の部分だけが欠けたのも少なくなかった。「虐殺でもあったみたいだよねえ」 ヤミカラスは嬉々として呟く。「プテラの化石が一カ所にこんなに集まって見つかることって、今まで例がなかったんだって。しかも、研究者の話だとさ、もしかしたらプテラの群れ同士で争いがあったことを示す証拠になるかもしれないんだよ。そしたら、プテラの生態についての仮説を一から見直さなくちゃいけなくなるし・・・・・・」 ボクとよく似た頭の化石を見つめながら、ボクは冷え冷えとした気分に陥っていた。目の前のこいつは、とっくの昔に死んで、こうして化石になっている。動かないし、何も喋らない。一方で、ボクには肉体があり、精神があり、こうして生きている。そして、同じ種族であるはずのプテラの化石を、眺めている。ボクって一体何なんだろう? イヤでもそのことに考えを巡らせないわけにはいかなかった。森では、あまりまともに考えてこなかった問題に、ボクはこんなところで直面することになる。 相変わらず、オンと出会うよりも前のことは真っ白だ。記憶があったという感覚すらない。やっぱり、ボクもこいつと同じように、この間までは化石だったんだろうか? だとしたら、どうしてボクは今ここで生きているんだ?「ね? 僕の言ったとおり、面白いって思ったでしょ?」 そう問いかけるヤミカラスの表情は、ほくほくとしていた。 ボクは上の空だ。「でももっと面白いのはここからなの。1ヶ月前、ここで奇妙なことが起こったんだ」「1ヶ月前?・・・・・・って、どのくらいの時間ですか」「そこで話に釘刺すんだ。まあ説明するからいいけどさ。1ヶ月はヒトの時間の数え方だから。まあ、朝昼夜がワンセットで一日ってのは分かるでしょ? 1ヶ月は、だいたいそれを30回繰り返した時間のこと、ってことでいいよね?」 ボクがオンと初めて出会ったのは、どのくらい前のことだったっけ? ボクはちょっと気が落ち着かなくなってくる。「とにかく1ヶ月前のこと」 ヤミカラスは丁重に咳払いまでした。「この発掘現場からプテラの化石が盗まれたんだ。犯人はまだ捕まってない。もちろん化石も行方不明。でも、盗まれたっていうよりは消え失せたって言う方が近いかもしれないな。だって、プテラの化石を丸々一体、誰にも見つからずに、持ち去ったわけだしね。悪の組織ってやつ? が関わってるっていう噂もあるけど、それだったらもっとがっつりと盗んでもおかしくない。金が目的ならなおさらね。どうせ、警察だってなかなか手を出せない手合いなんだから、開き直って堂々とやるはずだよ。僕も一応、ワルの端くれだから分かるんだけど」「だとしたら犯人は誰なんですか?」「犯人は分からないけど、化石の在処なら分かるかも」 そのとき、ボクを見つめるヤミカラスの目は不気味に輝いていた。「だって、目の前にあるかもだし」 ボクはまだ、今のこの境遇に満足していたのだ。彼の言葉は突然の刃のように、ボクに刺さった。「ね?」

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 誰かにささやかれたような気がして、オンはばっと目を覚ました。夢だったのか? でも、目覚めたそばから見ていた夢のことなんて忘れてしまっている。そもそも、夢を見ていたのかどうかすら。 それにしても、随分と寝てしまった。洞窟を出ると、夜は更けていた。月が高く輝き、ヨルノズクの鳴き声がどこかからこだましてきていた。やらかしちまった、とオンは思った。いやしくも縄張りの主とあろうもんが、こんな時に惰眠を貪っているなんてあるまじきことだ。オンが夜中に起きて、縄張りの監視にその円盤のような耳を光らせているからこそ、住人たちは安心して過ごすことができるというのに。 オンはその場で脱力した。縄張りの主としての自信が少し崩れて、暗い考えが頭の中を巡り出した。身についた習慣が一度でも乱れると、取り戻すのはなかなか大変だ。反省しなくちゃいけない。せっかく、今の今まで順調にやってきたのに、ここのところ、なんだかふがいないことばっかりだ。 それも、彼がオンの前に現れてからだ。彼への抗いがたい感情が、オンの調子をえらく乱しているのは明白だった。しかし、ネガティブな心境に浸っていても、彼のことが少しでも脳裏にちらつくと、オンは狂おしい気持ちを呼び起こされて、たまらなくなる。あいつともっと一緒にいたいとか、できるものなら添い遂げてしまいたいとか、猛烈にあいつを抱きしめて、いっそのこと心の臓まで一つになってしまえばいいとか。全部、彼が現れるまでは考えたこともないことばかりだった。 胸が高鳴っている。顔が火照る。喉がカラカラに渇く。なかんづく股がうずいている。これってほとんど病気みたいなもんだよな、と自嘲する。「いつまでもこんなんじゃやってかれないんだっつうのに」 深呼吸する、口を最大限に開き、翼をピンと張り、胸を突き出し、背中を反らして、そのまま仰向けに倒れ込んでしまいそうなくらいになって、周囲の木々をすべて吸い込もうとするかのように、肋骨が浮き出るほどに、肺の限界まで空気を吸い続けた。絶頂に達すると、ピタリと動きを止め、一瞬の後に、すべてを吐き出した。空気弾が、目の前のものをことごとく吹き飛ばしているかのような想像をすると、痛快で、気分が爽快になった。「よかった」 オンは独りごちた。「まだ、大丈夫だよな、きっと、うん、だな」 それにしても、あいつはどこに行ったんだろう? 今日は特段言付けを頼んだわけではない。ただペラップと連絡を取り合って終わりのはずだ。それなら、もう帰ってきていてもいい。帰ってきたなら、うっかり寝ていた俺を起こしてくれているはずだ。 オンは縄張りをあちこちと探し回ったが、彼はいなかった。ペラップにも出会わなかった。いつも落ち合っているはずの池に行ってみたが、今度はそこを見張っているはずのヘラクロスがいなかった。池のそばの草むらの一部分がびしょびしょになっていたが、それがどうしてだかオンには分からなかった。 耳を澄ませてみても、誰の気配も感じられなかった。俺が寝ていた間に、いったい何が起きたっていうんだ? オンはいらいらし始めた。しかし、何が起きたのかがはっきりしない以上は、どうにもしようがなかった。本当に異常事態が起きたならば、誰かがオンのもとにやってきて、叩き起こしてでも伝えてくれるはずだ(一方で、夜中に爆睡している姿を誰にも見られなくて、本当によかった、とオンは安堵もする)。 まあ、何をしているのかは知らないけど、そのうちみんな戻ってくるだろう、ということにした。今晩はしくじってしまったけれど、気を取り直そうとオンは決めた。今からでも、主としてできることは済ませておこう。 オンは池で体を洗い、水を飲んだ。それから住みかへと戻り、洞窟のそばの木の上から、縄張りの音に耳を傾けて夜を過ごしていた。退屈しのぎに、ペラップから教えてもらったあの歌を口ずさみつつ。 気分が徐々に明るくなっていった。それまでの思い悩みをいったん忘れて、オンは気持ちよく歌っていた。幸せですらあった。

 50
「何が言いたいんですか」 ボクは反論する。「ここで盗まれた化石が、ボクだってこと? でも、そんなこと言われたって、信じられるわけないじゃないですか」「でも、可能性はあるじゃんか」 ヤミカラスはきっぱりと言うのだった。「別にはっきりした証拠があるわけじゃないし、僕は不良であって探偵ではないし。だけどさ、偶然にしてはちょっと不思議な偶然だと思うんだよねえ」「偶然? 何が?」「あんたがあっちの森に現れたのは、化石が盗まれてすぐ後のことだったんでしょ?」 それはボクがなるべく考えまいとしていたことそのものだった。ああ、きっとそういうことになるんだろうな、と思ってはいたけれど。ずばり指摘されると、ボクにはどう抗いようもないことだった。「んで、あんたは都合がいいってくらいに、過去のことを何一つ覚えてない。何を聞かれてもはぐらかしちゃうんだってね。記憶喪失って割には、頭を打った形跡もなかったって言うし、ますます怪しい、って思うじゃん」「ちょっと待ってください」 ボクは聞かずにはいられなくなって口を開いていた。「どうして、ボクと会って間もないあなたに、そんなこと分かるんですか!」「あれ? 話してなかったっけ」 ヤミカラスはわざとらしく首をかしげた。その様子は、丁重さを装っていながらも、かえってぞんざいさを見せつけるみたいだ。「親分の命令で、前々からあの森を偵察してたんだよ」 そう言われた瞬間にボクはぎょっとする。「・・・・・・いつから?」「だいぶ前からね。ほら、僕らって独自のネットワークがあるから。ってわけで、こう見えても僕、あんたらのこと、あんたらが想像してる以上に知ってるの。質問してみなよ。そこそこマニアックなことでもオーケー」「・・・・・・」「別にビビることないじゃんか。僕らの世界ではごく普通のことなんだし」 ヤミカラスは興に乗って、歌うように喋り出した。「まずあんたは、1ヶ月前に突然森に現れた。それでいて、なぜだか森に来る前のことは何にも覚えていない。頭はまっしろ。プテラって種族はいわゆる化石から復元されたものがほとんどで、野生は滅多に見られないんだよね? え、それも知らなかったって?・・・・・・面倒だな。とにかく、出自のよくわからないあんたみたいなのは、森の連中にとって本当は厄介な存在だと思われてんの。どこまで信用すりゃいいのかわかんないし。だけど、あんたが迷い込んだ森の縄張りの主のオンバーンは、あんたを引き留めて、あまつさえ一緒に住まわせているんだよね。おまけに、森の掟を無視して、あんたに何の見返りも求めずにいるものだから、余計。それが、あのペラップには不満だったんだね。まああの鳥、結構、秩序を重んじるタイプだしさあ、一緒にいて分からない? で、あんたのことが原因で、喧嘩をして、今は距離を置いちゃってる。ペラップが親分のところに来たのは、おおかたあんたのことで相談するためだろうね。あ、そうだ、これがさっきの”崇高な目的”ね。どう、難しかった?」 本当に頭がまっしろになっていた。ヤミカラスがからかうような目でボクを見つめていることに対して、何も感じないほど。何もかもが、ボクが聞いていたことと違っている。オンとペラップさんが、最近顔を合わせていなかったのは、ボクのせい? というか、ボクが、森のみんなにとっての厄介者だって?「そんなの全然聞いてない、なんだか話が違ってる」 ボクは自ずとぶつぶつつぶやいていた。「てゆーか、あんたもちっとは自分のことまじめに考えときなよ」 ヤミカラスの言葉が、うなだれているボクの背中を蹴る。「やっぱり、ボクっておかしいんですか」「もち」「じゃあ、もしあなたの言うとおりに、ボクが元々盗まれた化石だったとしたら、どうしてボクは生まれてきたんでしょう」「さあね」 ヤミカラスはさっきから、上の方をちらちらと気にしている・・・・・・「そんなの盗んだ奴に聞かなくちゃわかんないでしょ」「ボクはどうすればいいんでしょう?」「森の暮らしが気に入ってんだろー? だったら、自分で何とかするしかないじゃん」 ヤミカラスはじっくりと毛繕いをしている。「そうではあるけど、ボクには何のアテもないんですよ」「まあまあ、自分探しったって一朝一夕で済むもんじゃないし、アテがなくて当然じゃん。これはあんたにとっての冒険になるわけよ。分かる?」「ぼうけん、ですか?」「そ、冒険」 毛繕いを終えて、ヤミカラスはボクをしかと見つめなおした。「あんたは今、カントー地方への第一歩を踏み出した、ってことっすよ」「え?」「はい、あんたの蒙が啓けたところで続きはまた」 と無理矢理話を打ち切って、ヤミカラスは一声鳴いた。「じゃあ、もうこっち来てもいいよ」「話長過ぎ! ボクさっきからずうううっ、とうずうずしてたんだけど?」 いきなり、ボクらの脇に見知らぬ奴が飛び降りてきた。そいつは、鋭くとんがった口をくいっと向けて、じっくりとボクの顔を眺めた。いろんなことが立て続けに起きて、ボクは身がすくんでしまう。「すっげー! やっぱ、本物じゃんか! ボク、ずっとキミに会いたかったんだ! 嬉しいなあ!」「えっ」「あっ、自己紹介しないとね、ごめんごめん。エアームドっていいます。夜はこの辺の見張りやってんの。で、ヤミカラスとはタメ、ってやつ? それはともかく、はじめまして、よろしく、プテラくん」 聞きたいことが次々と頭に浮かんできたけれど、頭の中はごちゃごちゃしていた。ボクが口を開きかねているうちに、エアームドはどんどんしゃべり続ける。「ボク、この場所好きでさー。暇な時とか退屈した時とか、いっつもここに来てキミの化石を眺めてるんだ! 復元された姿って、実は生で見たことなくて、きっとかっこいいんだろーなーって、思いながら憧れてて。まさか、こんな風に出会えるなんてびっくりだよお!」「ええ・・・・・・」「キミってやっぱり、マジかっこいいね! ホント、空の王者って感じだよ! ねえ、ぶしつけで厚かましいお願いかもしんないけど」 分別を忘れるくらいの、えらいはしゃぎっぷりだった。「ボクと友達になってくれないですか?」「ええっ?!」「なっときなよ。冒険に心強い仲間は不可欠だし?」 ヤミカラスが横目でボクを見る。すごく、楽しそうだ。「あ、じゃあ・・・・・・はい」 もう、どうにでもなってしまえ! ボクはもう後先考えるのが面倒くさくなっていた。どうやら、ボクはこの一夜で、引き返せない境界を越えてしまったみたいだったから。「よっしゃあ! ボクって本当に運がいい!・・・・・・ってなんだこれ」 エアームドは、足下にぶつかった何かをクチバシで拾い上げた。それは、さっきボクが転んだ時に落っことしたオッカの実だった。「うわっ、木の実だ! ちょうど小腹空いてたんだよねー、食べちゃお」 ボクが言い出す前に、エアームドはさっさと足で殻を潰して割り、中の実をポンと宙に放り出して、そのまま口の中へ放り込んだ。喜ばしげに開いた羽根がぎらりと光った。「おいしーなー、なんだか体がポカポカする。で、なんでこんなとこに木の実?」「多分それ、こいつが落としたやつじゃないの。ずっと手になんか持ってたし」「えーっ! 勝手に食べちゃったや! ごめん、プテラくん」「大丈夫だよ、別に」(そうとしか答えようがない)「ありがと、プテラくん。せっかくだからボク、キミとたくさんしゃべりたいな、ねえ時間ある?」「朝になるまでは、余裕なんじゃない?」 ヤミカラスが勝手に答える。「りょーかい。じゃあ、まずさあ・・・・・・」 訳が分からないままに、ボクは斜に構えたヤミカラスによって、この場所に導かれた。もしかしたらボクの起源かもしれない場所。そして、エアームドとなんだか成り行きで友達ということにされて、朝の気配が訪れるまでずっとたわいないおしゃべりをして過ごすことになった。 この成り行きはボクをいったいどこへ連れて行くんだろう? 結末はなかなか見えてこなかった。

