エターなるオンプテ小説(2/4)

 続き。

 1〜16までは、pixivでの既出なので、それを読んでいたという奇矯な方はここからお読みください。

 

 17

 ボクが目覚めたとき、オンはまだ眠っていた。
 ボクは夢を見た、ような気がする。夢なのか夢じゃないのか、夢だけど夢じゃないのか、夢なのに夢じゃないのか、夢じゃないけど夢なのか、夢じゃなければ夢なのか、ボクなりに考えを巡らせようとしても、すぐに行き止まりにぶつかってしまう。夢だったのか夢じゃないのか、とにかくあいまいな、幻覚のような、金縛りのようなものをボクは味わった。けれどそれが何だったのか、起きてみると全然言葉にできなくなっていて。
 でもそんなことはどうでもいいのかもしれない。ボクには夢のことよりも、現実で起きていることの方が大事だし、対処しなければならないのもそっちだ。
 ボクは目覚めるともなく目覚めた。いつのまにか目が覚めていた。けれど、体の感じがいつもと違っている。もちろん、突然姿が変わったというわけではない・・・・・・ボクが感じたのはイヤな予感だ。それも、一番イヤなところからくるものだ。
 ボクはおそるおそる仰向けになって上体を起こし、そこを見た。すると思いがけないことに、ボクの股間が濡れている。少し手で静かにまさぐってみると、びちょびちょだった。爪に付いたそれは、爪の間で長い糸を引き、においを嗅ぐと、きつい臭いがして、思わずのけぞってしまった。股間のことなんて、ほとんど気にしたこともなかったのに。
 もう一度、ボクは自分の股間を見る。こんなことのために自分の体を眺めることなんてまったくなかったから、自分のものなのに恥ずかしい。下腹部から尻尾の付け根のところには、くっきりとした線が浮かび上がっていて、その線の周りが特にひどく濡れているのだった。ボクは察しつつあった。ちょっと爪先で線に触れ、そっと中に入ってみると、まるで水の中のような心地がした。ボクの爪がボクのモノに触れると、ボクはたまらず爪を引き抜いた。爪は粘液にまとわれて、気持ち悪い。だからといって、舐める気には全然なれない、当たり前だ。
 でもこの粘液は、ボクのモノから出てきたものなのだ。しかも量は少なくなくて、ボクのお腹はすっかり汚れてしまってる。昨日、オンが木の実を投げつけられたのとでは、全然違う。でも、どうして、いきなり?
 オンがまだ起きていなかったことは、ボクにとって幸いだった。自分ですらこんなに恥ずかしいのに、オンに見られたりしたら、ボクはどうなってしまうか想像もつかない。どうしても気になって、ボクは股間の線を苦々しく爪でなぞったら、気持ちよさがほとばしって、ボクは声をあげそうになった。
 ボクはオンに池の場所を教えてもらっていた。といっても、オン式の、説明というよりは感情でものを伝えるような仕方で、何となくでしか位置を把握できていないのだが、こうなってしまった以上は、どうしようもない。この体をまずはどうにかしなくちゃいけなかった。正直、水は苦手だけれど、浴びずにいたあとの恥を思えば、いくらでも我慢しなくちゃならない。そろそろ暗くなる頃合いだから、誰の目にも触れなければいいんだけれど。
 股間が濡れていると、立ち上がるにも、歩くにも気持ちがよくない。ボクは自然と気が急いた。オンが起きる前にはコトを済ませなくてはいけない、それ一心だ。


 18

「おはよう。昨晩は済まなかったね。これどうぞ、ちょっとしたお礼に」
 ペラップは朝一番に、ある鬱蒼とした草むらを尋ねていた。手土産に木の実をいくつか持参しながら。
「なんだあ! おはよう、ペラップさん・・・・・・あっ! もう、わざわざ・・・・・・」
 草むらから出てきたのは、普段から世話になっているピカチュウだ。丸みを帯びた雌の尻尾を振りながら、ピカチュウペラップからの贈り物を手一杯に受け取る。
「毎度毎度、こんなことしてくれなくても、全然構わないって言ってるのに」
「いえ。私も昨日はわがままな振る舞いをしてしまったし。掟とはいっても、これくらいしないことには、申し訳が立たないと思ってね」
「そんなものかなあ? でも、ありがと!」
 ピカチュウは満面の喜びを体いっぱいに表現する。
「ほんとに優しいんだねー、あなたって」
「いえいえ」
 と言いつつも、ペラップはつい頭をかいてしまう。
「それにしても、あなたのテンキヨホーってすごいんだねえ。雨って言ったら、本当に雨だったし。おかげで昨日は濡れなくてすんだし! ねえペラップさん、今日の天気は?」
 ペラップタブレットで今日の天気を調べてやる。
「晴れ時々曇り、降水確率20パーセント。というのは、空は青くなるが、ほんの少しだけ灰色になるときがある。雨はもしかしたら降るかもしれないが、おそらく降らないだろうし、降ったとしても少し肌に触れるだけだから気にすることもない。つまりは、いつものように生活していれば平気だよ」
「なるほど、りょーかい」
 ピカチュウは短い手をめいっぱい挙げる。手につられるように、体も自然と背伸びする。
「なら安心!」
 ペラップピカチュウのとりあえず何に対しても嬉しそうな様子を見て、堅い顔つきが思わず緩む。オンといるときとは全然違う安心感に覆われて、ほっこりする。ピカチュウと合う時間はペラップにとって一番楽しい時間と言えた。そのときだけは、この森での煩わしいあれこれに悩まされる必要もなくなる。ピカチュウはとにかく純真で、ペラップはそれがものすごくうらやましくてたまらない。
 ピカチュウは、もらった木の実を抱えて、一度草むらに潜り、しばらく経ってまた出てきた。
「あ、そういえば」
 思いついたようにピカチュウペラップに問いかける。
ペラップさん、このあとオンさんのところ行く?」
「まあ、行くだろうけどね」
 ペラップは、あまり乗り気でない受け答えをする。
「相談したいことがあって。事情はちょっと複雑だから今はよすけど、友達がここに来たいっていうんだよね。私は全然歓迎なんだけど、どのみちオンさんがOKしてくれないといけないって決まりだからさあ」
「ああ。それなら私からあいつに言っておこう。何、簡単な話だから、心配なんてすることはないさ」
ペラップさん浮かない顔してるね、オンさんと何かあったり?」
 ペラップの不服そうな様子に気がついて、ピカチュウが尋ねた。
「何かあったといえば、まあ、あったというんだろうが」
 ペラップは非常に話しにくそうに辺りを見回す。
「ここだけの話ということにしてくれよ・・・・・・」
 ピカチュウは腕を前にぐっと突き出して、了解のポーズを示す。
「このあいだから、オンの奴、プテラという奴を住みかに住まわせているんだ。あなたはプテラという種族をご存じですか」
 ピカチュウは首をかしげる
「一言で言えば、灰色をした翼竜です。この辺りの鳥たちよりも一回り二回りも大きい。ごつごつとした外見で凶暴そうには見えるが、内面は柔らかだし、とても感じはいいんだ。たぶん、あなたも近く会うとは思うが・・・・・・その子自体が問題じゃなくて。私が理解しかねるのはオンの態度なんだよ・・・・・・私たちには縄張りの掟というのがあるだろう?」
「もちろんね。私の場合は、オンさんというよりはあなたのためなんだけど」
「私があいつにそう提案しましたから・・・ともかくそのようにして、私たちは何かを引き替えにしてあいつの縄張りに住まわせてもらってるわけだ。けれど、彼だけが違う。あいつはなぜか、彼には何も求めずに、いわばタダで住まわせてやってるみたいなんだ」
「いったい、どうして?」
「それが、わからない。そんなことをしていると、縄張りの秩序がおかしくなってしまうと恐れて、私は何度も何度もあいつに忠告はしているんだが、反応が鈍くてね。それに彼の様子を見る限り、どうやら二人で相談した様子もない」
「オンさんにしては、おかしな話ね。縄張りのことにかけては、すごく厳しいんじゃなかったっけ」
 ピカチュウは、初めて会った時のオンの鋭い目つきを思い浮かべていた。
「そのプテラというのは、そんなに特別な存在なのかな?」
「ちょっとした話になるけどね」
 ペラップピカチュウにかいつまんでその経緯を教えて聞かせた。ある日、縄張りの見回りから戻ってきたオンが、ペラップを尋ねてきた。なんでも、さっき縄張りで勝手に木の実を食っている奴を見つけて、どやしつけてきたのだが、そいつは見たこともない姿をしていたから、気にかかるのだと言う。オンから聞いた特徴から、ペラップはそれがプテラということはすぐわかった。外の世界を旅していれば、必ずしやどこかで聞く種族だったからだ。プテラという種族について、ペラップはおおまかにオンに説明をしてやった。プテラは、もっぱら化石や琥珀から復元される種族で、つまりは自分たちが生まれるというのとは異なった生まれ方をしているということ。だから、野生のプテラというのはおおよそ考えられない、元から森に住んでいたなんてことはなおさらありえない。ということは何らかの事情で、外の世界から迷い込んできた可能性が高い、ということ。
 ペラップはもしやと思い、タブレットで情報を集めてみたが、どこかからプテラが逃げ出したというニュースは見つけられなかった。だがいずれにせよここはオンの縄張りなのだから、相手が珍しい種族だろうが、自分たちの問題ではないだろうというのがペラップの意見だった。
 ところが、後日、オンは彼を自分の住みかの洞窟に連れてきていた。ケガをしているようだから、ちょっと面倒を見てやりたくてという理由だったが、縄張りに侵入する連中に対して、残忍に振る舞える奴の言うこととはペラップには思えなかった。だいたい、彼がそこまで深刻なケガをしているようには全く見えなかった。部外者のかすり傷や切り傷など、何も気遣いする必要などないはずなのに。そのうえ、オンはいつまでも彼を洞窟から追い出すこともせず、今の今まで一緒に暮らしているのである。
 当初ペラップは、オンがこのプテラと何かの契約を結んだのだろうと思っていた。しかし、ペラップ自身オンの住みかに出入りしているうちにわかったことには、どうやらこのプテラは森の掟についてまったく知らされていないようなのだ。彼と二人きりになったときに、さりげなく探りを入れてみたが、彼は天真爛漫な受け答えをするばかりだった。
 ペラップは徐々にむずむずしてくるが、肝心のオンの態度がどっちつかずという有様だから、こちらから彼に対して厳しく迫ることもできないでいた。そうしているうちに、だいぶ日が経ってしまった。昨日もやはり同じことをオンに、それもこれまでよりもきつく言ってやったのに、甲斐がなかった。なぜだか、オンの奴は、彼との関係をはっきりさせようとしない。ちょうど自分が、タブレットの有用な情報を通じて、オンと築いているような関係をだ。こと彼のことに関しては、オンが何を考えているのか全然わからない。
ペラップさんがわからないなら、私にもわかりそうもないなあ」
 とピカチュウは笑う。
「でも、それって、ズルいと言われてもおかしくないよね」
「悪い噂が立つのが、一番怖いんだよ」
 と、いっそう声を低めてペラップは話す。
「この頃また嫌な兆しがしているだろう?・・・・・・わざわざあいつが森を頻繁に見回るようになったしな。こんな時に、たとえばだ、オンがよくわからない種族の者にいいように扱われている、オンの縄張りの秩序がたるんでいるなんて悪辣な噂をどこからか広められないとも限らん。そこを狙って、争いでも起きたらどうなるか」
「怖いなあ。争いなんてしたくないよお」
 ピカチュウはガタガタ震える。
「本当に、やれやれだ! あいつには困らせられる。私はどこにいっても、苦労させられる身なのかね・・・・・・」
 それに、とペラップは考える、あのプテラが何者なのかさえわからない。それから事あるごとにタブレットで調べてはいるが、手がかりはつかめない。ペラップの経験上、どこかの施設から脱走してしまった以外に考えようがないのに、今の状況だと、その可能性は考えにくい。だとしたら、本当に、いったいあのプテラはどこからやってきたんだ?


 19

 オンはゆっくりと起き上がり、悠々と背伸びをしながら、間の抜けたあくびをする。ぼうっとしながら洞窟の一点を眺め、眠気がすっかり引くまでいた。それから彼が洞窟からいなくなっていることに気づくが、そんなことは最初からわかりきっていた。
 気持ちはオン自身意外だと思うくらいに穏やかだった。今の洞窟の静けさと、オンの心の静けさと、なかなかいい勝負だった。小腹が空いてきたので、倉庫から木の実を一つだけ取り出して、洞窟の外に出てみる。
 いつものところにペラップは止まっていなかった。さっきのことがあったから、さすがに平然と現れるわけにもいかないのだろう。話し相手もいないから、自然とオンは黙り込んでしまう。洞窟の入り口のそばに座り込んで、森の音にしばらく耳をかたむけてでもしている。
 オンの円盤状の耳がもつ聴覚は、どんなに微かな音からでも、多くのことを知ることができる。どの種族の連中がどの辺りに潜んでいたり飛び回ったりしているのかを、経験もあって、オンはそこから動かずして、目をつぶっていても見ぬくことができる。当然、縄張りを守るにもこの聴覚は力を発揮した。たとえば彼らのざわめきを捉えるだけでも、実のなる木や水辺がどの辺りにあるのかの見当がつけられるから、他の種族よりも遙かに合理的に素早く行動できるわけだった。オンは手っ取り早く食料と水との死活問題を解決できたから、後はそこを守ることに専念していればよかった。聞き慣れない音を聞きつけてその場に駆けつけ、縄張りの外の連中が荒らしに来ていたら、軽く脅しつけて追い出す。しつこく荒らしてくるようなら、最終的な手もやむをえないが、もし縄張りのために役に立ってもらえそうならば、話を付けたうえで、ここに住まわせることを認めてやる。ともかく、臨機応変に、ってこった。
 耳にだけ神経を集中すると、雑多な音がまるで目に見えるようだ。草むらで、木の茂みで、縄張りに住んでいる奴らが晩ご飯をとろうとしているのか、あちこちで一斉にうごめいている。たぶんその中にペラップもいるだろう、もしかしたらいつものピカチュウのところにでもお邪魔しているかもしれない。ただそこまで見極めるには、超音波ではなく超能力が必要だろう。縄張りの様子は平穏そのもののように聞こえた。常にオンがこの耳で睨みを利かせていることが外部の連中にも知れ渡ったせいか、この頃は敢えてオンの縄張りに踏み込んでこようとするものもいなかった。最後に、不審な音をキャッチしたのはいつだったかといえば、それは彼と出会った時なのだった。
 音から得られた情報が異質であったから、オンもかなり覚悟をしてその場に向かっていた。音波の形状から、相手は自分と同じかそれ以上の大きさをしていることが読み取れ、そのようなガタイの種族はオンの経験上、この縄張りの近辺にはいないことを知っていた。だから彼を見つけたとき、こいつは縄張りを荒らしにではなく、侵しに来たのかと疑った。そう、あの時は縄張りを作り出してから初めて、緊張した瞬間だった。
 しかし、あの時は張り詰めたおののきを感じていた彼の音を、今は平穏の一部としてオンは聞いている。彼の音は当然ながら非常に目立ってオンには聞こえるから、どこにいるかくらいはすぐにわかる。洞窟に彼がいなくてもオンがちっとも焦らないのは、そのおかげではあった。実際に、耳を澄ましてみれば、彼が池にいるということが聞き取れる。しかも彼としては珍しく、全身を水中に浸して、激しく水しぶきを立てていることまで。
 こんなこと考えていても、しらじらしいに決まってるよな。一、二度、何かを吹き飛ばすように頭を振って、もっと別の音に耳を澄まそうと努める。ただ彼の音を強く意識してしまった以上、なかなかそれから気を逸らすことができないのだった。オンは次第に、再び心が落ち着かなくなってくるのを感じる。彼が戻ってくるまでまだ時間がかかりそうな気配だ。非常に念入りに、彼は池で体を水に濡らしていた。オンはそれ以上は、彼のことを考えまいとする。しかし、オンは次第にむずむずしてきた。
 オンは、また意味もなく空を飛び回らざるをえなかった。オンは思ってから、行動するまでほとんど時間を要さなかった。オンは夜になったばかりの森の上へと飛び立っていく。ペラップが言っていた予報とは違って、空は曇っていた。少しばかり雨が降ってもおかしくない空気だ。