 51
 今夜の出来事は、ボクが今まで生きてきた中で(と言うくせに、どのくらいボクが生きてきたのか、ボクは知らないのだ)、一番濃密で、長く感じられた。その分、エアームドと別れてからは、目まぐるしかった。朝方に屋敷へ帰ってくると、ペラップさんとドンカラスさんが応接間で話をしながらボクのことを待っていた。用事はとっくに済んでいたみたいで、ペラップさんのタブレットは新しいカバーに装着されていた。ボクたちは、ドンカラスさんとヤミカラスたちにお礼を言うと、すっかり朝になってしまわないうちに、屋敷を、この街を飛び立っていった。あのヤミカラスは、ボクを屋敷まで案内し終えると、いつの間にかどこかに行ってしまった。 帰りの飛行中、方向の指示以外では、ペラップさんと言葉を交わさなかった。ペラップさんはだいぶ疲れたように見える。それに、ボクが街に連れられている間に知らされたことを思うと、ペラップさんと話をしにくかった。心の底では、ボクのことを快く思っていないことを知ってしまったからには、ボクがペラップさんに対してとってきた態度が、ボク自身、恥ずかしくてたまらなくなっていた。街へ向かう直前に、ボクはあれだけペラップさんの体調を心から心配していたのだ、そんなこととは露知らず。 新しくカバーをかけたこのタブレットを使って、ペラップさんが密かにボクについて調べようとしていたのは容易に想像できた。ボクを受け入れるか拒むのかを決めるために、正体を暴こうとしているんだろう。「おい」 ペラップさんがようやく口を開いた。「どうしたんですか、ペラップさん」「洞窟に戻ったら、オンに伝えてくれないか。もう体はよくなったから、今日の夜、またそっちに来ると」「分かりました。任せてください、ペラップさん」 体調のことをペラップさんが持ち出したのを聞いて、どうやらボクが相変わらず無知だとペラップさんが思っていることを確信した。ボクが、いまペラップさんの頭の中にあることを知っているとは、思いも寄らないのだ。ちょっとだけ得意になる。ということは、あの街中の化石発掘現場のことも、ペラップさんは知らないってことだろうか? 1ヶ月前に、そこでプテラの化石が盗まれたってことも? だけど、タブレットを使い、ドンカラスさんのところに相談へ行ったりもするペラップさんが、それについて全く知らないとも思えない。 ペラップさんは、ボクが夜中にどこへ行っていたのか、特に尋ねはしなかったけれど、ここはボクから話をしておくべきじゃないかとは思った。でも結局、ペラップさんには何も打ち明けることができなかった。とはいえ、ボクはオンやペラップさんとの関係を築き直さなければいけない。まだボクはボク自身のことを、全然よく分かっていないけれど、少なくとも今日からは、ボクは純粋無垢ではなくなったのだ。 太陽がそろそろ上ってくる頃に、ボクたちは森へ帰ってきた。たった一晩離れていただけなのに、ものすごく懐かしく感じられるのが妙だった。開けた池のそばに降りたって、ペラップさんとは別れた。タブレットを脇に抱えながら立ち去っていくペラップさんの後ろ姿は、弱々しく、とても頼りなさ気に見えた。 ただ、頭の中ではずっとオンのことを気にかけていた。夕べ、何も言わないで街へと出て行ってしまったし、その上、こんなに帰りが遅くなったのだ。きっと心配してる。気がはやった。ボクは飛ぶように、オンと住む洞窟へ舞い戻っていった。 もう寝てしまっていてもおかしくない頃合いではあったけど、オンはまだ起きていた。しかも、木の実を地べたに広げて、あぐらをかいて、まんじりもせず。木の実には一個たりとも手をつけてはいなくて、ともかくボクが帰ってくるのをじいっと待っていたらしい。集中して洞窟の一点を見つめ過ぎて、気が遠くなっていたみたいで、ボクが洞窟の中に入ってきても、オンはしばらく気がついてくれなかった。「帰るのが遅くなっちゃった。ごめん」「おう」 寝ぼけたような返事だった。「どこに行ってたんだ?」「ペラップさんと街まで出かけてて。用があるからっていうから、ボクがペラップさんを背中に乗せて、飛んでいって・・・・・・」 オンは耳を反射的に震わせながら腕を強く組んだ。自分で自分を抱きしめるみたいな姿勢で、考え込んだみたいだ。これは、オンが考え事をするときに決まってするポーズだった。ボクもそれくらいのことには気づけるくらいにはなっている。「どうしたのオン、物思わし気な顔して」「あいつ、体調崩してるとか言ったくせに、やけに活動的だなと思ってさ」「体調はよくなったって。明日から、またここに来るって言ってたよ」「そうか。ならよかった」 オンはほっとした表情をしてみせるけど、それが多かれ少なかれ嘘だってことを、もうボクは知っている。オンは、ボクのために、これまで不思議なくらいに気を遣ってくれていた。だけど、ボクに対して厳しく接さなければいけないのは、本当だったら他でもなくオンのはずだ。オンは縄張りの主で、この場所の秩序を司る存在なわけだから。それがいわゆる、森の掟、ってやつなんだっけ。ボクがこのまま居続ければ、オンに迷惑をかけることになる。なのに、オンはボクに向かって何も言わず、ここに置いてくれている。いったい、どうしてだろう? ボクにはまだその理由が分からなかった。「それで、何したんだ? その、街で」「ドンカラスって鳥のところに行ったんだ。ペラップさんは、なんかタブレットのことで相談があったみたいで。その間、ヤミカラスたちに連れられて街を案内された」 オンは、訝しげに思っているみたいだったけれど、それ以上のことはあまり深く尋ねようとはしなかった。 楽しかったか? 楽しかった。 そっか。 ボクとオンは差し向かいになって、食事をとった。洞窟の外はもう朝で、鳴き声がちらほらとここまで聞こえてきていた。少しだけ時間がずれただけなのに、ボクはなんだか気まずく、いたたまれないような気分だった。あれだけ飛び回ったにもかかわらず、食欲はあまり湧いてこなかった。オンも同じらしい。やがてボクもオンも手が止まってしまい、もともと黙りがちだったのが、木の実の擦れる音とか、かじられる音の響きとかすら聞こえなくなり、洞窟が静まりかえる。 話すべきことは話しておこう、とボクはいよいよ腹を決めた。「ねえ、オン」 オンはぼうっとしていて、話しかけられたのに気づかない。「え?」 やっと、オンは返事した。「どうしたって?」「えっと、いや、その、ちょっとしたことというか何というか、大したことでもないんだけど」 思いがけない態度をとられたので、ボクの決心はたちまち鈍ってしまう。いったんは決意を固めたことであっても、余計な邪魔に入られると、それまでの葛藤というかなんというか、そういうものが全部やり直しになってしまうじゃないか。ボクはおどおどして、けれど、一度話しかけてしまった以上は、何か言ってその場を取り繕わないといけなくなるのに、その言葉が全然浮かんでこなくて、ボクは戸惑う。「オンがこないだ歌ってたやつ。街のヤミカラスも歌ってたなーって」「え?・・・・・・ああ! あれかっ」「どういう歌か尋ねようとしたんだけど、尋ねられなくてさ」「そうだったのか」「・・・・・・」「・・・・・・」 ボクたちは困惑しあっている。ボク自身、突飛な話題を口にしたくせに、話を続けられずに、なんだか申し訳ない気持ちになった。オンはおもむろに手に取った木の実をかじった。かじった途端に、何かに気がついたかのように、しげしげとかじった実を点検しているようだったが、やがて残った分も口へ放り込んだ。「とにかく、街ってでっかくてなんだか、森とは全然違う場所だったよ、オン」 ボクは下手くそに、今日の出来事を要約する。 オンは深いあくびをした。本当に眠そうだった。仰向けに寝っ転がると、そのまま眠ってしまった。いきなり倒れてしまったようにも見えたから、ボクはびっくりしてオンを抱きかかえまでした。オンはぐっすりと眠っていた。体を強く揺さぶっても起きそうになかった。 仕方がないから、ボクもすぐ横で体を丸めた、けど、なかなか眠れなかった。疲れているはずなのに、頭は冴え渡っていて、考えようとしなくても、勝手に何かしら考え始め、いつまでも止まらない。今日起こったことに対して、ボクはまだ頭がこんがらがっている。 あの二羽とは、おしゃべりするというよりも、ずっと話を聞かされていたようなものだから、ボクはたじろじっぱなしだった。何をそれほどしゃべることがあったんだろう、エアームドは次から次へとしゃべり、しゃべり、しゃべり続けていた。ボクはエアームドの勢いに気圧されて、繰り出されるおしゃべりを受け止めきれなかった。おかげで、印象に残ったのは、エアームドの銀色の体が、月の光に照らされててかてかときらめいていたことだった。話しながら、ぶるぶるだったりくしくしだったりゆさゆさだったりと、体を忙しなく動かしていたせいかな? それにしても、ボクはものすごく気に入られてしまったらしい。またあそこで会う約束までしてしまった。ヤミカラスが事情を説明したら、彼、たちまち目を輝かせて、キミに協力したいと言って、ボクの足下に縋らんばかりだったのだ。なしくずしに、ボクはすべてを受け入れないといけなかった。いつ、どうやって会うんだろうとか、ちっとも相談せずに決まってしまったから気がかりだ。二羽とも、そんなこと心配する必要もないかのような態度だったから、特に気にしないことにしようとしか、まあ。 ともかく、ボクはそのうちまたあの場所へ行くことになるんだろうか。ボクはボクのことをはっきりさせないといけない、そうしないとまずボクはどこにもいられないのだ、そういう気はしてきたから。幸い、この森から街への道のりは、何となく覚えたから、ボク一匹でも行けないことはない。ヤミカラスに告げられたことが、どうしても心に引っかかる。そんなことは何の根拠もない言いがかりかもしれない、だけど本当だったなら?・・・・・・ さっきは言いあぐねてしまったけど、目を覚ましたらオンに伝えることにしよう。よしっ。ボクは目を開き、洞窟のほのかな明るみを見つめていた。朝なのだ。森の住人たちが、目を覚まして動き始めている。ボクはこれから眠る。そのことが今更、不思議になる。

エターなるオンプテ小説(2/4)

 続き。

 1〜16までは、pixivでの既出なので、それを読んでいたという奇矯な方はここからお読みください。

 

 17

 ボクが目覚めたとき、オンはまだ眠っていた。
 ボクは夢を見た、ような気がする。夢なのか夢じゃないのか、夢だけど夢じゃないのか、夢なのに夢じゃないのか、夢じゃないけど夢なのか、夢じゃなければ夢なのか、ボクなりに考えを巡らせようとしても、すぐに行き止まりにぶつかってしまう。夢だったのか夢じゃないのか、とにかくあいまいな、幻覚のような、金縛りのようなものをボクは味わった。けれどそれが何だったのか、起きてみると全然言葉にできなくなっていて。
 でもそんなことはどうでもいいのかもしれない。ボクには夢のことよりも、現実で起きていることの方が大事だし、対処しなければならないのもそっちだ。
 ボクは目覚めるともなく目覚めた。いつのまにか目が覚めていた。けれど、体の感じがいつもと違っている。もちろん、突然姿が変わったというわけではない・・・・・・ボクが感じたのはイヤな予感だ。それも、一番イヤなところからくるものだ。
 ボクはおそるおそる仰向けになって上体を起こし、そこを見た。すると思いがけないことに、ボクの股間が濡れている。少し手で静かにまさぐってみると、びちょびちょだった。爪に付いたそれは、爪の間で長い糸を引き、においを嗅ぐと、きつい臭いがして、思わずのけぞってしまった。股間のことなんて、ほとんど気にしたこともなかったのに。
 もう一度、ボクは自分の股間を見る。こんなことのために自分の体を眺めることなんてまったくなかったから、自分のものなのに恥ずかしい。下腹部から尻尾の付け根のところには、くっきりとした線が浮かび上がっていて、その線の周りが特にひどく濡れているのだった。ボクは察しつつあった。ちょっと爪先で線に触れ、そっと中に入ってみると、まるで水の中のような心地がした。ボクの爪がボクのモノに触れると、ボクはたまらず爪を引き抜いた。爪は粘液にまとわれて、気持ち悪い。だからといって、舐める気には全然なれない、当たり前だ。
 でもこの粘液は、ボクのモノから出てきたものなのだ。しかも量は少なくなくて、ボクのお腹はすっかり汚れてしまってる。昨日、オンが木の実を投げつけられたのとでは、全然違う。でも、どうして、いきなり?
 オンがまだ起きていなかったことは、ボクにとって幸いだった。自分ですらこんなに恥ずかしいのに、オンに見られたりしたら、ボクはどうなってしまうか想像もつかない。どうしても気になって、ボクは股間の線を苦々しく爪でなぞったら、気持ちよさがほとばしって、ボクは声をあげそうになった。
 ボクはオンに池の場所を教えてもらっていた。といっても、オン式の、説明というよりは感情でものを伝えるような仕方で、何となくでしか位置を把握できていないのだが、こうなってしまった以上は、どうしようもない。この体をまずはどうにかしなくちゃいけなかった。正直、水は苦手だけれど、浴びずにいたあとの恥を思えば、いくらでも我慢しなくちゃならない。そろそろ暗くなる頃合いだから、誰の目にも触れなければいいんだけれど。
 股間が濡れていると、立ち上がるにも、歩くにも気持ちがよくない。ボクは自然と気が急いた。オンが起きる前にはコトを済ませなくてはいけない、それ一心だ。