 20

 やっと、オンに教えられた池にたどり着けた。ここまでの道のりはなかなか大変だった。物音がするたび、ボクは近くの茂みに逃げ込んで、しばらくじっと様子を窺っていないといけなかった。何せ、夕方だ。ボクはうっかり普通の時間の感覚を忘れてしまっていた。この時間、みんなボクたちとは逆で、普通に起きている。これから夕食をとって、朝まで眠る。ボクだってもともとはそういう風にしていたに違いない。けれど、オンと暮らしているうちに、ボクの世界の見え方はまるで逆さになったかのように変わってしまっていた。しかも、ボクはそれにも気づかないでいたのだ。池にも住民たちがまだちらほらとたむろしていた。ボクはまたこっそり茂みの中から、彼らがいなくなるのをじりじりと待っていた。頭の中は、誰かに見つからないかという強烈な心配と、気持ち悪い感触のするボクのお腹のことでいっぱいだった。本当に、ボクはボク自身が嫌になりそうだった。
 誰もいなくなったのを見計らって、さっそく、ためらうこともなく、川に飛び込んだ。川の水の冷たさはたしかにボクの体には応えるけれど、そんなこと気にしていられない。ボクは必死に、問題のところを洗う。激しく翼をばたつかせながら、汚れを洗い落とす。ボクの翼は、水中で動かすにはとても不便で、思うようにそこになかなか手が届かなくてもどかしい。それに、やっぱり水が冷たくてつらい。下半身から、おぞましい寒気が体全体に行き渡るのを感じてしまう。自然とボクは、急いで体を洗ってしまおうとして、翼をむやみやたらに動かすが、そうすればそうするほど、翼は思うように動かなくなる。
 冷たさにもう我慢できなくなると、ボクは岸辺に這い上がった。そしておそるおそるお腹の辺りをまさぐってみて、もう汚れていないかどうか確かめてみる。一度水を浴びたから、ボクのお腹はたしかにきれいになっているはずだけど、ボクはなかなか確信を持てないままだ。結局、不安になって、念のためともう一度川に入って、より入念に洗う。ボクはボクの気が済むまで、川で体を洗っていた。
 とはいえ、あまりこんなことをしてまた体調を崩してもいけなかった。この間も雨水にしばらく打たれてから、しばらく調子が優れないということがあって、オンやペラップさんにはひどく心配をかけてしまった。ボクは体があまりに冷えすぎると、体調が悪くなったり、動くことができなくなったりするようだ。しかも、ボクの場合は、特殊な体質をしているのか、ちょっとした水を浴びるだけでも一気に体温が下がってしまう。だから普段は、こんなに長い時間、水中にいるなんてことはまずない。ボクが水に浸かり続けるのは、オンやペラップさんがそれと同じだけの時間、氷水に浸かっているようなものだ。
 体はきれいになった(はずだ)けれど、ボクはしばらくその場から動けなかった。しばらくは休んで体温を少しでも上げておかないと、オンのところまで戻れそうになさそうだった。ボクは翼で体を覆うようにして、その場でうずくまって休んでいた。時折、どうしても気になって股間の辺りをいじってしまう。特にあそこの周辺は入念に、一滴でも汚いのが残ってはいけなかったから。残ってはいないとは思うんだけれど・・・・・・
 すると急に、茂みから物音がした。オンかもしれない、あるいはペラップさん? でも、どちらでもない。茂みから出てきたのは、ボクの全く知らない相手だった。両手代わりの鎌の刃がボクの目に鋭く光る。黄緑と白の混じり合った色をしているそいつは、ボクの姿を認めるなり、鎌を下げ、腰を低くする警戒の姿勢を取った。ボクも思わず体を起こして、そいつと相対した。
 ボクとそいつはしばらくにらみ合っていた。ボクはなんとも言いようがなかった。こういうときに、いったいなんて言えばいいのだろう。初めてオンとはち合わせた時だって、ボクはなんとも言えなかった。一方相手も、ボクが何か言葉を発するのを待っているように見えた。一瞬の隙も見逃すまいと、目線はボク一点に注がれているみたいだった。ボクたちは、いつまでもにらみ合っていられたかもしれない。ボクも相手も、とにかく何も言わないで、少なくとも相手はボクをけん制していたのだ。
 ボクは、相手に声をかけて緊張を和らげたほうがいいと思った。そうでなければ、一晩中にらみ合いを続けかねなかったからだ。
「はじめまして、こんにちは。ボクはオンの縄張りで暮らすものです。あなたも、ここの縄張りの方でしたか?」
 できるだけ、にこやかな表情をして。
 沈黙だった。逆に、その場の空気がいっそう張り詰めたように感じられる。場違いなことを言ってしまったか、ボクはぞくぞくする。相手が黙ったまま、少しずつボクに近寄ってくる。警戒の姿勢を微塵も崩さないまま、鎌を前方に突き出しながら。
 いきなり、相手は鎌をボクの首のすぐそばに突き刺した。衝撃で、地面がえぐれ、土がボクの鼻先に飛び散った。相手の目は血走っていて、ボクはとてつもない冷酷さのようなものを察知し、気圧され物も言えなくなった。
「俺に生意気な口なんか利いちゃいけねえ。オンの縄張り?・・・・・・俺のこと何だと思ってやがるんだ」
 それは淡々とした口調だったけれど、煮えたぎる感情を極度に抑制していることを隠してもいなかった。
「てめえこそ、何だ。嘘をついてるな・・・・・・この森には似つかわしくないナリして?・・・・・・さては、流れ者か?・・・・・・いや、それなら俺が知らないはずが・・・・・・へっ!・・・・・・おい?・・・・・・何とか言ったらどうなんだ?・・・・・・」
 優しげな物言いとは対照的に、もう一方の鎌が勢いよく振り下ろされ、とうとうボクの首を挟み込むように突き刺した。ボクはただされるがままになるしかなかった。
「何とか言ったらどうだ? コハク君?・・・・・・俺はキッスイの森の民だがな、意外と博識でね。縄張りがどうとか言ってないで、コハクは研究所にでも帰ったらどうだ?」
 相手はこんな風に言い切った。でもコハク? 研究所? こいつはいったい何を言っているんだろう? でも反論することはできなかった。まだ体温が十分に上がりきっていなかった。逃げ出すことも、抗うこともできない。ただ、我慢しているしかない。
「何も言えないのか、コハク君?」
「ボクは・・・・・・」
 つい、そう答えてしまったところで、ボクは言葉を続けられなくなる。話そうとすると、途端に黙ってしまう。それはあまりに複雑すぎて、ボクはどこから話せばいいのかわからないのだ。要約もできない。それはボクの言葉の限界を越えていることに思えたのだ。さしあたって、ボクは嘘をつく。こいつの言われたことを、すべて認める。そうすると、なんだかボクは吹っ切れることができた。ボクに何の関わりもないことだったから、怖さを感じることはなかった。第一、そういう風に思い込んでいると、本当にそんな気がしてくるのだ。
「たしかに、ボクはケンキュージョの出身です。でもワケあってここにいますけど。あなたがいくら脅しつけようとしたって、ボクは森から離れるつもりはありません」
 ボクはきっと相手をにらみつけ、鼻から勢いよく空気を吸い込んだ。
「今度はボクの側から尋ねますよ・・・・・・あなたは誰なんですか? オンの縄張りに住んでいないのなら、いったいあなたは何者なんですか? ここに何しに来たんですか?」
 相手は、ボクの言い方がいかにも面白かったらしく、にやりとした。
「けっ、意地張ってやがる。まあいいさ、どうせ貴様が何だろうが、俺の知ったことか! 俺はストライクってもんだ、この一帯じゃそこそこ名が知れてるがな・・・・・・ま、縁ってやつだ、以後、お見知りおき!」
 と言うと、ボクの脇でうずくまって、悠々と池の水を飲み始めた。まるで、ボクに見せつけるように、呆れるくらいに長く飲んでいた。さっき、ボクが必死に体を洗っていた水を。それに、オンの縄張りであるはずの池の水を。
「お前がここで何をしてたかは、あえて聞かないでおいてやる」
 ちらりと顔をボクに向けて、からかうように言った。
 ボクはかっとする。そんなボクを横目に、まだストライクの奴は水を飲み続ける。ボクのことなどなにもかもよくわかっているかのように、たっぷりと余裕というものをを見せつけて。
 水辺から顔を上げると、奴は鎌の側面を器用に使って口をぬぐい、満足そうにため息をついた。もはやボクへの関心を失っているようだった。
「また会うかもな。言っておくが、俺はあの怪物のことを心底憎んでいてね。次会ったら首でも刈ってやるかってな・・・・・・」
 奴は楽しげに鎌で素振りをしながら、茂みの奥に消えていった。ボクはその後ろ姿を何も言えずに見送っているばかりなのだった。