 18

「おはよう。昨晩は済まなかったね。これどうぞ、ちょっとしたお礼に」
 ペラップは朝一番に、ある鬱蒼とした草むらを尋ねていた。手土産に木の実をいくつか持参しながら。
「なんだあ! おはよう、ペラップさん・・・・・・あっ! もう、わざわざ・・・・・・」
 草むらから出てきたのは、普段から世話になっているピカチュウだ。丸みを帯びた雌の尻尾を振りながら、ピカチュウペラップからの贈り物を手一杯に受け取る。
「毎度毎度、こんなことしてくれなくても、全然構わないって言ってるのに」
「いえ。私も昨日はわがままな振る舞いをしてしまったし。掟とはいっても、これくらいしないことには、申し訳が立たないと思ってね」
「そんなものかなあ? でも、ありがと!」
 ピカチュウは満面の喜びを体いっぱいに表現する。
「ほんとに優しいんだねー、あなたって」
「いえいえ」
 と言いつつも、ペラップはつい頭をかいてしまう。
「それにしても、あなたのテンキヨホーってすごいんだねえ。雨って言ったら、本当に雨だったし。おかげで昨日は濡れなくてすんだし! ねえペラップさん、今日の天気は?」
 ペラップタブレットで今日の天気を調べてやる。
「晴れ時々曇り、降水確率20パーセント。というのは、空は青くなるが、ほんの少しだけ灰色になるときがある。雨はもしかしたら降るかもしれないが、おそらく降らないだろうし、降ったとしても少し肌に触れるだけだから気にすることもない。つまりは、いつものように生活していれば平気だよ」
「なるほど、りょーかい」
 ピカチュウは短い手をめいっぱい挙げる。手につられるように、体も自然と背伸びする。
「なら安心!」
 ペラップピカチュウのとりあえず何に対しても嬉しそうな様子を見て、堅い顔つきが思わず緩む。オンといるときとは全然違う安心感に覆われて、ほっこりする。ピカチュウと合う時間はペラップにとって一番楽しい時間と言えた。そのときだけは、この森での煩わしいあれこれに悩まされる必要もなくなる。ピカチュウはとにかく純真で、ペラップはそれがものすごくうらやましくてたまらない。
 ピカチュウは、もらった木の実を抱えて、一度草むらに潜り、しばらく経ってまた出てきた。
「あ、そういえば」
 思いついたようにピカチュウペラップに問いかける。
ペラップさん、このあとオンさんのところ行く?」
「まあ、行くだろうけどね」
 ペラップは、あまり乗り気でない受け答えをする。
「相談したいことがあって。事情はちょっと複雑だから今はよすけど、友達がここに来たいっていうんだよね。私は全然歓迎なんだけど、どのみちオンさんがOKしてくれないといけないって決まりだからさあ」
「ああ。それなら私からあいつに言っておこう。何、簡単な話だから、心配なんてすることはないさ」
ペラップさん浮かない顔してるね、オンさんと何かあったり?」
 ペラップの不服そうな様子に気がついて、ピカチュウが尋ねた。
「何かあったといえば、まあ、あったというんだろうが」
 ペラップは非常に話しにくそうに辺りを見回す。
「ここだけの話ということにしてくれよ・・・・・・」
 ピカチュウは腕を前にぐっと突き出して、了解のポーズを示す。
「このあいだから、オンの奴、プテラという奴を住みかに住まわせているんだ。あなたはプテラという種族をご存じですか」
 ピカチュウは首をかしげる
「一言で言えば、灰色をした翼竜です。この辺りの鳥たちよりも一回り二回りも大きい。ごつごつとした外見で凶暴そうには見えるが、内面は柔らかだし、とても感じはいいんだ。たぶん、あなたも近く会うとは思うが・・・・・・その子自体が問題じゃなくて。私が理解しかねるのはオンの態度なんだよ・・・・・・私たちには縄張りの掟というのがあるだろう?」
「もちろんね。私の場合は、オンさんというよりはあなたのためなんだけど」
「私があいつにそう提案しましたから・・・ともかくそのようにして、私たちは何かを引き替えにしてあいつの縄張りに住まわせてもらってるわけだ。けれど、彼だけが違う。あいつはなぜか、彼には何も求めずに、いわばタダで住まわせてやってるみたいなんだ」
「いったい、どうして?」
「それが、わからない。そんなことをしていると、縄張りの秩序がおかしくなってしまうと恐れて、私は何度も何度もあいつに忠告はしているんだが、反応が鈍くてね。それに彼の様子を見る限り、どうやら二人で相談した様子もない」
「オンさんにしては、おかしな話ね。縄張りのことにかけては、すごく厳しいんじゃなかったっけ」
 ピカチュウは、初めて会った時のオンの鋭い目つきを思い浮かべていた。
「そのプテラというのは、そんなに特別な存在なのかな?」
「ちょっとした話になるけどね」
 ペラップピカチュウにかいつまんでその経緯を教えて聞かせた。ある日、縄張りの見回りから戻ってきたオンが、ペラップを尋ねてきた。なんでも、さっき縄張りで勝手に木の実を食っている奴を見つけて、どやしつけてきたのだが、そいつは見たこともない姿をしていたから、気にかかるのだと言う。オンから聞いた特徴から、ペラップはそれがプテラということはすぐわかった。外の世界を旅していれば、必ずしやどこかで聞く種族だったからだ。プテラという種族について、ペラップはおおまかにオンに説明をしてやった。プテラは、もっぱら化石や琥珀から復元される種族で、つまりは自分たちが生まれるというのとは異なった生まれ方をしているということ。だから、野生のプテラというのはおおよそ考えられない、元から森に住んでいたなんてことはなおさらありえない。ということは何らかの事情で、外の世界から迷い込んできた可能性が高い、ということ。
 ペラップはもしやと思い、タブレットで情報を集めてみたが、どこかからプテラが逃げ出したというニュースは見つけられなかった。だがいずれにせよここはオンの縄張りなのだから、相手が珍しい種族だろうが、自分たちの問題ではないだろうというのがペラップの意見だった。
 ところが、後日、オンは彼を自分の住みかの洞窟に連れてきていた。ケガをしているようだから、ちょっと面倒を見てやりたくてという理由だったが、縄張りに侵入する連中に対して、残忍に振る舞える奴の言うこととはペラップには思えなかった。だいたい、彼がそこまで深刻なケガをしているようには全く見えなかった。部外者のかすり傷や切り傷など、何も気遣いする必要などないはずなのに。そのうえ、オンはいつまでも彼を洞窟から追い出すこともせず、今の今まで一緒に暮らしているのである。
 当初ペラップは、オンがこのプテラと何かの契約を結んだのだろうと思っていた。しかし、ペラップ自身オンの住みかに出入りしているうちにわかったことには、どうやらこのプテラは森の掟についてまったく知らされていないようなのだ。彼と二人きりになったときに、さりげなく探りを入れてみたが、彼は天真爛漫な受け答えをするばかりだった。
 ペラップは徐々にむずむずしてくるが、肝心のオンの態度がどっちつかずという有様だから、こちらから彼に対して厳しく迫ることもできないでいた。そうしているうちに、だいぶ日が経ってしまった。昨日もやはり同じことをオンに、それもこれまでよりもきつく言ってやったのに、甲斐がなかった。なぜだか、オンの奴は、彼との関係をはっきりさせようとしない。ちょうど自分が、タブレットの有用な情報を通じて、オンと築いているような関係をだ。こと彼のことに関しては、オンが何を考えているのか全然わからない。
ペラップさんがわからないなら、私にもわかりそうもないなあ」
 とピカチュウは笑う。
「でも、それって、ズルいと言われてもおかしくないよね」
「悪い噂が立つのが、一番怖いんだよ」
 と、いっそう声を低めてペラップは話す。
「この頃また嫌な兆しがしているだろう?・・・・・・わざわざあいつが森を頻繁に見回るようになったしな。こんな時に、たとえばだ、オンがよくわからない種族の者にいいように扱われている、オンの縄張りの秩序がたるんでいるなんて悪辣な噂をどこからか広められないとも限らん。そこを狙って、争いでも起きたらどうなるか」
「怖いなあ。争いなんてしたくないよお」
 ピカチュウはガタガタ震える。
「本当に、やれやれだ! あいつには困らせられる。私はどこにいっても、苦労させられる身なのかね・・・・・・」
 それに、とペラップは考える、あのプテラが何者なのかさえわからない。それから事あるごとにタブレットで調べてはいるが、手がかりはつかめない。ペラップの経験上、どこかの施設から脱走してしまった以外に考えようがないのに、今の状況だと、その可能性は考えにくい。だとしたら、本当に、いったいあのプテラはどこからやってきたんだ?


 19

 オンはゆっくりと起き上がり、悠々と背伸びをしながら、間の抜けたあくびをする。ぼうっとしながら洞窟の一点を眺め、眠気がすっかり引くまでいた。それから彼が洞窟からいなくなっていることに気づくが、そんなことは最初からわかりきっていた。
 気持ちはオン自身意外だと思うくらいに穏やかだった。今の洞窟の静けさと、オンの心の静けさと、なかなかいい勝負だった。小腹が空いてきたので、倉庫から木の実を一つだけ取り出して、洞窟の外に出てみる。
 いつものところにペラップは止まっていなかった。さっきのことがあったから、さすがに平然と現れるわけにもいかないのだろう。話し相手もいないから、自然とオンは黙り込んでしまう。洞窟の入り口のそばに座り込んで、森の音にしばらく耳をかたむけてでもしている。
 オンの円盤状の耳がもつ聴覚は、どんなに微かな音からでも、多くのことを知ることができる。どの種族の連中がどの辺りに潜んでいたり飛び回ったりしているのかを、経験もあって、オンはそこから動かずして、目をつぶっていても見ぬくことができる。当然、縄張りを守るにもこの聴覚は力を発揮した。たとえば彼らのざわめきを捉えるだけでも、実のなる木や水辺がどの辺りにあるのかの見当がつけられるから、他の種族よりも遙かに合理的に素早く行動できるわけだった。オンは手っ取り早く食料と水との死活問題を解決できたから、後はそこを守ることに専念していればよかった。聞き慣れない音を聞きつけてその場に駆けつけ、縄張りの外の連中が荒らしに来ていたら、軽く脅しつけて追い出す。しつこく荒らしてくるようなら、最終的な手もやむをえないが、もし縄張りのために役に立ってもらえそうならば、話を付けたうえで、ここに住まわせることを認めてやる。ともかく、臨機応変に、ってこった。
 耳にだけ神経を集中すると、雑多な音がまるで目に見えるようだ。草むらで、木の茂みで、縄張りに住んでいる奴らが晩ご飯をとろうとしているのか、あちこちで一斉にうごめいている。たぶんその中にペラップもいるだろう、もしかしたらいつものピカチュウのところにでもお邪魔しているかもしれない。ただそこまで見極めるには、超音波ではなく超能力が必要だろう。縄張りの様子は平穏そのもののように聞こえた。常にオンがこの耳で睨みを利かせていることが外部の連中にも知れ渡ったせいか、この頃は敢えてオンの縄張りに踏み込んでこようとするものもいなかった。最後に、不審な音をキャッチしたのはいつだったかといえば、それは彼と出会った時なのだった。
 音から得られた情報が異質であったから、オンもかなり覚悟をしてその場に向かっていた。音波の形状から、相手は自分と同じかそれ以上の大きさをしていることが読み取れ、そのようなガタイの種族はオンの経験上、この縄張りの近辺にはいないことを知っていた。だから彼を見つけたとき、こいつは縄張りを荒らしにではなく、侵しに来たのかと疑った。そう、あの時は縄張りを作り出してから初めて、緊張した瞬間だった。
 しかし、あの時は張り詰めたおののきを感じていた彼の音を、今は平穏の一部としてオンは聞いている。彼の音は当然ながら非常に目立ってオンには聞こえるから、どこにいるかくらいはすぐにわかる。洞窟に彼がいなくてもオンがちっとも焦らないのは、そのおかげではあった。実際に、耳を澄ましてみれば、彼が池にいるということが聞き取れる。しかも彼としては珍しく、全身を水中に浸して、激しく水しぶきを立てていることまで。
 こんなこと考えていても、しらじらしいに決まってるよな。一、二度、何かを吹き飛ばすように頭を振って、もっと別の音に耳を澄まそうと努める。ただ彼の音を強く意識してしまった以上、なかなかそれから気を逸らすことができないのだった。オンは次第に、再び心が落ち着かなくなってくるのを感じる。彼が戻ってくるまでまだ時間がかかりそうな気配だ。非常に念入りに、彼は池で体を水に濡らしていた。オンはそれ以上は、彼のことを考えまいとする。しかし、オンは次第にむずむずしてきた。
 オンは、また意味もなく空を飛び回らざるをえなかった。オンは思ってから、行動するまでほとんど時間を要さなかった。オンは夜になったばかりの森の上へと飛び立っていく。ペラップが言っていた予報とは違って、空は曇っていた。少しばかり雨が降ってもおかしくない空気だ。


 20

 やっと、オンに教えられた池にたどり着けた。ここまでの道のりはなかなか大変だった。物音がするたび、ボクは近くの茂みに逃げ込んで、しばらくじっと様子を窺っていないといけなかった。何せ、夕方だ。ボクはうっかり普通の時間の感覚を忘れてしまっていた。この時間、みんなボクたちとは逆で、普通に起きている。これから夕食をとって、朝まで眠る。ボクだってもともとはそういう風にしていたに違いない。けれど、オンと暮らしているうちに、ボクの世界の見え方はまるで逆さになったかのように変わってしまっていた。しかも、ボクはそれにも気づかないでいたのだ。池にも住民たちがまだちらほらとたむろしていた。ボクはまたこっそり茂みの中から、彼らがいなくなるのをじりじりと待っていた。頭の中は、誰かに見つからないかという強烈な心配と、気持ち悪い感触のするボクのお腹のことでいっぱいだった。本当に、ボクはボク自身が嫌になりそうだった。
 誰もいなくなったのを見計らって、さっそく、ためらうこともなく、川に飛び込んだ。川の水の冷たさはたしかにボクの体には応えるけれど、そんなこと気にしていられない。ボクは必死に、問題のところを洗う。激しく翼をばたつかせながら、汚れを洗い落とす。ボクの翼は、水中で動かすにはとても不便で、思うようにそこになかなか手が届かなくてもどかしい。それに、やっぱり水が冷たくてつらい。下半身から、おぞましい寒気が体全体に行き渡るのを感じてしまう。自然とボクは、急いで体を洗ってしまおうとして、翼をむやみやたらに動かすが、そうすればそうするほど、翼は思うように動かなくなる。
 冷たさにもう我慢できなくなると、ボクは岸辺に這い上がった。そしておそるおそるお腹の辺りをまさぐってみて、もう汚れていないかどうか確かめてみる。一度水を浴びたから、ボクのお腹はたしかにきれいになっているはずだけど、ボクはなかなか確信を持てないままだ。結局、不安になって、念のためともう一度川に入って、より入念に洗う。ボクはボクの気が済むまで、川で体を洗っていた。
 とはいえ、あまりこんなことをしてまた体調を崩してもいけなかった。この間も雨水にしばらく打たれてから、しばらく調子が優れないということがあって、オンやペラップさんにはひどく心配をかけてしまった。ボクは体があまりに冷えすぎると、体調が悪くなったり、動くことができなくなったりするようだ。しかも、ボクの場合は、特殊な体質をしているのか、ちょっとした水を浴びるだけでも一気に体温が下がってしまう。だから普段は、こんなに長い時間、水中にいるなんてことはまずない。ボクが水に浸かり続けるのは、オンやペラップさんがそれと同じだけの時間、氷水に浸かっているようなものだ。
 体はきれいになった(はずだ)けれど、ボクはしばらくその場から動けなかった。しばらくは休んで体温を少しでも上げておかないと、オンのところまで戻れそうになさそうだった。ボクは翼で体を覆うようにして、その場でうずくまって休んでいた。時折、どうしても気になって股間の辺りをいじってしまう。特にあそこの周辺は入念に、一滴でも汚いのが残ってはいけなかったから。残ってはいないとは思うんだけれど・・・・・・
 すると急に、茂みから物音がした。オンかもしれない、あるいはペラップさん? でも、どちらでもない。茂みから出てきたのは、ボクの全く知らない相手だった。両手代わりの鎌の刃がボクの目に鋭く光る。黄緑と白の混じり合った色をしているそいつは、ボクの姿を認めるなり、鎌を下げ、腰を低くする警戒の姿勢を取った。ボクも思わず体を起こして、そいつと相対した。
 ボクとそいつはしばらくにらみ合っていた。ボクはなんとも言いようがなかった。こういうときに、いったいなんて言えばいいのだろう。初めてオンとはち合わせた時だって、ボクはなんとも言えなかった。一方相手も、ボクが何か言葉を発するのを待っているように見えた。一瞬の隙も見逃すまいと、目線はボク一点に注がれているみたいだった。ボクたちは、いつまでもにらみ合っていられたかもしれない。ボクも相手も、とにかく何も言わないで、少なくとも相手はボクをけん制していたのだ。
 ボクは、相手に声をかけて緊張を和らげたほうがいいと思った。そうでなければ、一晩中にらみ合いを続けかねなかったからだ。
「はじめまして、こんにちは。ボクはオンの縄張りで暮らすものです。あなたも、ここの縄張りの方でしたか?」
 できるだけ、にこやかな表情をして。
 沈黙だった。逆に、その場の空気がいっそう張り詰めたように感じられる。場違いなことを言ってしまったか、ボクはぞくぞくする。相手が黙ったまま、少しずつボクに近寄ってくる。警戒の姿勢を微塵も崩さないまま、鎌を前方に突き出しながら。
 いきなり、相手は鎌をボクの首のすぐそばに突き刺した。衝撃で、地面がえぐれ、土がボクの鼻先に飛び散った。相手の目は血走っていて、ボクはとてつもない冷酷さのようなものを察知し、気圧され物も言えなくなった。
「俺に生意気な口なんか利いちゃいけねえ。オンの縄張り?・・・・・・俺のこと何だと思ってやがるんだ」
 それは淡々とした口調だったけれど、煮えたぎる感情を極度に抑制していることを隠してもいなかった。
「てめえこそ、何だ。嘘をついてるな・・・・・・この森には似つかわしくないナリして?・・・・・・さては、流れ者か?・・・・・・いや、それなら俺が知らないはずが・・・・・・へっ!・・・・・・おい?・・・・・・何とか言ったらどうなんだ?・・・・・・」
 優しげな物言いとは対照的に、もう一方の鎌が勢いよく振り下ろされ、とうとうボクの首を挟み込むように突き刺した。ボクはただされるがままになるしかなかった。
「何とか言ったらどうだ? コハク君?・・・・・・俺はキッスイの森の民だがな、意外と博識でね。縄張りがどうとか言ってないで、コハクは研究所にでも帰ったらどうだ?」
 相手はこんな風に言い切った。でもコハク? 研究所? こいつはいったい何を言っているんだろう? でも反論することはできなかった。まだ体温が十分に上がりきっていなかった。逃げ出すことも、抗うこともできない。ただ、我慢しているしかない。
「何も言えないのか、コハク君?」
「ボクは・・・・・・」
 つい、そう答えてしまったところで、ボクは言葉を続けられなくなる。話そうとすると、途端に黙ってしまう。それはあまりに複雑すぎて、ボクはどこから話せばいいのかわからないのだ。要約もできない。それはボクの言葉の限界を越えていることに思えたのだ。さしあたって、ボクは嘘をつく。こいつの言われたことを、すべて認める。そうすると、なんだかボクは吹っ切れることができた。ボクに何の関わりもないことだったから、怖さを感じることはなかった。第一、そういう風に思い込んでいると、本当にそんな気がしてくるのだ。
「たしかに、ボクはケンキュージョの出身です。でもワケあってここにいますけど。あなたがいくら脅しつけようとしたって、ボクは森から離れるつもりはありません」
 ボクはきっと相手をにらみつけ、鼻から勢いよく空気を吸い込んだ。
「今度はボクの側から尋ねますよ・・・・・・あなたは誰なんですか? オンの縄張りに住んでいないのなら、いったいあなたは何者なんですか? ここに何しに来たんですか?」
 相手は、ボクの言い方がいかにも面白かったらしく、にやりとした。
「けっ、意地張ってやがる。まあいいさ、どうせ貴様が何だろうが、俺の知ったことか! 俺はストライクってもんだ、この一帯じゃそこそこ名が知れてるがな・・・・・・ま、縁ってやつだ、以後、お見知りおき!」
 と言うと、ボクの脇でうずくまって、悠々と池の水を飲み始めた。まるで、ボクに見せつけるように、呆れるくらいに長く飲んでいた。さっき、ボクが必死に体を洗っていた水を。それに、オンの縄張りであるはずの池の水を。
「お前がここで何をしてたかは、あえて聞かないでおいてやる」
 ちらりと顔をボクに向けて、からかうように言った。
 ボクはかっとする。そんなボクを横目に、まだストライクの奴は水を飲み続ける。ボクのことなどなにもかもよくわかっているかのように、たっぷりと余裕というものをを見せつけて。
 水辺から顔を上げると、奴は鎌の側面を器用に使って口をぬぐい、満足そうにため息をついた。もはやボクへの関心を失っているようだった。
「また会うかもな。言っておくが、俺はあの怪物のことを心底憎んでいてね。次会ったら首でも刈ってやるかってな・・・・・・」
 奴は楽しげに鎌で素振りをしながら、茂みの奥に消えていった。ボクはその後ろ姿を何も言えずに見送っているばかりなのだった。


 21

 オンは大樹を中心にして大きく旋回をしながら飛び続ける。頭の中では、今朝の光景が何度も勝手に再生される。飛び続ければ飛び続けるほど、オンは気持ちを抑えきれなくなっていく。しかし、飛び続けずにはいられなかった。
 彼が眠る少し前に、オンが与えた木の実には強い催眠効果があった。オンは募りに募った欲望を止めかねて、ついにそれを手を伸ばしてしまったのだ。
 もとは、夜行性であるオンの生活習慣を彼に慣れさせるために教えてもらったのを、わざわざ森の慣れない地域にまで翼を伸ばして取ってきたものだった。しかし、彼は殊勝にも、そんなものの助けを借りることなく、オンの生活に適応してしまったので、使い道がなくなり、倉庫の奥に押し込まれたままになっていたものだった。
 オンは彼を住みかに迎え入れてからも、どうして彼に対してだけは特別な振る舞いをしてしまうのだろうかわからずに困惑していた。ペラップの言うとおり、縄張りに住まわせるからには何らかの条件を彼に課すのが当然だった。しかし、そんなことすら忘れてしまうくらいだ。条件などどうでもよくて、ただ彼にずっとここにいてほしいと、オンはそんな気がしはじめていた。その感情の原因のありかをどうしても見つけ出せずに、しばらく経った。
 オンは横で眠る彼の寝顔、体を見ているとなんともいえない気持ちになるのを感じていた。体全体がお湯に浸かってもいないのに熱くなり、絶え間なく体を動かさないと耐えられなくなってくる。しかし、毎日、彼の寝姿、時に礼儀正しかったり、だらしなかったりする、を日課のように眺めて続けているうちに、オンは心のどこかで彼にむちゃくちゃしてやりたいという考えを一瞬起こしてしまった。それが昨日の朝のことだった。だからオンはいても立ってもいられず、洞窟を飛び出して気持ちがある程度落ち着くまで同じ所を何度も円を描くように滑空していたのだ。
 もちろん、そのときは馬鹿げた発想だとオン自身思っていた。突然思い浮かんだにせよ、それは確かに突飛で荒唐無稽な考えに思えた。この森の住民であり、縄張りの主であるオンにとっては突っ込むところが多すぎた。森に住む俺が外から来た得体の知れない奴とだって! 縄張りの主の俺がしもべとなんて! 雄の俺が! 雄のあいつと! オンが大樹の周りを滑空したのは、とにかくその考えを打ち消すためだった。そんなとんでもないことを冗談だとしても考えてしまった自分を徹底的に戒めるためだった。何もしないでいると、オンは目がくらくらしてしまいそうだった。
 しかし、コータスの野郎、あんなことしやがって! 彼に言葉巧みに吹き込んで、気絶して横になっているオンの体にチーゴを塗らせたことは、コータスの軽い気持ちに反して、致命的だった。腹にきつくしみる痛みに悶えたオンは、勢い余って彼を押し倒す形になったとき、目と鼻の先に、戸惑いを隠せない彼の怯えた表情を見、そして、重なり合った互いの局部の感触を意識して、必死に隠そうしていたものが露出しそうになった。もしコータスのからから笑う声を耳にしなかったならば、本能(とオンは呼ぼうとする)に身を委ねていたかもしれない、その意味ではkはオンにとって仇であり恩だった。
 オンはその場を飛び出し、誰の目にもつかない物陰でそれを目にした。そして無我夢中でした。頭の中では決して明白ではないが、それでも明白であるとしか思えない光景が浮かんでいた。それは、狂うくらいに高揚し混乱した感情が喚起する、汚くおぞましいイメージだった。要するに、オンは彼としていたのだ。草むらにまき散らされたものを眺めながら、オンはいま、自分が決定的に変わってしまったことを悟った。俺はあの瞬間に、何かの膜を蹴破った、しかも俺はもうそれ以前の場所には戻れなくなっちまってる。オンは悲観的になり、楽観的にもなった、そして開き直りさえした。こんなことに気づいたからといって、それを否定できる理由はオンにも、森の連中にもないはずだった。だって、これは本当のことだ、本当のことの前には、誰だって何も言えないだろ。
 その気になれば、オンはいつでも欲望を実行できる立場にある。一旦吹っ切れてしまえば、それは驚くくらい容易であるに違いない。けれど、オンは自分の手で彼をほんのわずかでも傷つけることはためらった。それは確かに簡単ではあるが、可能なのは一度きりだと、オンにも十分理解できた。こらえきれないほど激しい肉体的な欲望の一方で、精神的な願望もあることを、オンは感じていた。必ずしも、オンは彼を支配したいわけではない。野獣的な本能に加えて、彼を受け入れたい気持ち、彼に受け入れられたいという気持ち、むしろ支配されたいとすら思う気持ちもあった。そうした心の優しい溶け合いと、激しい体のぶつかり合いとは、相容れないようにも思えたが、オンは実際そのようなものを欲していたのだ。
 この理想が、オンをいっそう悶々とさせることになったのは言うまでもない。オンがどれだけ熱意を持っていたとしても、かなわないこともある。プテラは雄だった、それだけでもオンには苦痛だった。彼の声音からは、確かに自分への好意が伝わってはくる。しかしそれをどれだけ都合良く解釈したところで、単なる純粋無垢な好意に過ぎなかった。それ以上のニュアンスを彼の喉から発する音波から受け取ることはできなかった。もし、冗談のつもりを装って、彼に尋ねてみたらどうなるかな、とオンは考えてみたりもする。そうすればほのかにではあれ、知りたいことははっきりとするかもしれない。とはいえ、その先のことにはオンのおつむは働かない。簡単な話、二つに一つではある、だが彼の答えがいずれであろうと、それはオンにとって一つの終わりであることには違いなかった。一つの終わりの後には新たな始まりがあると、そう簡単に言うことなんてできるのか?・・・・・・破壊の後には再生がついて回るというのは、虫の良すぎる話なんじゃないのか?・・・・・・つまるところ、オンは怖かった。
 池で出会ったペラップから厳しい忠告を受けた後でも、オンは彼のことを思った。俺とあいつとの契約、オンは真剣に考えてみようとしたが、真っ先に浮かんできたのは自分でもくだらないと思う妄想だった。タブレットを淡々と操作しながらペラップがぶつぶつ言っていたことが、オンの耳に再生される気がする。
「前の持ち主はしょうもない変態だったのか・・・・・・履歴がこんなんばかりじゃ、やんなるかなあ・・・・・・時間を止める装置・・・・・・壁から突き出た尻・・・・・・都合のいい伝統行事や通過儀礼とか・・・・・・ガキの妄想をそのまま大人が受け売りするとは恥ずかしい限りだな・・・・・・」
 オンが考えてしまったことは、そのガキの妄想に違いなかった。考えた途端に、興奮よりも恥ずかしさがまさり、オンは自分を戒めた。そんなバカなことを想像してしまうくらい、俺はおかしくなったのか? ただあいつと出会って!・・・・・・またしても欲望を抑えきれなくなり、オンは草むらの中へ飛び込んで、それを吐き出さなくてはいけなかった。しょうもないと思いながらも、実はそうしたくてたまらないその妄想を種にして、なあ、話があったんだ・・・・・・ずっとしてなかった話で、いま、おまえにしなくちゃならない話がさ!・・・・・・そろそろ俺たちも考えなくちゃ・・・・・・するんだ俺と契約をするんだ・・・・・・ここに住むからには、おまえが俺に何かできることがないといけない、ペラップの奴が俺にしてくれるみたいな何かをさ・・・・・・森の掟だから・・・・・・?・・・・・・思い浮かばないなら俺が決めてやってもいいぞ・・・・・・こんなん、ってのは?・・・・・・妄想の中の彼は驚くほどに従順だ・・・・・・じゃ、ちょっとうつぶせになってさ・・・・・・そう・・・・・・そのままにして・・・・・・何でもないさ・・・・・・暴れちゃだめだ、されるがままに・・・・・・大丈夫、大丈夫・・・・・・そう、いい・・・・・・いいか、もっとここを見せてくれって・・・・・・突き出すんだ、俺に差し出すんだ・・・・・・いいぞ・・・・・・じゃ、ご褒美を食べさせてやるから・・・・・・喜ぶんだ・・・・・・喜べって、ちゃんと声あげて・・・・・・後は言葉にならない響きと余韻。
 オンが正気に返ったとき、まるで夢から覚めたようだった。オンの妄想は、創られた夢みたいだった。目の前はまっしろだった。


 22

 彼が帰ってくると、オンは地べたに木の実を並べて待っていた。火もちゃんと焚いてくれている。彼はまるでオンが自分の思いを密かに汲み取ってくれていたかのように感じて、嬉しいと思う。
「おはよう、かな」
 と、オンはこの場でもそう言っていいのか自信がなさそうに声をかける。
「起きたら、急におまえの姿がなかったからさ。ちょっと、さすがに、心配してたんだ」
「喉が渇いたから、池に水を飲みに行ってたよ」
 彼は嘘をついたが、一瞬の沈黙を挟んで、彼はあのことは彼に伝える。
「そこでストライクって奴に会ったよ。ボクにはなにがなんだかわからなかったけど、ただものじゃない感じだった。なんだか、オンのことをすごく悪く言ってるみたいだったけど・・・」
 彼が池にいるということは、元からオンはわかっていたが、ストライクの名が彼の口から告げられたのは意外だった。おそらく、自分が興奮に駆られて空へ飛び出した、その間に起こったことなのだろうとオンは思った。そうでなければ、ストライクの音波を聞き逃すわけはない。
 オンは深刻そうに考え込んだ。彼が目の前にいることも思わず忘れて、殺気だつ。洞窟が突如として凍り付いたようで、彼は火のそばにいるのに寒気を感じた。
「ふん、こんな時に出てきたか・・・・・・ったく嫌がらせにも程度ってあるぜ」
 思い出したように顔を上げると、硬直した彼の表情があった。目は点になり、口は厳重に閉じられ、翼は小さく折りたたまれていた。彼は思わず緊張がほぐれてしまい、大笑いした。
「悪い悪い、つい悪い顔しちまった。おまえがさっき会ったのは、だいぶ前に争ってた奴で。ひどくヤクザな奴だったけど、幸い俺が勝って、そいつをこの辺から追っ払ってやったんだよ」
 オンはストライクとの因縁を一通り彼に説明した。オンはここに縄張りを構えてから、少しずつその領域を広げていったわけだが、その最中にはもちろん争いもあった。ストライクとの争いはそのいくつもの争いのうちの一つに過ぎなかった。ただ、ストライクと争ったのは、先ほど彼とストライクが遭遇したあの池を巡ってだった。結果的に勝利したのはオンだった。そして自分の縄張りの中に貴重な水場を収めることができた。おかげで森での生活は一段とよくなったんだ。
「とにかく、おまえが何事もなくてよかったよ。俺も、こんなときにあいつが現れるとは思っていなかったからさ」
 彼は曖昧にうなずいた。池の水を自分の前でいかにも優雅に飲む、ストライクの意地の悪い目つきが脳裏に浮かんだ。思い返せば思い返すほどに、ストライクの姿は醜悪なものに思われてきた。水を飲むために池に口をつけるストライクの姿は、まるで水面に映った自分と口づけしているようだった。ストライクは彼を横目で見て、かすかに口を開け、赤く染まった舌をだらりと垂らす、舌から唾液と水の混じり合った液体が草むらに垂れるのまで、彼は思い出し、気味が悪くてならない。
「ただ、森の、それも俺の縄張りで暮らしている以上、そういうことも起きうるんだ。縄張りを荒らそうとする奴は必ず出てくるし」
 彼はまだ何かを聞きたげな様子をしていた。さっきのことは思いがけないことでもあったから、次から次へと心配事が増えていくように見えた。
「ま、こういうのは俺に任せとけって。おまえはあんまり心配しなくてもいいって」
 オンは話題をさっさと変えようと思った。彼はうなずくが、それはどことなくぎこちなかった。そこでオンはいきなり鼻先をぺたりと彼のに合わせ、好奇心いっぱいの瞳で彼をしげしげと見つめた。
 彼はどきりとする、思わず目を逸らしたくなったが、オンの瞳はきらきらと輝いていて、つい見つめ返さずにはいられないのだった。オンがさっき見せた獣のような獰猛な眼光は、全く消え失せていて、どうしてそんなことが可能なのだろうかと彼は不思議でたまらない。でももしかしたら、彼の瞳に光る純粋さと残酷さとは、表と裏というのではなく、全く同じものが、違う見え方をしているだけなのかもしれない、とも感じられた。守るべきものへの優しさと、排除するべきものへの冷淡さが、オンの心の中では何の矛盾もなく両立している・・・・・・
 そこで彼は、コータスに言われたことを思い出した。オンが火傷で気絶しているときに、ふと打ち明けられたことだ。確かにコータスさんはオンがこのあいだ来たときに変な奴がこの辺りに現れるようになったと言っていた。ただ、このあいだとはいつのことなのか。彼がオンと出会う以前のことになるのか。オンとコータスの話しぶりからして、それほど前のことではないらしい。果たして、それはどうなっているんだろうか? その変な奴と、あのストライクとは関係があるのだろうか? それが頭によぎると、彼はオンに尋ねずにはいられなくなった。
「どっちにしたって、すぐに慣れるだろうし!」
 快活にオンは言い切るのだった。その鼻先に押されて、彼はたまらずに尻餅をついてしまった。オンの前で、彼は大の字に倒れ込んで、見上げるとなおも目を輝かせるオンの表情を見て、なんだか恥ずかしくなった。彼は頭がまっしろになってしまう。
 しかしオンは彼の動揺もかまわないで、また顔を近づけて話をする。
「おまえには、そんなことよりも重要なことがあるんだよ。今まで話してこなかったけど、やっぱり話さないといけなくてさ・・・・・・」