 21

 オンは大樹を中心にして大きく旋回をしながら飛び続ける。頭の中では、今朝の光景が何度も勝手に再生される。飛び続ければ飛び続けるほど、オンは気持ちを抑えきれなくなっていく。しかし、飛び続けずにはいられなかった。
 彼が眠る少し前に、オンが与えた木の実には強い催眠効果があった。オンは募りに募った欲望を止めかねて、ついにそれを手を伸ばしてしまったのだ。
 もとは、夜行性であるオンの生活習慣を彼に慣れさせるために教えてもらったのを、わざわざ森の慣れない地域にまで翼を伸ばして取ってきたものだった。しかし、彼は殊勝にも、そんなものの助けを借りることなく、オンの生活に適応してしまったので、使い道がなくなり、倉庫の奥に押し込まれたままになっていたものだった。
 オンは彼を住みかに迎え入れてからも、どうして彼に対してだけは特別な振る舞いをしてしまうのだろうかわからずに困惑していた。ペラップの言うとおり、縄張りに住まわせるからには何らかの条件を彼に課すのが当然だった。しかし、そんなことすら忘れてしまうくらいだ。条件などどうでもよくて、ただ彼にずっとここにいてほしいと、オンはそんな気がしはじめていた。その感情の原因のありかをどうしても見つけ出せずに、しばらく経った。
 オンは横で眠る彼の寝顔、体を見ているとなんともいえない気持ちになるのを感じていた。体全体がお湯に浸かってもいないのに熱くなり、絶え間なく体を動かさないと耐えられなくなってくる。しかし、毎日、彼の寝姿、時に礼儀正しかったり、だらしなかったりする、を日課のように眺めて続けているうちに、オンは心のどこかで彼にむちゃくちゃしてやりたいという考えを一瞬起こしてしまった。それが昨日の朝のことだった。だからオンはいても立ってもいられず、洞窟を飛び出して気持ちがある程度落ち着くまで同じ所を何度も円を描くように滑空していたのだ。
 もちろん、そのときは馬鹿げた発想だとオン自身思っていた。突然思い浮かんだにせよ、それは確かに突飛で荒唐無稽な考えに思えた。この森の住民であり、縄張りの主であるオンにとっては突っ込むところが多すぎた。森に住む俺が外から来た得体の知れない奴とだって! 縄張りの主の俺がしもべとなんて! 雄の俺が! 雄のあいつと! オンが大樹の周りを滑空したのは、とにかくその考えを打ち消すためだった。そんなとんでもないことを冗談だとしても考えてしまった自分を徹底的に戒めるためだった。何もしないでいると、オンは目がくらくらしてしまいそうだった。
 しかし、コータスの野郎、あんなことしやがって! 彼に言葉巧みに吹き込んで、気絶して横になっているオンの体にチーゴを塗らせたことは、コータスの軽い気持ちに反して、致命的だった。腹にきつくしみる痛みに悶えたオンは、勢い余って彼を押し倒す形になったとき、目と鼻の先に、戸惑いを隠せない彼の怯えた表情を見、そして、重なり合った互いの局部の感触を意識して、必死に隠そうしていたものが露出しそうになった。もしコータスのからから笑う声を耳にしなかったならば、本能(とオンは呼ぼうとする)に身を委ねていたかもしれない、その意味ではkはオンにとって仇であり恩だった。
 オンはその場を飛び出し、誰の目にもつかない物陰でそれを目にした。そして無我夢中でした。頭の中では決して明白ではないが、それでも明白であるとしか思えない光景が浮かんでいた。それは、狂うくらいに高揚し混乱した感情が喚起する、汚くおぞましいイメージだった。要するに、オンは彼としていたのだ。草むらにまき散らされたものを眺めながら、オンはいま、自分が決定的に変わってしまったことを悟った。俺はあの瞬間に、何かの膜を蹴破った、しかも俺はもうそれ以前の場所には戻れなくなっちまってる。オンは悲観的になり、楽観的にもなった、そして開き直りさえした。こんなことに気づいたからといって、それを否定できる理由はオンにも、森の連中にもないはずだった。だって、これは本当のことだ、本当のことの前には、誰だって何も言えないだろ。
 その気になれば、オンはいつでも欲望を実行できる立場にある。一旦吹っ切れてしまえば、それは驚くくらい容易であるに違いない。けれど、オンは自分の手で彼をほんのわずかでも傷つけることはためらった。それは確かに簡単ではあるが、可能なのは一度きりだと、オンにも十分理解できた。こらえきれないほど激しい肉体的な欲望の一方で、精神的な願望もあることを、オンは感じていた。必ずしも、オンは彼を支配したいわけではない。野獣的な本能に加えて、彼を受け入れたい気持ち、彼に受け入れられたいという気持ち、むしろ支配されたいとすら思う気持ちもあった。そうした心の優しい溶け合いと、激しい体のぶつかり合いとは、相容れないようにも思えたが、オンは実際そのようなものを欲していたのだ。
 この理想が、オンをいっそう悶々とさせることになったのは言うまでもない。オンがどれだけ熱意を持っていたとしても、かなわないこともある。プテラは雄だった、それだけでもオンには苦痛だった。彼の声音からは、確かに自分への好意が伝わってはくる。しかしそれをどれだけ都合良く解釈したところで、単なる純粋無垢な好意に過ぎなかった。それ以上のニュアンスを彼の喉から発する音波から受け取ることはできなかった。もし、冗談のつもりを装って、彼に尋ねてみたらどうなるかな、とオンは考えてみたりもする。そうすればほのかにではあれ、知りたいことははっきりとするかもしれない。とはいえ、その先のことにはオンのおつむは働かない。簡単な話、二つに一つではある、だが彼の答えがいずれであろうと、それはオンにとって一つの終わりであることには違いなかった。一つの終わりの後には新たな始まりがあると、そう簡単に言うことなんてできるのか?・・・・・・破壊の後には再生がついて回るというのは、虫の良すぎる話なんじゃないのか?・・・・・・つまるところ、オンは怖かった。
 池で出会ったペラップから厳しい忠告を受けた後でも、オンは彼のことを思った。俺とあいつとの契約、オンは真剣に考えてみようとしたが、真っ先に浮かんできたのは自分でもくだらないと思う妄想だった。タブレットを淡々と操作しながらペラップがぶつぶつ言っていたことが、オンの耳に再生される気がする。
「前の持ち主はしょうもない変態だったのか・・・・・・履歴がこんなんばかりじゃ、やんなるかなあ・・・・・・時間を止める装置・・・・・・壁から突き出た尻・・・・・・都合のいい伝統行事や通過儀礼とか・・・・・・ガキの妄想をそのまま大人が受け売りするとは恥ずかしい限りだな・・・・・・」
 オンが考えてしまったことは、そのガキの妄想に違いなかった。考えた途端に、興奮よりも恥ずかしさがまさり、オンは自分を戒めた。そんなバカなことを想像してしまうくらい、俺はおかしくなったのか? ただあいつと出会って!・・・・・・またしても欲望を抑えきれなくなり、オンは草むらの中へ飛び込んで、それを吐き出さなくてはいけなかった。しょうもないと思いながらも、実はそうしたくてたまらないその妄想を種にして、なあ、話があったんだ・・・・・・ずっとしてなかった話で、いま、おまえにしなくちゃならない話がさ!・・・・・・そろそろ俺たちも考えなくちゃ・・・・・・するんだ俺と契約をするんだ・・・・・・ここに住むからには、おまえが俺に何かできることがないといけない、ペラップの奴が俺にしてくれるみたいな何かをさ・・・・・・森の掟だから・・・・・・?・・・・・・思い浮かばないなら俺が決めてやってもいいぞ・・・・・・こんなん、ってのは?・・・・・・妄想の中の彼は驚くほどに従順だ・・・・・・じゃ、ちょっとうつぶせになってさ・・・・・・そう・・・・・・そのままにして・・・・・・何でもないさ・・・・・・暴れちゃだめだ、されるがままに・・・・・・大丈夫、大丈夫・・・・・・そう、いい・・・・・・いいか、もっとここを見せてくれって・・・・・・突き出すんだ、俺に差し出すんだ・・・・・・いいぞ・・・・・・じゃ、ご褒美を食べさせてやるから・・・・・・喜ぶんだ・・・・・・喜べって、ちゃんと声あげて・・・・・・後は言葉にならない響きと余韻。
 オンが正気に返ったとき、まるで夢から覚めたようだった。オンの妄想は、創られた夢みたいだった。目の前はまっしろだった。