 23

 昨朝のことがあってから、オンは何もかもをすっかり悟り、吹っ切れたようになっていた。もう彼に関して決めあぐねることもなかった。オンは物狂おしいほどに彼を意識していて、自分自身でさえそれを否定できなくなっている。そんなことに比べれば、今までオンが話しあぐねていたことなど、隠しておく必要などもうなかった。
 彼を眠り込ませた後で、丸まった彼の姿勢を、仰向けの大文字にするのは造作もなかった。深い眠りに落ち込んだ彼のそばで長い間、様子をうかがっている。長い間がどれほどかはわからない、大した時間ではなかったかもしれないが、オンの混乱した感情の高ぶりにあっては、一瞬ですら永遠に感じられるのだった。彼は日が沈む頃になるまで絶対に目覚めない、pなら科学的論理的にというように、オンはそれを確信していた。後は理性をさっさと捨てて、本能というものに従い、ひたすら無我夢中になるだけでよかった。それが簡単にはできず、ほんのかすかな万が一を想像して、オンは怖くなる。全てが豪快に音を立てて崩れていくイメージが、オンの心を締め付け、しかしそれでもこらえ切れそうもない欲望が、いっそうオンの心臓を握りしめた。
 オンはそれに踏み切ったというのではなかった。ただ何かとしか言い様のないものが、オンを彼の体に押し倒したのだ。とはいえ、それも自分のおぞましい意識のせいだと認めたくないがための方便かもしれなかった。ここまで来てなおも、オンは万が一の言い訳を必死にこしらえようとしていたのだ。すでにオンの口は彼の胸元に触れていた。彼の首から腹にかけての稜線は、まさになだらかな山のようであったが、直にその肉に触れてみると、思いのほか引き締まっている。指でがっしりと腹の肉を掴んでみようとしたら、肉は弾けるようにオンの爪を離れ、灰色の皮膚のほんの表面しかつまむことができなかった。
 オンはそっと彼の胸に爪を置いた。すると、にわかに背筋に寒気がし、誰かに見られているという気配が感じられて、動きを止めた。当然、それは気のせいではあった。とはいえ、オンが周囲の気配を感じ間違えることなどまずないことだ。なるべく気持ちを落ち着かせようと、感覚を研ぎ澄ませると、オンには彼の健やかな寝息しか聞こえてこない。その音が実際以上に、オンには大きく聞こえ、洞窟全体に、いやさらにはオンにとっての世界全体に、彼の寝息しか聞こえないような気までした。大丈夫だとオンは自分に言い聞かせた、頭のなかでそれを反復するうちに、それはただの音になり、意味すらも不明瞭になっていった。
 大丈夫だ、だいじょうぶだ、ダイジョウブダ、ダイジョウブダイジョウブダイジョウブダ・・・・・・残されていたのは理性の削りカスか。
 しばらく、表面に何かを描くように、彫琢するように、オンは彼の体の上をなぞった。それでも眠っている彼は、時々ため息のような寝息を吐くだけだった。その息のかすかな音を聞くごとに、オンは少しずつ大胆になっていった。いったいどれくらいのことまでなら、彼を起こさずに済むだろうかと試すように。案外、他の誰かの役に立つかもしれないだろ、とオンは都合のいいことを考えもする。オンは彼の胸元に触れた、彼のうっすらと浮かぶ鎖骨に触れた、彼の首に触れた、彼のがっちりとした顎に触れた、彼の頬に触れた、彼のツノに触れた、彼の鼻先に触れた。
 考えてみれば、オンは彼のことをほとんど何も知らない。自分から詳しく尋ねることもしなかったし、そもそも彼自身うまく説明できないようだったから、この頃では大して気にすることもなくなっていた。彼への密かな意識が先走ったせいで、そんなことは二の次三の次と、どんどん後回しにされていったのだ。
 オンは彼の腹へ目を向けた。目を凝らすと、彼の下腹部から尻尾の付け根にかけて、一本の線がうっすらと見えた。オンはとっさに目を逸らした、見つめすぎるといよいよ自分がおかしくなってしまう予感がして。その一方、直視せずとも、横目で、焦点を合わせないようにして、オンはそれを見た。その線の奥にあるものを、考えずにはいられなかった。
 おそるおそる顔をその辺りに近づけてみる。線の奥からのにおいはさすがに鼻についたが、むしろ彼がやはり俺と同じように一匹の雄なのだということが納得できて、妙に嬉しかった。それはまるで、オンと彼との関係を保証してくれる共通項に思えた。彼の脇腹をゆっくりと撫でながら、オンは口をそこに埋めようとして、ぎりぎりのところで思いとどまった。
 しようと思えば、俺はいま何でもできる。こいつに気づかれる心配はないはずだ。ないはずだ、確実に。ただ、それでも、ためらいが起こる。さっきまでの異常な興奮が、ありえないくらいに消え失せ、正気に返る。俺は、いったい何をしているんだという気持ちが、瞬く間に体中に充満した。
 オンは身をのけぞらせ、勢い余ってそのまま仰向けに倒れ込んでしまった。ごつごつした岩の天井がほのかに浮かび上がっている。オンは深呼吸を何度も繰り返してから、上体を起き上がらせ、恐る恐る彼の方に屈み込んだ。彼は何も知らずに、ぐっすり、健やかに眠っている。
 いま、目の前であのときと同じような姿勢で倒れている彼を見ながら、オンはそれを思い出していた。あんなまどろっこしいことをせずに、このままこいつの上に倒れかかってしまえばな、そうしたら何もかも。オンが独り言を始めた時、思わず例の妄想を語りかけてしまいそうになって、さすがにやめる。


 24

 少し迷いはしたが、何とか一人でそこにたどり着くことが出来た。空から見下ろすと一際くっきりと飛びでて見える山と、その鬱蒼とした森から立ち上がる白い煙が目印だ。ボクはこの間オンと一緒に行った麓の温泉地帯にやってきたのだった。
 それというのも、オンからこんなことを持ちかけられたからだった。縄張りに住まわせてもらっている者としての一応の約束、とオンは言っていた。ボクはこうしてオンのもとで暮らしているけれど、その代わりとしてオンに役立つ何かをしてあげなければいけない。そういう話だった。ボクもすぐに話は理解できた。ペラップさん含めて、オンの縄張りにいる人たちは、何かしらそういう役立つ何かを持っているということなのだ。
「いくらなんでもおまえだけが、ってわけにはいかないんだよなあ」
とオンはとても言いにくそうに話していて、今までそんなことにも思い及ばなかったボク自身が申し訳ないと思った。
 けれどオンにはすでに考えがあったらしく、話し合うまでもなく、ボクに使い走りになるように勧めた。つまり、オンの伝達係、オンが誰かに伝えたいこととか、渡したいものがあれば、夜にボクが代わりにそれを伝達しに行く、特にコータスさんのような縄張りから離れた場所への連絡を任されることになった。この広い森にはコータスさんだけでなくて、他にもオンの知り合いはいるみたいだ、でもそれは後々紹介するよ、ということだった。
 まず試しにと、その夜、一人でコータスさんのところへ挨拶しに行くことになった。行きがけにオンは手土産にと言って、木の実をいくつかペラップさんから貰っていた革袋に詰めてボクの首にかけ、じゃあよろしく! と肩をポンと叩いて送った。
 コータスさんのところまで大して時間はかからなかった。広い森といっても、飛ぶには案外狭かったりするみたいだ。見当をつけて麓に降りると、湯気を感じる方へと森に分け入って、温泉のあるところへ向かった。目的の場所に近づくほどに、湯気は濃くなり、霧のようにボクの視界を遮ってくる。このあいだオンと一緒に来た、そのままだ。
 ボクが最後の茂みを抜けた。湯気がだんだんと晴れて、辺りが明瞭に見えてくるようになって、ボクはあっと驚いてしまった。そこは、この間オンとやってきた温泉であるのは全然間違いじゃなかった。そんなことではなく、温泉に見慣れないヒトが入っていたのだ。それも、ボクやオンなんかよりもずっと大きい体つきをして、温泉を占領していた。
 黄緑色のとげとげしい背中を、ゆったりとひねって、そのひとはボクの方を見た。その目つきはボクをにらみつけているようでもあり、見つめているようでもある。とにかく、ボクが何者かを見定めるために、一旦判断を保留しているような、幅広い解釈のできる目だった。
 しばらく気まずい沈黙が、ボクとそのひとの間に流れる。ボクが何か言い出そうとして、何を言い出せばいいかわからずに黙っていると、しびれを切らして、向こうからボクに話しかけてきた。
「どした。入らんのか?」
 その口調は、思いがけず優しかった。
「何をびびってる。湯に浸かりに来たのだろ、ほら、来」
 と、そのひとは右腕でボクを招き入れるように合図する。
「えっと。すみません、温泉でなくて、コータスさんに用があって」
 とボクはようやく言った。相手はボクをしげしげと見つめる。
「あんた、どこの組か」
「組?」
「どいつの縄張りのもんか、って聞いてる」
「あっ・・・・・・オンです、オンのところ」
 それで事情を察したのか、そのひとは温泉に浸かったまま声を張り上げて、コータスさんのことを呼んだ。叫ぶというよりも、低く吠えるような感じだった。
 まもなく、茂みからコータスさんが首だけを覗かせた。首をぐいと伸ばし、温泉につかるそのひととボクを交互に見やって、意外そうな顔をした。
「おっと。一人でご来場とは、ご傷心かな?」
 コータスさんは、相変わらずちょっぴり意地が悪い。ボクは恥ずかしげに反論した。


 25

 ボクはこの2人としばらく話をすることになった。そしてボクがずっとそのひととしか言い様のなかったそのひとこそ、この山の主のバンギラスさんに他ならないということをコータスさんから教えられる。ということは、コータスさんはバンギラスさんの縄張りの住民で、やはり契約をしていたのだった。コータスさんは山の温泉を管理することで、バンギラスさんに守られている、ってこと。
 バンギラスさんがあまりにもボクに勧め、コータスさんもそう促すから、ボクは温泉に浸かりながら会話に加わった。お湯の熱さ暖かさはボクの体に浸み、気持ちを穏やかにさせていた。ボクは、これからオンの縄張りとこことの連絡を受け持つことになったと伝える。
「用ありならば、コータスに伝えてやればいい。山の主とはいえ、大方のことはこいつに任せているのでな」
 バンギラスさんはボクが持ってきた木の実に次から次へと手をつける。
バンギラスの兄貴、オンの奴とは時間が合わないから。まったく夜行性てのはタチが悪いもんだねえ。ま、好きにすればいいさ」
 不敵な笑みをボクに向かって浮かべながら、なんだかボクの心を見透かしていそうな素振りだ。ボクはやはりコータスさんと話していると、落ち着かない、どこか安心できないところがある。わざとなのか、無邪気なのか、必要以上にボクのことをじろじろ見ているような気がするのだ。
 それはともかく、バンギラスさんは見た目は大きく、いかついけれど、物腰はとても親切なのだった。バンギラスさんはもう長い間、この山全体を自分の縄張りにしていた。その実力は森中に知れ渡っていて、そんなことを知りながら敢えて挑んでくるような相手もいないのだそうだ。この森の象徴ともいえる山の主であるということからなのか、いつしかバンギラスさんは森を束ねるリーダーのような存在とみんな思うようになっていった。たとえば、森のどこかでもめ事が起きて、当事者同士では収拾がつかなくなったときには、バンギラスさんのもとに来て仲裁を頼むということになっていた。別にバンギラスさん自身が決めたのではなく、みんながバンギラスさんのことを信頼してそうするようになったのだ。
「とはいえ、兄貴の裁定にゃ、俺からすれば言いたいことはそれこそ山ほどあるけれどね」
 とコータスさんが茶々を入れる。
「しかし、兄貴の言葉は森の連中にとっちゃ、魔法みたいなもんなんだね、これが・・・・・・バンギラスの兄貴の言葉は真実であり、法であり、掟であり、現実であり、正義である!・・・・・・それと同時に嘘であり、慣習であり、夢であり、不正、ってね。よしんば不平不満があろうとも、バンギラスの兄貴に相対しちゃあ、逆らう気も自ずと失せるというもので」
「客の前で軽口は慎め。冗談もいいが、誤解されるのも不本意だぞ」
 とバンギラスさんは戒めた。コータスさんはごまかすように声をあげて笑った。ボクは反応に困って、表情が出てこない。バンギラスさんはびっくりするくらい寛容だ。
「まあそれは置くにしても」
 バンギラスさんはボクをじっと見据えた。コータスさんとは違う意味で、バンギラスさんはボクのことが気になっているようだった。
「わしはあんたのことを知りたいと思う。どこから来たのか、どうしてオンのもとにいるのかと」
 ボクは不意を突かれて固まった。まるで石になってしまったように感じられる。
「いやいや、詰問するのではなく。ただの好奇心に過ぎぬよ」
 とバンギラスさんはボクを安心させようとする。
「不愉快な思いをされたら申し訳ない。しかし、プテラなどはなかなか珍しいからどうしても、わしはいらぬ邪推をしてしまってね」
「・・・・・・・・・・・・」
「まあ、これが一応の礼儀というものだからね」
 とコータスさんが口を挟む。
「実のところ、私も知っておきたいことだったし、これも一応の礼儀ってことでね」
 ボクは黙っている。というより、何と言えばいいかわからない。
「いや、わしは愚かなことを言ったものかな。あんただって、オンに信用されているからには立派な森の仲間だ。疑うなど論外だったか」
「いえ、そういう訳ではなくて」
 ボクはとっさに口に出す。バンギラスさんに謝らせてばかりいると、ボクの方が申し訳ない気がしてきたからだ。ボクはなんとか、ボクについて説明しようと試みた。
「もちろんボクはもとから森に住んでいたわけではありません。オンの縄張りに暮らすようになったのは、ボクがたまたまオンの縄張りに迷い込んでしまったことがきっかけといえばきっかけです。でも・・・・・・その前のことがどうしてもうまく説明できなくて」
「記憶喪失とな?」
「ちょっと都合のいい気もするけども」
 コータスさんは長い首をかしげる
「それとは違うんです。ボクはちゃんと記憶がある。ボクは空をずっと飛んでいて、やがてこの森までやってきた、それは確かなんです。ただ、なぜか、なぜだろう、なんだか森にやってくるまでのことが夢みたいに思えてくるんです。感覚としては確かに覚えているんですけど、なぜかボクの言葉ではうまく言えない、というか」
プテラというならば、たとえば研究所の出ということも考えられるが」
「でも、誰かに育てられたり、世話をされたという覚えは全然ないんです」
「そいつは随分奇妙な話だあ」
 コータスさんはいぶかしげにボクを見つめる。
「だとすれば、あんたはもとから野生ということになる。しかし、プテラの野生というのは、ありましたかね?」
「全くないということはないだろうが・・・・・・」
 バンギラスさんは腕を組むようにして、考え込んでいる。
「仮にプテラの野生がいたとすれば、この森にだっていくらかは住み着いてもおかしくないぞ、しかしそんな話も風聞も聞かぬ」
「研究所の出でもない、野生でもない、とすればいよいよ不可解なことになっちまう。まるで、突然この世に現れ出たみたいでね」
「おかしなことになるんですけど、なんだか本当にそんな気さえするんです」
 とボクは率直に言った。
「夢を見たら、空を飛んでいた、っていう感じで、ボクは空を飛んでいて、この森までやってきてしまったというか・・・・・・」
 バンギラスさんは肩をすくめた。
「湯の中で語ると、お互い話すこともうわごとのようになってしまうな。済まなかったね。わしとあんた、互いの秘密は尊重せねばならない」
バンギラスの兄貴はこう見えて虫が苦手でね」
 こら、とバンギラスさんがコータスさんを戒めるのを見ながら、ボクはまさにボク自身のことについて思いを巡らせていた。ボクが一番知っている、知っていなければならないことを、どうしてボクは知らないのだろう? そんなことってあり得るだろうか。ボクが辿ってきたはずの道のりが、なぜこうも都合良く消し去られているのだろう。ボクはもう幼くはなかった、だったらボクにも幼い頃があり、それに伴う記憶というのがあるはずなのに。何もない。わからない。思い出せない、いや、思い出すためにはボクがかつてそこにいたという感覚が残っていなければならないのにそれもない。ボクは気がついたら、森の上空を飛んでいて、そしてひどくお腹を空かせていた。それより前のことは一切、存在しなかったかのようだ。考えるうちに、ボクはだんだん気味が悪くなってきた。ボクはボクでなく、ボクの上にいる誰か、何かに操られているだけなのではないか、なんてことを考えてしまって。
 そしてボクはのぼせてしまった。しばらく、涼しいところに身を横たえていなくてはいけなかった。二人とも、こういうときにはしっかりと気を配ってくれるからそれは頼もしくはあった。ぼんやりとする中で、誰かの声が聞こえたような。バンギラスさんとも、コータスさんとも違っているような気がした・・・・・・強いて言えばボクの声だったのか。呟いてたんだろうか、知らぬ間に、うわごとでも?・・・・・・