 22

 彼が帰ってくると、オンは地べたに木の実を並べて待っていた。火もちゃんと焚いてくれている。彼はまるでオンが自分の思いを密かに汲み取ってくれていたかのように感じて、嬉しいと思う。
「おはよう、かな」
 と、オンはこの場でもそう言っていいのか自信がなさそうに声をかける。
「起きたら、急におまえの姿がなかったからさ。ちょっと、さすがに、心配してたんだ」
「喉が渇いたから、池に水を飲みに行ってたよ」
 彼は嘘をついたが、一瞬の沈黙を挟んで、彼はあのことは彼に伝える。
「そこでストライクって奴に会ったよ。ボクにはなにがなんだかわからなかったけど、ただものじゃない感じだった。なんだか、オンのことをすごく悪く言ってるみたいだったけど・・・」
 彼が池にいるということは、元からオンはわかっていたが、ストライクの名が彼の口から告げられたのは意外だった。おそらく、自分が興奮に駆られて空へ飛び出した、その間に起こったことなのだろうとオンは思った。そうでなければ、ストライクの音波を聞き逃すわけはない。
 オンは深刻そうに考え込んだ。彼が目の前にいることも思わず忘れて、殺気だつ。洞窟が突如として凍り付いたようで、彼は火のそばにいるのに寒気を感じた。
「ふん、こんな時に出てきたか・・・・・・ったく嫌がらせにも程度ってあるぜ」
 思い出したように顔を上げると、硬直した彼の表情があった。目は点になり、口は厳重に閉じられ、翼は小さく折りたたまれていた。彼は思わず緊張がほぐれてしまい、大笑いした。
「悪い悪い、つい悪い顔しちまった。おまえがさっき会ったのは、だいぶ前に争ってた奴で。ひどくヤクザな奴だったけど、幸い俺が勝って、そいつをこの辺から追っ払ってやったんだよ」
 オンはストライクとの因縁を一通り彼に説明した。オンはここに縄張りを構えてから、少しずつその領域を広げていったわけだが、その最中にはもちろん争いもあった。ストライクとの争いはそのいくつもの争いのうちの一つに過ぎなかった。ただ、ストライクと争ったのは、先ほど彼とストライクが遭遇したあの池を巡ってだった。結果的に勝利したのはオンだった。そして自分の縄張りの中に貴重な水場を収めることができた。おかげで森での生活は一段とよくなったんだ。
「とにかく、おまえが何事もなくてよかったよ。俺も、こんなときにあいつが現れるとは思っていなかったからさ」
 彼は曖昧にうなずいた。池の水を自分の前でいかにも優雅に飲む、ストライクの意地の悪い目つきが脳裏に浮かんだ。思い返せば思い返すほどに、ストライクの姿は醜悪なものに思われてきた。水を飲むために池に口をつけるストライクの姿は、まるで水面に映った自分と口づけしているようだった。ストライクは彼を横目で見て、かすかに口を開け、赤く染まった舌をだらりと垂らす、舌から唾液と水の混じり合った液体が草むらに垂れるのまで、彼は思い出し、気味が悪くてならない。
「ただ、森の、それも俺の縄張りで暮らしている以上、そういうことも起きうるんだ。縄張りを荒らそうとする奴は必ず出てくるし」
 彼はまだ何かを聞きたげな様子をしていた。さっきのことは思いがけないことでもあったから、次から次へと心配事が増えていくように見えた。
「ま、こういうのは俺に任せとけって。おまえはあんまり心配しなくてもいいって」
 オンは話題をさっさと変えようと思った。彼はうなずくが、それはどことなくぎこちなかった。そこでオンはいきなり鼻先をぺたりと彼のに合わせ、好奇心いっぱいの瞳で彼をしげしげと見つめた。
 彼はどきりとする、思わず目を逸らしたくなったが、オンの瞳はきらきらと輝いていて、つい見つめ返さずにはいられないのだった。オンがさっき見せた獣のような獰猛な眼光は、全く消え失せていて、どうしてそんなことが可能なのだろうかと彼は不思議でたまらない。でももしかしたら、彼の瞳に光る純粋さと残酷さとは、表と裏というのではなく、全く同じものが、違う見え方をしているだけなのかもしれない、とも感じられた。守るべきものへの優しさと、排除するべきものへの冷淡さが、オンの心の中では何の矛盾もなく両立している・・・・・・
 そこで彼は、コータスに言われたことを思い出した。オンが火傷で気絶しているときに、ふと打ち明けられたことだ。確かにコータスさんはオンがこのあいだ来たときに変な奴がこの辺りに現れるようになったと言っていた。ただ、このあいだとはいつのことなのか。彼がオンと出会う以前のことになるのか。オンとコータスの話しぶりからして、それほど前のことではないらしい。果たして、それはどうなっているんだろうか? その変な奴と、あのストライクとは関係があるのだろうか? それが頭によぎると、彼はオンに尋ねずにはいられなくなった。
「どっちにしたって、すぐに慣れるだろうし!」
 快活にオンは言い切るのだった。その鼻先に押されて、彼はたまらずに尻餅をついてしまった。オンの前で、彼は大の字に倒れ込んで、見上げるとなおも目を輝かせるオンの表情を見て、なんだか恥ずかしくなった。彼は頭がまっしろになってしまう。
 しかしオンは彼の動揺もかまわないで、また顔を近づけて話をする。
「おまえには、そんなことよりも重要なことがあるんだよ。今まで話してこなかったけど、やっぱり話さないといけなくてさ・・・・・・」