 26

 彼が出かけている間に、オンは縄張りの池を訪れていた。幾度とない争いの末に勝ち取った場所ということもあって、ここはオンには特別なところだ。ただ単に水を飲んだり、泳ぎに来たりする場所ではない。オンは時々ここへやってきては、水辺に佇み、そのときの激しい戦いのことを思い返すことにしていた。すると、この縄張り一帯を牛耳る主として、思いを新たにすることができるような気がする。
 とはいえ、今回ここへ来たのにはまた別の目的があった。オンは池の周りの草むらを入念に調べ、あのストライクが再び現れた痕跡がないかどうかを確かめようとした。彼がストライクとまさにこの場所で遭遇してから、何日か経っていた。その間にオンと彼は、水を飲みに行ったり、あるいは少し水浴びをするために何度か池にやってきたが、ストライクと出会うことはなかった。縄張りの住民たちにも一通りストライクのことを尋ねてみたが、一人として姿を見たものはいないということだった。しかし、オンは直感から、ストライクがあれからまたこの辺りにやって来たのではないかと推理していた。
 実は、オンが彼と出会う少し前に、まさしくこの水辺で、ストライクと遭遇していた。
 そのとき、朝方だったと思うが、どうにも寝付くことができなかったオンは池を訪れ、喉を潤し、ついでに水を浴び、その広い池を眺めながら思いにふけっているところだった。茂みからいきなりストライクが現れたので、オンは腰を低くして臨戦態勢をとった。そこまで本気になって、敵と対峙するのはオンとはいえ、久しぶりのことで、胸の辺りがとても高鳴った。だが、ストライクはオンに襲いかかろうとするでもなく、その鎌で威嚇するでもなく、ゆっくりとした歩調でオンの方へ近づいてきた。ストライクの歩みは異常なくらい緩慢にオンには思えた。ストライクはその合間、敵に対する静かな憎しみをたたえた瞳で、しっかりとオンを見据えていた。数歩ほどの距離を置いて、ストライクは立ち止まった。二人はにらみ合ったまま、しばらく動かないでいた。風の音がよく聞こえた、池の水のさざめく音、草がこすれ合う音、鳥の鳴き声、そうした雑音が混ざり合い、まるで得体の知れない音のように聞こえてくる。
「久々だな!」
 さも、旧友と再会したかのように気さくにストライクは話しかけてきた。
「何しに来た」
 きっと相手をにらみつけてオンは答えた。
「さては、とうとうひざまづく気にでもなったか?」
 俄に虹彩の収縮した瞳で、オンはストライクのことをねめ回した。オンの冷たい視線を浴びても、ストライクは一向に動じる気配もない。目線はしっかりとオンを見据え、なぜだか分からないが強い自信に満ちあふれているようだった。
「媚びへつらう! 冗談はよせ! 久々におまえの顔を見たくなっただけさ・・・・・・気分がよくてね!」
 口調も自信満々だった。そこには虚勢を張っているときに感じ取れるような、感情の震えというものはどこにもなかった。この自信はいったいどこからやってくるものなのか、オンにはよく分からない。といっても、さして関心も湧かなかった。こんな奴にかかずらわってること自体、果てしない時間の無駄だ。
「さぞ、喉でも渇いてるんだろ?」
 オンは憐れみを込めて言い放った。
「飲みたきゃ飲ませてやるよ。だが、お行儀良く俺に許可を求めてからな! そして飲んだら、しっかりとお礼の言葉も忘れずにな」
「あいにくだな! もう水にゃ困ってなんかいねえよ」
 ストライクは笑った。
「にしたって、懐かしいじゃねえか! この眺め! 昔は俺のもんだった! そんでいろいろゴタゴタあった! 今となっちゃあおまえのもん! 覚えてるか?・・・・・・俺たちが立ってるまさにここだぜ・・・・・・一騎打ちなんてしたなあ! おまえと俺と! 今となっちゃ懐かしくてたまらんさ・・・・・・」
「覚えてないな」
 オンは道化じみた相手の振る舞いを心底軽蔑していた。
「おまえが見かけ倒しの雑魚だってことくらいしか」
「そりゃそうだ! 勝てば官軍、負ければ賊軍・・・・・・おまえが俺のことを何と言おうが、それが戦いってもんだ! 別に今更、結果に不平不満垂らしに来たワケじゃない・・・・・・ただ、俺はすこぶる気分がいい!」
 こいつは頭がおかしくなったのか、とオンは考えた。ここから追い出され、一人無秩序な森を歩き回っているうちに、何か生き物として大事なものを落っことしてしまったのかな? いずれにしても、こんな奴は相手にしないに限る。
 オンは改めてストライクを冷酷に睨み、爪をぴんと垂直に立てて、威嚇の姿勢をとった。
「失せろ。まだぐだぐだ言ってんなら、殺すぞ」
 ストライクはそれを見せつけられても、怯え一つ見せなかった。むしろ、挑発するようににんまりとした。それは、もっとたくさんの言葉責めを懇願しているように見えなくもない。
「トウロウノオノ、なんて言葉聞かされてたが、まさにおまえみたいな奴を言うんだな。いい勉強になる」
「多少は、おまえの役に立って大変光栄!・・・・・・」
 ストライクの言いぶりは自虐なのか、本気で光栄に思っているのか、どこまでも底の読めない奴だった。
「へへっ。それだけでもここへ来た甲斐があるってもん!・・・・・・ちょっとは甲斐甲斐しいと思えたかな?」
「思うかよ」
 いい加減、オンはストライクの態度に苛々していた。そのうっとうしい喉を引き裂いてやりたいと思った。
「むしろ甲斐なしだろうが・・・・・・これ以上無駄口叩いたら、ぶちのめしてやるからな。とっとと出てけ。ここはもうおまえの場所じゃないんだ! 俺の場所だ! 悔しかったら奪い返せばいい!・・・・・・できるもんならな!」
 ストライクは軽快な足取りで茂みの近くへと後退していった。ここに来た一応の目的は達したかのようで、表情は晴れ晴れとしていた。そのやたらにうきうきとした感情が音波からも読み取れるのが、オンをひどく不快にさせた。
「奪い返すつもりなんて毛頭! ただ、挨拶に来ただけだ。それが礼儀ってやつだろ?・・・・・・俺とおまえの絆ってのは、決して、断ち切られたわけじゃない・・・・・・それを時々思い出させてやらないと思ったのさ、それに俺は今すごく気分がいい・・・・・・!」
 オンはストライクに向けて爆音を放った。ストライクはかき消えた。辺りを隈無く見回したが、どこにもいなかった。うまく逃げおおせたのか。溜まりに溜まった苛立ちを一気に、音波と共に吐き出せてすっきりしたが、それでもまだ胸の辺りにわだかまりが残った。ストライクはいつまでもオンにしつこく取り憑く亡霊のように感じた。
 後で、オンはその顛末をペラップに話した。ペラップもオンとは長い付き合いになるから、ストライクのことをよく覚えていた。しかし、ストライクが自分の縄張りを作っているというような噂はどこからも聞かない。もしそうだとしたら、ここの住人の誰かが小耳に挟んでいてもおかしくないからだ。ストライクが単独で、ある意味愉快犯的に、オンの縄張りに侵入しているということであれば、さしあたって心配しすぎることもない、とペラップは忠告した。
「でも」
 と、ペラップは付け加えた。
「警戒するに越したことはない。縄張りというのは、たった一人の部外者のせいで、崩れることも往々にしてあるからな」
 翌日、コータスのもとへ温泉に浸かりにいったときに、たまたまバンギラスもいたこともあったから、オンはそのことを相談していた。わけのわからない奴が執拗につきまとってきて困っている、といった風に、相談というよりかは、愚痴っぽく。
「そうかね」
 とコータスはこれといって感心はなさそうだった。
「そっちもまあ大変なこったね」
「池の辺りに見張りをつけておくべきだろう」
 バンギラスは親分らしく、助言をしてくれる。
「常に木を住みかをしている虫などいれば、なお心強い」
「できれば、屈強な炎持ちか鳥がいれば、俺の出る幕もないんだけどさ」
「主でいるためにはな、すべからく己の望みと現実をうまく折衝すべきなのだ、オンよ。まあ、背」
「中でも流そうかい! オン!」
 その朝は、一睡すら出来なかった。彼と遭遇したのは、それから日も経たなかった頃であり、火傷の痛みが引いておらず、ストライクの一件も重なって、ますますカリカリしていた時だったのだ。


 27

 池の周りをよく調べ回ってみると、不自然に切り刻まれたりなぎ払われたりした草むらや、幹に切り裂かれた跡のある木々があちらこちらから見つかった。ストライクの奴が気晴らしに鎌を振り回していったものだろうか。そうだとしたら、森に対してなんて振る舞いをする野郎なんだと、オンは不愉快にならずにはいられなかった。妙に池に強い執着を持っているくせに、その環境というものには大して関心を持っていないんだな。そんな奴が、この場所で縄張りなんて維持できるわけはないし、ましてやそれを奪い返すことなんて、ありそうもないことだった。オンはその痛々しく露出した木肌をいたわるようにさすった。
 切り裂かれた木々からは樹液が流れ出しているものもあった。ほとんどはもう固まってしまっていた中に、一本だけ、まだどろどろと流れているものが見つかる。その幹にもやはり、鎌で切り裂いたように見える細長い傷跡が残っていた。もしかしたら、俺がここに来るほんの少し前に、奴はまた来ていたのかもしれない。でも、一体何のためだ? 単に水を飲みに来たのか? あいつ、ここがもう自分のテリトリーだと思い込んでやがるのか? それとも、こんなみみっちいことして、自分の存在を俺たちに見せつけようって魂胆か。俺たちを怖がらせようとでもしてるのか。
 オンは、ストライクのあの時の恥知らずの表情を思い出し、おぞましいほどの嫌悪を覚えた。奴の姿を見かけたら、速攻でぶちのめしてやりたかった。あの時だって、勝負自体はあっけないものだった。闇雲に振り回されるだけの鎌など、何の脅威でもなかった。それを軽々と交わすだけの敏捷さがあり、相手の動きを思わず止めてしまえるほどの喉を持っていた、何より、全てを見通すことができてしまえるほどの耳のおかげで、戦う前から勝敗は決していると言ってもよかった。つまり、あれは抗争とか戦争とか勝負とか決闘とか、そんなものではとうていなかったというわけだ。
 樹液のまだ溢れるその木に、オンは触れた。いっそう強い思いが心に湧いてきた。何としてでも、こんなふざけた真似はやめさせないといけない。そんな気持ちで、樹液に濡れた木肌をさすり、そして指にまとわりついた樹液を丁寧に舐め取った。まあそんなに悪くはない味だ。そして、オンは彼のことを考えてしまう、ペラップが話していたことだが、彼の種族の大半はコハクというものから復元されて生まれたのだそうだ。そのコハクというのは、今オンが舐めているこの樹液が、気の遠くなるような時間を経て固まったものなんだという。それ以上詳しいことはオンにはよくわからない、けれど、それがあまりにたわいないことであっても、彼を生み出したかもしれない液体を自分が口にしていることに、変な連想をせずにはいられないのが、今のザマなのだった。
 この間のあの朝方の、目にしてしまった光景が、イヤでもオンの頭に浮かび上がってきた。それもまたどっと溢れでるかのように。
 オンは彼の寝姿をじっと眺め、ビクビクしながらその体を撫でていたのが、思いがけず、それが裂け目から現れ、まるで小動物が危険がないか周囲をきょろきょろと見回すかのようにしばらくは先端だけ覗かせていたが、やがて意を決して、俊敏に、しゅるしゅると突き上がっていったのを見たのだ。もちろん彼は眠り込んだままで、自分の体に起きた異変を知るべくもなかった。オンだけが、それをしげしげと眺めることができたのだ。突飛な思いつきなのか、オンはそれをあたかも自分のものであるかのように扱ってみたくなった。咥えてみたいとすら思った。その上、縄張りの主としてこんなにもおかしなことはなかったが、それに支配されてみたい、支配してほしいという気持ちまで起こった。
 オンは混乱していた。キーの実を食べれば回復するのか、と目の前を凝視しながら考えたが、答えはでなかった、でるわけもなかった、そして実際出なかった。オンがあまりの興奮で立ちすくんでしまっているうちに、彼が夢精したからだ。彼の精液はマグマのように、頂点からゆったりと流れ出し、次第に彼の下腹部へと広がっていった。なかなかの量だった。裂け目の中へと流れ落ちたものも、そのうち溢れだし、裂け目の線に沿って、彼の尻尾の付け根へと溜まり込んでいく。そこから彼の穴もよく見える。そこにも収まりきらなければ、尻尾の周囲を回り込むようにつたい、やがて下側で一つに合流し、やむを得ずに床へと滴るのだった。噴出の最中、彼の体は無意識にピクピクと動いていた。それでも彼の表情はあくまでも眠りを保ったままでいる。この上下のギャップを目の当たりにするのは、やましい喜びだった。俺は笑っているのか、苦笑いしてるのか、にやけているのか、判断することができなかった。
 彼がそのとき、あっ、と声をあげた。オンは目を見張らせた。彼は目覚めなかった。それは喘ぎ声と寝言が入り交じったような声だった。いったい、彼は眠りながら何を感じているのだろうと、オンはそれすらも知りたいと思ってしまう。爪で掴むと、精液はぐにょぐにょとしていた。ゆっくりと爪を離すと、どこまでも糸を引いた。
 オンはそれを口にした、唾液を舐め取るように、ごく自然に。しまった、と思ったときにはもう遅かった。うまいというわけではなかったが、悪い味ではない。


 28

 さっきから、ずっと後ろの方から誰かの気配を感じる。たぶん、木の葉に隠れて、こちらをじっと観察しているはずだ。少なくともストライクではないが、体格はそれなりに大きい、俺と同じくらいかもしれない。ただ、そいつの音波からは敵意のようなものは全然感じられない。その代わりに、怯えとか、羨み、臆病さといった感情があるみたいだ。それは、オンが樹液を口にしたときにいっそう高まった。とてもわかりやすい感情だった。これだと、隠れていても、尻を突き出して聞いているのと同じだ! ここから考えられることといえば、一つしかない。
 オンはいきなり、問題の木めがけて爆音波を放った。木の葉は激しく揺さぶられ、辺り一面に舞い散ると同時に、不釣り合いに大きな衝撃音と、間の抜けた叫び声がした。オンの足下には、一匹のヘラクロスが倒れていた。ちょっとばかり、地面にめり込んでいた。
 間髪言わず、オンは足でそいつをひっくり返した。何が起きたのかをまだよく理解していないようで、目の焦点は合っていなかった。オンの姿は、まだこいつには輪郭のない影のように見えていることだろう。オンは黙って、このヘラクロスが気を取り戻すのを待っていた。
 ヘラクロスはオンを認めると、あたふたしだした。立ち上がろうとしたが、腰が抜けていた。手を使おうとしたが、短すぎた。叫ぼうにも、声が裏返りすぎて、かすれてしか聞こえなかった。オンにいぶかしげに睨まれながら、ヘラクロスは必死に弁明しようとしていた。
「悪いことはしてないんです、悪いことはしてないんです!」
 とかろうじて言ったヘラクロスの声は、どもり、震え、かすれていた。
「僕は別に悪いことは何も! 何も! 悪い事なんて! そんな! ひどい! こんなこと! 僕は、ただ!・・・・・・悪意なんて! おぞましくて! 本能が、で、に、の!・・・・・・」
 これでは埒が明かなかった。喉が渇いたので、ヘラクロスが落ち着きを取り戻すまでの間に、池の水を飲んでおくことにした。たぶん、悪い奴ではないのだろうが、この辺りでは見かけたことがないし、まずは事情を聞いてみないと始まらない。それだって、聞かなくてもわかることでもあったのだが。ヘラクロスはオンがそばを離れたことに気づいているのかいないのか、未だにうわごとを並べ続けている。何かを言おうとしていて、何も言っていない。
 池に口をつけると、またもや怪しい想像力が働いて、ここに薄められているだろう彼の汗、精液のことを意識せずにはいられない。あるかないかの、とても微少なものだろうが、この水の中にそれらが紛れ込んでいるかも知れないと考えるだけで、気持ちが高まってきた・・・とはいえ、ヘラクロスの耳障りな金切り声のせいで、オンは瞬時に妄想から引き離された。いやむしろ、そのおかげで、と言った方がいいか。今はそんな甘ったるい気分に浸っている場合じゃなかった。仕事中ではあるのだ。仕事中にそんなことをしていると、危うい。
 少し時間を置いたこともあってか、ヘラクロスの言葉はさっきよりはだいぶ秩序を取り戻しているように聞こえた。それにしても、このヘラクロスのびびり様はある意味で天才的だった。雌にもこんなやつはいないと、オンですら確信できたくらいだ。
「話を聞いてください! 話を! 僕の! ひっ! 止めてください! 殺すのだけは勘弁してください!」
 ヘラクロスは別に翼を振り上げられてもいないのに、両腕で顔を守る姿勢をとった。
「いいから、まず話を聞かせてくれよ」
 オンは呆れて、普段のように強硬な態度はとらなかった。
「さっきいきなり脅かしたのは悪かったよ。おまえがちゃんと事情を話してくれれば、それでいいんだよ」
 それでもヘラクロスはなかなか平静になってくれなかった。言い訳を始めた瞬間に、オンに殺されるものと思い込んでしまっているらしい。オンが何か言った途端に、止めてください、助けてください、殺さないでください! と叫ぶのだ。
「わかったわかった、だからまずは落ち着いて話をしてくれって」
「いやだ! 僕は何も悪い事なんて! ひどいや! 本当に、本当に、助けて!」
 こんなやりとりをいつまでも二人は繰り返していた。あげくにはオンの方まで声がかすれてしまった。ヘラクロスが声を張り上げるせいで、オンも声を張らなければ相手に聞こえそうになかったのだ。とうとう、オンが先に根負けしてしまって、このまま放って帰ってしまいたくなった。
 いつの間にか、二人の周りには森の住民たちが様子を窺いに集まり出した。ヘラクロスの声はこの辺りに響き渡っていたのだろう。ただならぬものを感じてか、単に面白そうだから見物にやってきただけなのか、みんな茂みのところから二人のいつまでも終わらないやりとりを観覧している。オンの呼びかけに、ヘラクロスが素っ頓狂な声を挙げるたびに、外野からは笑いが起こった。ヘラクロスを囃す声、野次る声、茶化す声、励ます声、時々はオンに同情する声があちこちに飛び交った。しまいには、彼らまで二人の会話にいちいち割り込むので、ワケがわからなくなった・・・・・・だから・・・・・・違う!・・・・・・お願いだから・・・・・・言えよおまえ!・・・・・・イチから・・・・・・僕は!・・・・・・僕は何だって!・・・・・・神様!・・・・・・落ち着けって・・・・・・なあ神様ってなんのことだ?・・・・・・いろいろでしょ・・・・・・まずはちゃんと・・・・・・あああ!・・・・・・やめろって・・・・・・なんだいあれは・・・・・・オンさんも大変・・・・・・落ち着け・・・・・・嫌だ!・・・・・・嫌だ!・・・・・・嫌しか言えんのかカブトムシ!・・・・・・誰か助けて!・・・・・・誰が助けるか!・・・・・・大丈夫だからさ・・・・・・頑張れええ!・・・・・・メチャクチャだ!・・・・・・賭けるか?・・・・・・殺すなんて馬鹿なこと・・・・・・うわあっ!・・・・・・いいぞ!・・・・・・もっと叫ぶんだ!・・・・・・うちはオンさんだと思う・・・・・・きゃっ!・・・・・・頼むから・・・・・・押すなって!・・・・・・違うね・・・・・・前にばっかりずるいずるい!・・・・・・僕も!・・・・・・私も・・・・・・怖い・・・・・・嘘だ・・・・・・違う・・・・・・止めろ!・・・・・・俺はただ・・・・・・俺にもその木の実くれよ!・・・・・・嫌だ!・・・・・・何で?・・・・・・ふざけんな!・・・・・・だから・・・・・・嫌だ!・・・・・・違うんだ・・・・・・イテっ!・・・・・・誰いまの?・・・・・・あいつだ!・・・・・・違う!・・・・・・僕は!・・・・・・何だと!・・・・・・頼むから・・・・・・おまえこそ!・・・・・・ねえ、彼のことどう思う?・・・・・・ううっ・・・・・・ぐえっ!・・・・・・まあまあかな・・・・・・頼むから・・・・・・キイーっ!・・・・・・うわーん!・・・・・・何も!・・・・・・全く!・・・・・・俺は・・・・・・勝負だ勝負!・・・・・・いけっ!・・・・・・ぴいっ!・・・・・・出たっ!・・・・・・あ、久しぶり!・・・・・・頼むから・・・・・・お母さん・・・・・・あっども・・・・・・お母さんどこ?・・・・・・泣かないで・・・・・・ほらそこだ!・・・・・・よくやった!・・・・・・死にたくない!・・・・・・もう少しだ!・・・・・・頼むから静かにしてくれえっ!
 オンは爆音を放ち、周りにいた全員がのけぞった。辺りは一瞬で静まりかえった。みんな呆然として、時間が止まったかのように、その瞬間にとっていた姿勢のまま静止した。おそらく、突然の災厄もこのように起こるのだろう。


 29

「やれやれ、やかましいと思ったらこの有様か」
 人混みをかき分けて現れたのはペラップだった。後ろにはピカチュウもついてきている。「いったい何をしていた?」
 住民たちはペラップに気づくと、みな一様にペラップに視線を移し、押し黙って、ペラップの歩く姿を見ていた。さっきとは打って変わって、こわごわとした表情だった。
 ペラップはオンとヘラクロスの前に進み出た。二人の顔を交互に見比べ、言いたいことは相当あるようだったが、深くため息をついてから、かなり感情を抑えながらこう言った。
「おまえに紹介したい者がいる、オン」
「ごめんなさい。本当はこんなはずじゃなかったんだけどなあ」
 ピカチュウは残念そうに肩を落としながら言った。
ヘラクロスさんは私の友達なんだ」
「えっ」
 オンは頭が真っ白になった。しばらく何の返事もできなかった。
「前に、ちゃんとおまえに伝えたはずだ。近いうちに、おまえのところに越してきたいものがいるから、相談に乗ってほしいとな。ヘラクロスという種族だということも確かに言った」
「げっ」
 それでオンは急速に記憶を取り戻したのだが、確かにペラップと会った時に、そんなことを聞かされていた。ピカチュウの友達だというヘラクロスという奴が、自分の縄張りで暮らしたいというから、話を聞いてやって欲しい、と。だが、今更思い出してもどうしようもない。
ヘラクロスさんは、とっても優しいの。でも、とっても臆病で怖がりだから、ちょっと脅かしちゃうと、すっごく混乱してこんな風になっちゃうんだ」
「へっ」
「ともかく、こんなところで話していてもしょうがない。一度、おまえの洞窟に戻ろう。その間に、彼も何とか落ち着くだろう。ピカチュウがいれば、もう大丈夫だ」
 ペラップは背を向けて、すたすたと歩いて行った。ピカチュウヘラクロスに大丈夫だからと声をかけながら随伴する。オンはまだ呆然とはしていたが、とりあえずみんなの後についていった。茂みを抜ける時、住民たちはじっとオンたちを見つめていたが、一匹お節介なコラッタがいて、オンの足下に近寄って、どんまい、と声をかけるのだった。池から離れていくにつれて、背後から少しずつ声が聞こえるようになってきた。がやがやと、賑やかそうな話し声だった。
 洞窟に来る頃には、ピカチュウの尽力もあって、ヘラクロスはすっかり正気を取り戻していた。こちらが恐縮するほどに丁寧な口ぶりで、先ほどの無礼をオンに謝罪した。謝るために謝るといった調子で、いくら謝っても足りないかのようだった。ようやく、4人とも洞窟に落ち着くと、ペラップが取り仕切る形で、話を始めた。
 さしあたって、ヘラクロスがこれまでの事情を語ることになった。ヘラクロスは、もとはいわゆる空白地帯で一人のんびりと暮らしていたものの、この頃は物騒になってきたから、どこかの縄張りに入りたいと思っていた。そこへ、友達だったピカチュウから、自分の住む縄張りなら安心だということを教えてもらったので、こうしてオンに会いに行くことになった。それではなぜ池の周りにいたのかについてはこう説明した。まずピカチュウのもとを尋ねようとしたときに、どこかから甘い蜜の香りが漂ってきて、ついそれに惹かれるようにあそこまで来てしまった。そうしたら、いきなりオンが現れたので、びっくりして木の上に隠れたのだ。
「まだ、話が決まったわけではなかったのに。僕が迂闊な余り、余計な迷惑をおかけしてしまって、オンさんには何と言えばいいのか・・・・・・」
 またヘラクロスが謝ろうとしたのを、3人して宥める。
「大丈夫、そんなことはもう気にしなくていいからさ」
 オンはもう何度この台詞を言ったかわからなかった。
「とにかく、早く本題に入ろう」
 話し合いが始まった。オンはヘラクロスにいくつかの質問をする。好きな木の実の味は何だとか、特技とか、住むとしたらどういう環境がいいのか、どういう暮らしをしたいのか。どれも無駄なことに聞こえるかも知れないが、こうした質問によって、ある程度は相手の性格や人となりを察するためだ。オンはヘラクロスの話に慎重に耳を傾け、その音波を注意深く分析していた。彼の言葉に嘘はないか、どれだけ誠実さがこもっているかをそこで見極めた。面接の結果、ヘラクロスは、見た目の通り、性格はやさしい、きわめて正直かつ誠実な人柄だとオンは判断した。
 それが決まったら、今度はヘラクロスがここで暮らす代わりに、何をしてもらうかという相談に移った。ヘラクロスは自分からこんな提案を持ちかけた。
「恐縮ではありますが、先ほどオンさんと出会ったあの池に住まわせてもらうわけにはいかないでしょうか? 蜜の香りに惹かれてしまったこともあります。でもそれを置いても、あの環境は僕にはとても心地いい。それに」
 と、オンの顔色を気にしながら、ちょっと言いよどんだ後で付け加えた。
「あそこは木といい草むらといい、なんだかひどく荒らされているようでした。もし侵入者がいるということであれば、僕のような者が近くにいれば、少しは被害を防ぐことができるのではないかと思います。あんな僕とはいえ、いざという時には戦うこともできます、見たことあるよね? ピカチュウ
「もちろん! あれはすごかったねー」
 ピカチュウはそのときの光景が目の前に映っているかのように、感激して答えた。ピカチュウペンドラーに襲われた時、ヘラクロスはたった一人でそいつを撃退したということだった。
「いかがでしょう?」
 それはもちろんオンにも大歓迎だった。木々の状態からして、ストライクのやつが頻繁に新入を繰り返していることは明らかだった。池の水は縄張りの生活にとって欠かせないものだし、そこが危険な場所になられると大問題だ。それに、オンはそこでやはり彼のことを思ってしまったわけだが、彼が一人で池を訪れることは少なくとも何度かはあるだろう。また奴と遭遇するようなことがあったら・・・・・・あらゆる意味で、ヘラクロスに池のそばに住んでもらうことに、利点はたくさんあった。bgからもらった助言も、オンの背中を押すのだった。
「わかった。じゃあ、ヘラクロスさんには池の周辺の見回りを頼みたい。そして時々、その様子についてこちらに報告してほしい。万が一、見慣れないものがいた場合は、状況に応じて対処してほしい。一人で危険な時には、木を揺らすなり、声を出すなりして、とにかく音を出して俺に伝えるようにお願いします。異常な音だと認識できれば、俺はすぐにでも駆けつけますから」
「交渉成立だ」
 ペラップはぴしゃりと翼を叩いた。
「やったー」
 ピカチュウは両手で万歳のポーズをした。
「じゃあ、さっそく、歓迎のごちそうしなきゃ」
「オン、仕事だ」
 ペラップはまるでリーダーであるかのようにオンに命令した。
「えっ」
「ここいらの木の実に詳しいのはおまえだろう。新鮮なのを集めてくるんだぞ。歓迎なんだからな。ぐずぐずするな。暗くなってしまう」
 オンはペラップの言葉に押し流されるようにして、ヘラクロス歓迎のための木の実をかき集めてくることになってしまった。ヘラクロスが僕も手伝いますよと言ってくれるが、ペラップがあれこれと理屈をつけて洞窟に引き留めた。ペラップの口調はオンに対して、なんだか妙にとげとげしかった。軽蔑のようなものすら感じ取ることができた。オンは心が冷え冷えとする思いでいた。
 出かけ際に、オンは洞窟の入り口でペラップに呼び止められた。振り向くと、神妙な面持ちでペラップは佇んでいた。
「後で話がある。歓迎が終わった後に、ここで話そう」
そして踵を返して、洞窟の闇に紛れて消えた。