 23

 昨朝のことがあってから、オンは何もかもをすっかり悟り、吹っ切れたようになっていた。もう彼に関して決めあぐねることもなかった。オンは物狂おしいほどに彼を意識していて、自分自身でさえそれを否定できなくなっている。そんなことに比べれば、今までオンが話しあぐねていたことなど、隠しておく必要などもうなかった。
 彼を眠り込ませた後で、丸まった彼の姿勢を、仰向けの大文字にするのは造作もなかった。深い眠りに落ち込んだ彼のそばで長い間、様子をうかがっている。長い間がどれほどかはわからない、大した時間ではなかったかもしれないが、オンの混乱した感情の高ぶりにあっては、一瞬ですら永遠に感じられるのだった。彼は日が沈む頃になるまで絶対に目覚めない、pなら科学的論理的にというように、オンはそれを確信していた。後は理性をさっさと捨てて、本能というものに従い、ひたすら無我夢中になるだけでよかった。それが簡単にはできず、ほんのかすかな万が一を想像して、オンは怖くなる。全てが豪快に音を立てて崩れていくイメージが、オンの心を締め付け、しかしそれでもこらえ切れそうもない欲望が、いっそうオンの心臓を握りしめた。
 オンはそれに踏み切ったというのではなかった。ただ何かとしか言い様のないものが、オンを彼の体に押し倒したのだ。とはいえ、それも自分のおぞましい意識のせいだと認めたくないがための方便かもしれなかった。ここまで来てなおも、オンは万が一の言い訳を必死にこしらえようとしていたのだ。すでにオンの口は彼の胸元に触れていた。彼の首から腹にかけての稜線は、まさになだらかな山のようであったが、直にその肉に触れてみると、思いのほか引き締まっている。指でがっしりと腹の肉を掴んでみようとしたら、肉は弾けるようにオンの爪を離れ、灰色の皮膚のほんの表面しかつまむことができなかった。
 オンはそっと彼の胸に爪を置いた。すると、にわかに背筋に寒気がし、誰かに見られているという気配が感じられて、動きを止めた。当然、それは気のせいではあった。とはいえ、オンが周囲の気配を感じ間違えることなどまずないことだ。なるべく気持ちを落ち着かせようと、感覚を研ぎ澄ませると、オンには彼の健やかな寝息しか聞こえてこない。その音が実際以上に、オンには大きく聞こえ、洞窟全体に、いやさらにはオンにとっての世界全体に、彼の寝息しか聞こえないような気までした。大丈夫だとオンは自分に言い聞かせた、頭のなかでそれを反復するうちに、それはただの音になり、意味すらも不明瞭になっていった。
 大丈夫だ、だいじょうぶだ、ダイジョウブダ、ダイジョウブダイジョウブダイジョウブダ・・・・・・残されていたのは理性の削りカスか。
 しばらく、表面に何かを描くように、彫琢するように、オンは彼の体の上をなぞった。それでも眠っている彼は、時々ため息のような寝息を吐くだけだった。その息のかすかな音を聞くごとに、オンは少しずつ大胆になっていった。いったいどれくらいのことまでなら、彼を起こさずに済むだろうかと試すように。案外、他の誰かの役に立つかもしれないだろ、とオンは都合のいいことを考えもする。オンは彼の胸元に触れた、彼のうっすらと浮かぶ鎖骨に触れた、彼の首に触れた、彼のがっちりとした顎に触れた、彼の頬に触れた、彼のツノに触れた、彼の鼻先に触れた。
 考えてみれば、オンは彼のことをほとんど何も知らない。自分から詳しく尋ねることもしなかったし、そもそも彼自身うまく説明できないようだったから、この頃では大して気にすることもなくなっていた。彼への密かな意識が先走ったせいで、そんなことは二の次三の次と、どんどん後回しにされていったのだ。
 オンは彼の腹へ目を向けた。目を凝らすと、彼の下腹部から尻尾の付け根にかけて、一本の線がうっすらと見えた。オンはとっさに目を逸らした、見つめすぎるといよいよ自分がおかしくなってしまう予感がして。その一方、直視せずとも、横目で、焦点を合わせないようにして、オンはそれを見た。その線の奥にあるものを、考えずにはいられなかった。
 おそるおそる顔をその辺りに近づけてみる。線の奥からのにおいはさすがに鼻についたが、むしろ彼がやはり俺と同じように一匹の雄なのだということが納得できて、妙に嬉しかった。それはまるで、オンと彼との関係を保証してくれる共通項に思えた。彼の脇腹をゆっくりと撫でながら、オンは口をそこに埋めようとして、ぎりぎりのところで思いとどまった。
 しようと思えば、俺はいま何でもできる。こいつに気づかれる心配はないはずだ。ないはずだ、確実に。ただ、それでも、ためらいが起こる。さっきまでの異常な興奮が、ありえないくらいに消え失せ、正気に返る。俺は、いったい何をしているんだという気持ちが、瞬く間に体中に充満した。
 オンは身をのけぞらせ、勢い余ってそのまま仰向けに倒れ込んでしまった。ごつごつした岩の天井がほのかに浮かび上がっている。オンは深呼吸を何度も繰り返してから、上体を起き上がらせ、恐る恐る彼の方に屈み込んだ。彼は何も知らずに、ぐっすり、健やかに眠っている。
 いま、目の前であのときと同じような姿勢で倒れている彼を見ながら、オンはそれを思い出していた。あんなまどろっこしいことをせずに、このままこいつの上に倒れかかってしまえばな、そうしたら何もかも。オンが独り言を始めた時、思わず例の妄想を語りかけてしまいそうになって、さすがにやめる。