 30

 のぼせていたせいで、ボクの予定が狂ってしまった。すっかり夜中になってしまった。バンギラスさんはボクが休む間に、山に帰ったそうだ。ボクのそばにはずっとコータスさんがいてくれた。どこからか持ってきた大きな葉っぱを咥えて、長くした首を上下に振って、ボクに涼しい空気を送っていた。ボクはだいぶそれで楽になってきた。立ち上がろうとすると、少し立ちくらみはしたけれど、我慢できない程ではない。
 コータスさんはボクに、もうしばらく休んでいったらどうかと勧めてくれたが、それも申し訳ないと思った。何より、ただでさえ帰りが遅くなりそうだから、オンたちはボクのことを今頃気にかけ始めているだろう。ボクはコータスさんにお礼を言い、それからバンギラスさんにも後でボクの感謝を伝えてくれるように頼んだ。そして、気持ちは急ぎで、オンたちのもとを目指して空に飛び立った。
 夜の風に浸っていると、冷たくてとても気持ちがいい。まるで水の中にいるみたいに感じられる。泳いだことはないけれど、きっと今のボクのこの爽やかな気分とおんなじなんだろうなと思える。ボクは急いではいたけれど、特に意味も無く速度を緩め、あるいはその場で立ち止まって、闇に覆われたこの森を遙か上空から眺めてみた。森はだんまりとしながら、でも何かを企んでいるように、こっそりとボクの様子を窺って、目を離すことがないようだ。見上げれば、月が輝いていた。まとっていた雲が過ぎ去ると、本当に皎々と、月は明瞭にボクの遙か上に際立った。振り返ると、山が首みたいに、少しでも高くいようとして必死になっていた。いったい、ここはどこだっただろう、とボクは考えそうになった。
 夜更け、この空にはボク以外誰もいない。この途方もなく続くように思える空が、まるでボク一人のものであるかのような錯覚を覚える。ここにはボクを脅かすものは何一つとしてない。ボクの下で蠢いている怪物も、ボクが空に君臨する限り、手出しすることなんてできないんだ。ボクは悠然と宙返りをしてみせた、見せつけるように。その永遠に続くんじゃないかと思えるくらいの一瞬、ボクの胴体は月に向かって堂々と突き出され、差し出され、このままあの光の方へと浮き上がっていくんじゃないか、とすら思った。
 ボクは何かを思い出せそうな気がした。それがボクの記憶なのか、それとも身体に刻み込まれた感覚なのか、わからない。けれど、空を飛んでいるときに感じた喜びと誇らしさには、かつてどこかで会ったような親しみと懐かしさがあるのだ。本当にそれはいつのことだったのだろう。ボクはまたしても自分の中をまさぐってみることになる。ボクは確かに忘れているが、でも何も忘れてはいない、と思う。どういうことなのだろう? ボクはいつの間にやら、ボクの望むと望まないとにかかわらず、ここへ投げ出されていたみたいだ。ボクは空を飛び、ひどく腹を空かせていた、それが始まりだ。それ以前は、あったにせよなかったにせよ、あってないようなものだった。
 そんなことがあり得ないことはよくわかっていた。でも、本当のことを知るにも、ボクはあまりにも今の暮らしに満足しきっている。それ以前のボクがどうだったかなんかで、ボクが思い悩む必要は何もなかった。ボクの過去は、それがちゃんとあったとして、ボクではない誰かのためのものだって思えた。何かがすっぽりと抜け落ちていることは、本当は気持ちの悪いことのはずなのに、ボクは何も感じない。それは空虚でも欠如でもない、充溢でも過剰でもなくて、つまるところ何でもなかったんだ。
 じゃあ、ボクは何を思い出しかけたのだろう? あるいは、そんな気がしたんだろう? 考え込みそうになるが、また頭が熱くなってしまってはせっかくの気分が台無しになってしまう。それに、どうせ答えも出ないような気がした。よし。ボクはもう少し、気の赴くままに遊泳していくことにした。大樹が次第に目の前に見え始めている。早く帰らなくちゃとは思うけれど、この空に漂っていたいとも思い、どっちつかずで、ボクはふらふらと飛び続けていた。
 ようやく、オンの住みかに戻ってきたときには、もう夜が明けかけていた。洞窟の奥で、オンは一人であぐらをかいて、何か考え事をしているようだった。ボクが声をかけると、その瞬間にボクが帰ってきたことに気づいたらしく、オンは変な声を出した。それだけ無我夢中になっていたみたいだ。ボクが首をかしげて、何事か尋ねても、オンははっきりとは答えてくれなかった。ボクの質問を打ち消すように、オンの方から、どうして帰りが遅くなったのか、何か変なことでもあったのか、と矢継ぎ早に問いを浴びせかけてきた。ボクはkさんの温泉であったことを一から話さないといけなかった。
 オンはそっかそっかとしきりにうなずいていたけれど、なんだか上の空に見えた。自分で聞いたのに、唐突に話題を変えて、飯でも食うか、それとももう寝るかと尋ねた。オンの前にはすでに木の実の用意が済んでいた。長い時間をかけて飛んでいたこともあって、確かにお腹は空いていた。
 さっき、ここで新しい住人の歓迎をしていたんだとオンは話した。すごく楽しかったという。ボクもいればもっとよかったのになあ、と言う。ただボクは、オンのどことなく憂鬱げな目が気になってしょうがないのだった。オンに尋ねると、疲れたんだ、と答えるばかりだった。
 食事の後、ボクは疲れがどっと出たのだろう、オンよりも先に寝藁に横になっていた。意識が遠のくまで、ボクは変な物思いに沈み込んでいた。ボクは何かの後にいて、何かの前にいるのだと。何かとは何だろう、それはボクからいったいどれくらい離れているのだろう、この時はいつまで続くものなのだろう・・・・・・


 31

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 32

 ヘラクロスの歓迎会がお開きになった後、オンが洞窟に出てくると、約束通り、ペラップが待っていた。相変わらずタブレットをいじくり回して、何かを調べているのか。それとも暇を潰していたのか。
「あの子、まだ帰ってこないんだな」
 何気なくペラップはつぶやいた。
「ああ、何してんだろうな、あいつ」
 そういえば、もうとっくに帰ってきてもいい頃だった。コータスのもとに挨拶に言ってくるだけなのだから、それほど時間がかかるわけもなかった。しかし、コータスのところだから無駄話に延々と付き合わされることもあり得る。オンもたびたびそれで長時間その場に引き留められたことがあったものだ。オンはあまり気にしすぎるのもいけないと思った。
「まあ、彼がいない方が話はしやすいな」
 ペラップは言った。彼、というペラップの言い方には、隠密ではあるが突き放したような響きがこもっている。ペラップは抑えて言っているつもりなのだろうが、オンにはいやでもそのニュアンスが伝わってきて、ぞっとさせられる。
 二人の間に、特に意味の無い沈黙が流れる。お互いに、相手の出方を窺うかのように、相手の目をじっと見つめている。
 ようやく、最初に口を出したのはオンの方だった。
「今日は悪かったな、手間かけさせて」
 ヘラクロスのことだった。ペラップを通して、一通りの事情はあらかじめ聞かされていたにもかかわらず、オンはすっかり忘れてしまっていた。そのおかげで、池でヘラクロスと思わず遭遇してしまったときに、あらぬ騒ぎへ繋がった。ペラップがやってこなければ、いつまで経っても埒が明かなかったのは間違いない。これはオンの失態だった。しかし、でも、だけど、オンの内心は未だにくすぶっていた。何せ、縄張りの住民たちの面前で、赤っ恥をかかせられることになったからだった。パニックに陥ったヘラクロスにおどおどするばかりのオンに対して、知的なタブレットを小脇に抱えながら、そつなくこの場を取り収めた姿は、オンよりもずっと主らしく見えたに違いない。
 あの後の住人たちのからかうような視線からして、自分の面目が丸つぶれになったように思え、オンはペラップに引け目を感じずにはいられないのだった。まだ主としては、たとえばバンギラスみたいな悠然さと威厳さにはほど遠いという自覚と反省はあるものの、縄張りの住民たちがそれなりには主として畏怖の念を抱いてくれるように振る舞おうと心がけてきたところなのである。その努力が、この一件で水の泡となりやしないか、オンは気が気でない。だから、オンのペラップへの感謝には、言葉とは裏腹に、本当はそんなこと認めたくないんだけどな、という僻みも混ざっていた。
「別に構わない。主を手助けするのも私の役目だろうから」
 ペラップは、ぴしゃりと言い返す。今回のような行いはペラップにとってはごく自然のことだから、とりたてて言うことなど何もないかのように。
 オンもそれ以上、何かを言い足すことはできそうもなかった。反論しようとすればするほど、自分の落ち度が露わになるだけだとわかっていた。
 二人はまたしばらく黙り込んだ。オンは何気なく空を見上げ、早く彼が帰ってくればいいのにと願った。空は晴れているのに、月は雲に隠れて霞んで見えた。月の輝きが気持ちよく見えるまでにはまだ時間がかかりそうだった。ペラップもつられるように月を見上げたが、特に何も感じなかった。
 そんなことよりも、大事なことがあった。オンもそれが何なのかはよく察していた。察していたからこそ、黙り込んでいたかったのだ。
 ペラップは、手慰みに音符の形をしたとさかをいじった。オンがぼんやりとした月を眺めたまま、口を開こうとしないのを見て、話を切り出す決心をした。
「せめて、話って何だ? と聞く素振りはしてもいいだろう?・・・・・・」
 不機嫌にペラップは言い放った。
「おまえが私の話を避けたがっていることはよくわかっているが。だからこそ、今、話さなければと思ったから話している」
 オンは曖昧に返事をする。上の空だった。
「オン、おまえは彼のこと何だと思っている?」
「そりゃ、仲間に決まってるじゃんか」
 オンは食い気味に答えた。
「仲間か、そうか、まあいいだろう。彼がここにやってきてしばらく経った。なるほど、この森では見慣れない種族ではあるが、彼がいい子だとは私も思うよ」
「何が言いたいんだよ?」
 オンは苛立った。ペラップがゆっくりと自分の弱みに踏み込もうとしているのが感じられ、本能的に、ペラップへの警戒心と敵愾心が湧き起こった。
「遠回しに言うなんて、おまえらしくないぜ」
「単刀直入に言ったら、余計いきり立つに決まっているだろ」
 ペラップは淡々と話した。
「私はこれでも、優しく、忠告しているんだ」
 オンは肩をすくめた。ため息が勝手に出てきた。体内で鬱憤が充満し、漏れ出していた。喉の辺りに言いしれない不快感がこみ上げてきた。吐き出せるものがないのに、吐き出したくてたまらなくなってきた。オンはすっかり、ペラップに対して下手になっていた。
「もちろん、彼を縄張りに住まわせることはおまえの裁量だ。ただ、いくつか忠告をしておきたいと思ったんだ。おまえはここの主として一人前になりたいと思っているのだろう? それならば、自分のことを少しでも真剣に省みるべきだ」
 だったら、さっきも俺の顔を立てるように振る舞ってくれればよかっただろ、とオンは言いそうになった。俺がど忘れしていたとか、わざわざ公衆の面前ではっきり言わなくてもよかっただろ? ペラップの行動の何もかもが、オンに対する悪意に満ちているようにすら感じた。オンはしきりに首周りの毛並みをかいた。
「まず、筋を通すならば、あの子がお前のところに住むべきではないな? あれからだいぶ日が経ったからには、必ずしも一緒に暮らす理由もないだろう?」
 オンはペラップからさっと目を逸らした。再び月を見上げると、未だに雲の中に霞んでいた。雲はその場で固まってしまったかのようであり、時間が止まってしまったのではないかと錯覚した。この息苦しい時が、永遠に終わらないような悪寒がする。
「でも、まだ時間が必要だろ。あいつは他の連中とは違うんだ、慣れる時間ってもんが・・・・・・」
 オンは平静を装っていた。それはごく当たり前のことだ、おかしいのはペラップの方なんじゃないかとほのめかそうとする。
「そうなのか?」
 ペラップは冷ややかに言い返した。容赦のない反応だった。オンは返す言葉に詰まってしまった。
「他の連中とは違う、と言ったな? ならば、なぜおまえは奴に尋ねようとしないんだ? おまえは一体どこから来た? おまえは何者なんだ? とな!」
「聞いただろ! あいつをここに引き取った時に!」
「あれを聞いたと言えるか!」
 苛立ちが次第に高まっていく。
「おまえは、あんな言い分を信じるような馬鹿だったのか? はっきり言って、奴の話はおかしなところばっかりだったじゃないか。まともじゃなかった」
「おまえの考え、尊重するけど」
 オンは虚勢を張った。
「ただ、最終的に判断を下すのは俺だ。それはお前も分かってるよな。そりゃ、あいつの話には曖昧なところがあったよ。ここに来る前に何をしていたのか、聞いてもさっぱり分からなかった。でも、間違いない、あいつには何の問題もないって、俺はそう思ったんだ」
「おまえ、仮に他の連中がそういうこと言ったとしても、同じことを言えるのか?」
「そう判断できれば、言えるに決まってるさ!」
 いい加減、ペラップに腹が立ってきた。
「その割に、さっきのヘラクロスの時は根掘り葉掘り聞いていたじゃないか? 本能で判断できるというなら、何もあんなに長ったらしく話なんかしなくてもよかったんじゃないかな?」
 オンは吐き出す代わりに、ぐっと唾を飲み込んだ。
「おまえは、あいつを信じられないんだな?」
「信じる信じないとは別だ、話を逸らすな。少なくとも、素性ははっきりさせなければいけないと思うだけだ」
「あいつには、伝達係をやらせることにしたんだ。だから、ここの一員として」
「そんなもの、必要あるのか?」
 ペラップはぴしゃりと言った。
「それが一体、何の役に立つ。第一、テリトリー同士の連絡など、既に適役がいるじゃないか」
 二人はにらみ合う。オンの耳はそばだち、瞳孔が縦に細まった。はっきりとした憎しみが、火のように一瞬灯って、消えた。それに対して、ペラップは憎悪でもなく軽蔑でもなく、ただ冷厳な視線を、オンに向けている。
「さては、あいつをどこかの回し者だと思ってるんだな? そう言いたかったら、はっきり言ったらどうなんだよ? なあ、そういうことなんだろ!」
「おまえはおかしくなっているぞ!」
 ペラップは怒鳴った。体格はオンの足下にも及ばないのに、声はひどくやかましかった。「何度も言っているはずだ! 縄張りをうまくまとめるには、主であるおまえが誠実でなければいけないんだとな! だが、なぜだか、おまえは奴だけを特別扱いする! そういうところから、縄張りの秩序は乱れていくと言いたいんだ私は! 経験があるからな!」
 ペラップは思わずむせかえった。柄にもなく叫びすぎたせいで、さすがに喉も涸れそうになっていた。オンは黙ってその姿を見ている。
「近々・・・・・・ここを狙ってくる奴がいると話したばかりだったな? 重大な時だ、念には念を入れた方がいいだろう?」
「そんな奴ら、屁でもないな!」
 オンはストライクのことを思い浮かべ、嘲りの笑みを浮かべた。
「とにかく俺は、あいつを信用してる!」
 オンはきっぱりと言っ切った。
「これにかけちゃ、おまえのそのタブレットなんかよりもな、俺の感覚の方がずっと正しいんだ!」
 ペラップが我が身の一部のように抱えているタブレットを、憎しみを込めてたたき割ってしまいたい衝動が心の奥底で起こった。そうすれば、ペラップは顔色を失うだろうか? 色とりどりの羽毛も、瞬く間に色あせてしまうのか? ただ、オンはその哀れな姿を想像してしまってから、はっと我に返るのだった。
 もはや、話は折り合いそうになかった。いつまでも同じことの繰り返しだった。
 ふと、空を見上げたら、雲は取り払われ、月が皎々と照っていた。綺麗だった。興奮した気持ちが多少なりとも和らいでくる。しかし、この口論のおかげで、お互いすぐには癒やしがたい痛手を被っていた。この気まずさをどう打ち破ればいいものか、二人とも全く分からなくなってしまっていた。
「もうよそう」
 そう言い出したのは意外にもペラップの方だった。
「そろそろあの子も帰ってくる頃だろう・・・・・・」
 オンはようやく張り詰めた体をほぐすことができた。すると、物思わし気にうつむくペラップに対して、にわかに情が湧いてくるのだった。冷静になれば、ペラップの言うことが正論であるのには違いなかった。オンもそれはよく理解している。けれど、合理的な理屈が通じないこともあるのだと、二人とも思い知らされることになった。
「しばらくは、お互い頭を冷やした方が良さそうだ」
 ペラップが弱々しくつぶやいた。
 オンも黙って同意した。
 こうして、仲間割れも仲直りもすることなく、二人は別れた。険悪な空気は依然として残っていたが、ペラップは帰り際に翌日の天気を知らせるのを忘れなかった。一日中快晴、降水確率0パーセント。けれど、それはペラップのさりげない当てこすりのようにも思えた。このあいだ説教された時のペラップの天気予報は微妙に外れていたことが、思い出された。
 彼が帰ってきたのはそれからまもなくのことだ。食事のために、オンは木の実を並べていた。例の実もこっそり一つ紛れ込ませている。彼は、自分を巡って何が起こっていたか全く知らない、まるで屈託のない柔和な面持ちをこちらへ向けた。オンは改めてどきりとさせられた。もはや、謎も含めた彼のすべてを、オンは愛するようになっていたのだ。