 24

 少し迷いはしたが、何とか一人でそこにたどり着くことが出来た。空から見下ろすと一際くっきりと飛びでて見える山と、その鬱蒼とした森から立ち上がる白い煙が目印だ。ボクはこの間オンと一緒に行った麓の温泉地帯にやってきたのだった。
 それというのも、オンからこんなことを持ちかけられたからだった。縄張りに住まわせてもらっている者としての一応の約束、とオンは言っていた。ボクはこうしてオンのもとで暮らしているけれど、その代わりとしてオンに役立つ何かをしてあげなければいけない。そういう話だった。ボクもすぐに話は理解できた。ペラップさん含めて、オンの縄張りにいる人たちは、何かしらそういう役立つ何かを持っているということなのだ。
「いくらなんでもおまえだけが、ってわけにはいかないんだよなあ」
とオンはとても言いにくそうに話していて、今までそんなことにも思い及ばなかったボク自身が申し訳ないと思った。
 けれどオンにはすでに考えがあったらしく、話し合うまでもなく、ボクに使い走りになるように勧めた。つまり、オンの伝達係、オンが誰かに伝えたいこととか、渡したいものがあれば、夜にボクが代わりにそれを伝達しに行く、特にコータスさんのような縄張りから離れた場所への連絡を任されることになった。この広い森にはコータスさんだけでなくて、他にもオンの知り合いはいるみたいだ、でもそれは後々紹介するよ、ということだった。
 まず試しにと、その夜、一人でコータスさんのところへ挨拶しに行くことになった。行きがけにオンは手土産にと言って、木の実をいくつかペラップさんから貰っていた革袋に詰めてボクの首にかけ、じゃあよろしく! と肩をポンと叩いて送った。
 コータスさんのところまで大して時間はかからなかった。広い森といっても、飛ぶには案外狭かったりするみたいだ。見当をつけて麓に降りると、湯気を感じる方へと森に分け入って、温泉のあるところへ向かった。目的の場所に近づくほどに、湯気は濃くなり、霧のようにボクの視界を遮ってくる。このあいだオンと一緒に来た、そのままだ。
 ボクが最後の茂みを抜けた。湯気がだんだんと晴れて、辺りが明瞭に見えてくるようになって、ボクはあっと驚いてしまった。そこは、この間オンとやってきた温泉であるのは全然間違いじゃなかった。そんなことではなく、温泉に見慣れないヒトが入っていたのだ。それも、ボクやオンなんかよりもずっと大きい体つきをして、温泉を占領していた。
 黄緑色のとげとげしい背中を、ゆったりとひねって、そのひとはボクの方を見た。その目つきはボクをにらみつけているようでもあり、見つめているようでもある。とにかく、ボクが何者かを見定めるために、一旦判断を保留しているような、幅広い解釈のできる目だった。
 しばらく気まずい沈黙が、ボクとそのひとの間に流れる。ボクが何か言い出そうとして、何を言い出せばいいかわからずに黙っていると、しびれを切らして、向こうからボクに話しかけてきた。
「どした。入らんのか?」
 その口調は、思いがけず優しかった。
「何をびびってる。湯に浸かりに来たのだろ、ほら、来」
 と、そのひとは右腕でボクを招き入れるように合図する。
「えっと。すみません、温泉でなくて、コータスさんに用があって」
 とボクはようやく言った。相手はボクをしげしげと見つめる。
「あんた、どこの組か」
「組?」
「どいつの縄張りのもんか、って聞いてる」
「あっ・・・・・・オンです、オンのところ」
 それで事情を察したのか、そのひとは温泉に浸かったまま声を張り上げて、コータスさんのことを呼んだ。叫ぶというよりも、低く吠えるような感じだった。
 まもなく、茂みからコータスさんが首だけを覗かせた。首をぐいと伸ばし、温泉につかるそのひととボクを交互に見やって、意外そうな顔をした。
「おっと。一人でご来場とは、ご傷心かな?」
 コータスさんは、相変わらずちょっぴり意地が悪い。ボクは恥ずかしげに反論した。


 25

 ボクはこの2人としばらく話をすることになった。そしてボクがずっとそのひととしか言い様のなかったそのひとこそ、この山の主のバンギラスさんに他ならないということをコータスさんから教えられる。ということは、コータスさんはバンギラスさんの縄張りの住民で、やはり契約をしていたのだった。コータスさんは山の温泉を管理することで、バンギラスさんに守られている、ってこと。
 バンギラスさんがあまりにもボクに勧め、コータスさんもそう促すから、ボクは温泉に浸かりながら会話に加わった。お湯の熱さ暖かさはボクの体に浸み、気持ちを穏やかにさせていた。ボクは、これからオンの縄張りとこことの連絡を受け持つことになったと伝える。
「用ありならば、コータスに伝えてやればいい。山の主とはいえ、大方のことはこいつに任せているのでな」
 バンギラスさんはボクが持ってきた木の実に次から次へと手をつける。
バンギラスの兄貴、オンの奴とは時間が合わないから。まったく夜行性てのはタチが悪いもんだねえ。ま、好きにすればいいさ」
 不敵な笑みをボクに向かって浮かべながら、なんだかボクの心を見透かしていそうな素振りだ。ボクはやはりコータスさんと話していると、落ち着かない、どこか安心できないところがある。わざとなのか、無邪気なのか、必要以上にボクのことをじろじろ見ているような気がするのだ。
 それはともかく、バンギラスさんは見た目は大きく、いかついけれど、物腰はとても親切なのだった。バンギラスさんはもう長い間、この山全体を自分の縄張りにしていた。その実力は森中に知れ渡っていて、そんなことを知りながら敢えて挑んでくるような相手もいないのだそうだ。この森の象徴ともいえる山の主であるということからなのか、いつしかバンギラスさんは森を束ねるリーダーのような存在とみんな思うようになっていった。たとえば、森のどこかでもめ事が起きて、当事者同士では収拾がつかなくなったときには、バンギラスさんのもとに来て仲裁を頼むということになっていた。別にバンギラスさん自身が決めたのではなく、みんながバンギラスさんのことを信頼してそうするようになったのだ。
「とはいえ、兄貴の裁定にゃ、俺からすれば言いたいことはそれこそ山ほどあるけれどね」
 とコータスさんが茶々を入れる。
「しかし、兄貴の言葉は森の連中にとっちゃ、魔法みたいなもんなんだね、これが・・・・・・バンギラスの兄貴の言葉は真実であり、法であり、掟であり、現実であり、正義である!・・・・・・それと同時に嘘であり、慣習であり、夢であり、不正、ってね。よしんば不平不満があろうとも、バンギラスの兄貴に相対しちゃあ、逆らう気も自ずと失せるというもので」
「客の前で軽口は慎め。冗談もいいが、誤解されるのも不本意だぞ」
 とバンギラスさんは戒めた。コータスさんはごまかすように声をあげて笑った。ボクは反応に困って、表情が出てこない。バンギラスさんはびっくりするくらい寛容だ。
「まあそれは置くにしても」
 バンギラスさんはボクをじっと見据えた。コータスさんとは違う意味で、バンギラスさんはボクのことが気になっているようだった。
「わしはあんたのことを知りたいと思う。どこから来たのか、どうしてオンのもとにいるのかと」
 ボクは不意を突かれて固まった。まるで石になってしまったように感じられる。
「いやいや、詰問するのではなく。ただの好奇心に過ぎぬよ」
 とバンギラスさんはボクを安心させようとする。
「不愉快な思いをされたら申し訳ない。しかし、プテラなどはなかなか珍しいからどうしても、わしはいらぬ邪推をしてしまってね」
「・・・・・・・・・・・・」
「まあ、これが一応の礼儀というものだからね」
 とコータスさんが口を挟む。
「実のところ、私も知っておきたいことだったし、これも一応の礼儀ってことでね」
 ボクは黙っている。というより、何と言えばいいかわからない。
「いや、わしは愚かなことを言ったものかな。あんただって、オンに信用されているからには立派な森の仲間だ。疑うなど論外だったか」
「いえ、そういう訳ではなくて」
 ボクはとっさに口に出す。バンギラスさんに謝らせてばかりいると、ボクの方が申し訳ない気がしてきたからだ。ボクはなんとか、ボクについて説明しようと試みた。
「もちろんボクはもとから森に住んでいたわけではありません。オンの縄張りに暮らすようになったのは、ボクがたまたまオンの縄張りに迷い込んでしまったことがきっかけといえばきっかけです。でも・・・・・・その前のことがどうしてもうまく説明できなくて」
「記憶喪失とな?」
「ちょっと都合のいい気もするけども」
 コータスさんは長い首をかしげる
「それとは違うんです。ボクはちゃんと記憶がある。ボクは空をずっと飛んでいて、やがてこの森までやってきた、それは確かなんです。ただ、なぜか、なぜだろう、なんだか森にやってくるまでのことが夢みたいに思えてくるんです。感覚としては確かに覚えているんですけど、なぜかボクの言葉ではうまく言えない、というか」
プテラというならば、たとえば研究所の出ということも考えられるが」
「でも、誰かに育てられたり、世話をされたという覚えは全然ないんです」
「そいつは随分奇妙な話だあ」
 コータスさんはいぶかしげにボクを見つめる。
「だとすれば、あんたはもとから野生ということになる。しかし、プテラの野生というのは、ありましたかね?」
「全くないということはないだろうが・・・・・・」
 バンギラスさんは腕を組むようにして、考え込んでいる。
「仮にプテラの野生がいたとすれば、この森にだっていくらかは住み着いてもおかしくないぞ、しかしそんな話も風聞も聞かぬ」
「研究所の出でもない、野生でもない、とすればいよいよ不可解なことになっちまう。まるで、突然この世に現れ出たみたいでね」
「おかしなことになるんですけど、なんだか本当にそんな気さえするんです」
 とボクは率直に言った。
「夢を見たら、空を飛んでいた、っていう感じで、ボクは空を飛んでいて、この森までやってきてしまったというか・・・・・・」
 バンギラスさんは肩をすくめた。
「湯の中で語ると、お互い話すこともうわごとのようになってしまうな。済まなかったね。わしとあんた、互いの秘密は尊重せねばならない」
バンギラスの兄貴はこう見えて虫が苦手でね」
 こら、とバンギラスさんがコータスさんを戒めるのを見ながら、ボクはまさにボク自身のことについて思いを巡らせていた。ボクが一番知っている、知っていなければならないことを、どうしてボクは知らないのだろう? そんなことってあり得るだろうか。ボクが辿ってきたはずの道のりが、なぜこうも都合良く消し去られているのだろう。ボクはもう幼くはなかった、だったらボクにも幼い頃があり、それに伴う記憶というのがあるはずなのに。何もない。わからない。思い出せない、いや、思い出すためにはボクがかつてそこにいたという感覚が残っていなければならないのにそれもない。ボクは気がついたら、森の上空を飛んでいて、そしてひどくお腹を空かせていた。それより前のことは一切、存在しなかったかのようだ。考えるうちに、ボクはだんだん気味が悪くなってきた。ボクはボクでなく、ボクの上にいる誰か、何かに操られているだけなのではないか、なんてことを考えてしまって。
 そしてボクはのぼせてしまった。しばらく、涼しいところに身を横たえていなくてはいけなかった。二人とも、こういうときにはしっかりと気を配ってくれるからそれは頼もしくはあった。ぼんやりとする中で、誰かの声が聞こえたような。バンギラスさんとも、コータスさんとも違っているような気がした・・・・・・強いて言えばボクの声だったのか。呟いてたんだろうか、知らぬ間に、うわごとでも?・・・・・・


 26

 彼が出かけている間に、オンは縄張りの池を訪れていた。幾度とない争いの末に勝ち取った場所ということもあって、ここはオンには特別なところだ。ただ単に水を飲んだり、泳ぎに来たりする場所ではない。オンは時々ここへやってきては、水辺に佇み、そのときの激しい戦いのことを思い返すことにしていた。すると、この縄張り一帯を牛耳る主として、思いを新たにすることができるような気がする。
 とはいえ、今回ここへ来たのにはまた別の目的があった。オンは池の周りの草むらを入念に調べ、あのストライクが再び現れた痕跡がないかどうかを確かめようとした。彼がストライクとまさにこの場所で遭遇してから、何日か経っていた。その間にオンと彼は、水を飲みに行ったり、あるいは少し水浴びをするために何度か池にやってきたが、ストライクと出会うことはなかった。縄張りの住民たちにも一通りストライクのことを尋ねてみたが、一人として姿を見たものはいないということだった。しかし、オンは直感から、ストライクがあれからまたこの辺りにやって来たのではないかと推理していた。
 実は、オンが彼と出会う少し前に、まさしくこの水辺で、ストライクと遭遇していた。
 そのとき、朝方だったと思うが、どうにも寝付くことができなかったオンは池を訪れ、喉を潤し、ついでに水を浴び、その広い池を眺めながら思いにふけっているところだった。茂みからいきなりストライクが現れたので、オンは腰を低くして臨戦態勢をとった。そこまで本気になって、敵と対峙するのはオンとはいえ、久しぶりのことで、胸の辺りがとても高鳴った。だが、ストライクはオンに襲いかかろうとするでもなく、その鎌で威嚇するでもなく、ゆっくりとした歩調でオンの方へ近づいてきた。ストライクの歩みは異常なくらい緩慢にオンには思えた。ストライクはその合間、敵に対する静かな憎しみをたたえた瞳で、しっかりとオンを見据えていた。数歩ほどの距離を置いて、ストライクは立ち止まった。二人はにらみ合ったまま、しばらく動かないでいた。風の音がよく聞こえた、池の水のさざめく音、草がこすれ合う音、鳥の鳴き声、そうした雑音が混ざり合い、まるで得体の知れない音のように聞こえてくる。
「久々だな!」
 さも、旧友と再会したかのように気さくにストライクは話しかけてきた。
「何しに来た」
 きっと相手をにらみつけてオンは答えた。
「さては、とうとうひざまづく気にでもなったか?」
 俄に虹彩の収縮した瞳で、オンはストライクのことをねめ回した。オンの冷たい視線を浴びても、ストライクは一向に動じる気配もない。目線はしっかりとオンを見据え、なぜだか分からないが強い自信に満ちあふれているようだった。
「媚びへつらう! 冗談はよせ! 久々におまえの顔を見たくなっただけさ・・・・・・気分がよくてね!」
 口調も自信満々だった。そこには虚勢を張っているときに感じ取れるような、感情の震えというものはどこにもなかった。この自信はいったいどこからやってくるものなのか、オンにはよく分からない。といっても、さして関心も湧かなかった。こんな奴にかかずらわってること自体、果てしない時間の無駄だ。
「さぞ、喉でも渇いてるんだろ?」
 オンは憐れみを込めて言い放った。
「飲みたきゃ飲ませてやるよ。だが、お行儀良く俺に許可を求めてからな! そして飲んだら、しっかりとお礼の言葉も忘れずにな」
「あいにくだな! もう水にゃ困ってなんかいねえよ」
 ストライクは笑った。
「にしたって、懐かしいじゃねえか! この眺め! 昔は俺のもんだった! そんでいろいろゴタゴタあった! 今となっちゃあおまえのもん! 覚えてるか?・・・・・・俺たちが立ってるまさにここだぜ・・・・・・一騎打ちなんてしたなあ! おまえと俺と! 今となっちゃ懐かしくてたまらんさ・・・・・・」
「覚えてないな」
 オンは道化じみた相手の振る舞いを心底軽蔑していた。
「おまえが見かけ倒しの雑魚だってことくらいしか」
「そりゃそうだ! 勝てば官軍、負ければ賊軍・・・・・・おまえが俺のことを何と言おうが、それが戦いってもんだ! 別に今更、結果に不平不満垂らしに来たワケじゃない・・・・・・ただ、俺はすこぶる気分がいい!」
 こいつは頭がおかしくなったのか、とオンは考えた。ここから追い出され、一人無秩序な森を歩き回っているうちに、何か生き物として大事なものを落っことしてしまったのかな? いずれにしても、こんな奴は相手にしないに限る。
 オンは改めてストライクを冷酷に睨み、爪をぴんと垂直に立てて、威嚇の姿勢をとった。
「失せろ。まだぐだぐだ言ってんなら、殺すぞ」
 ストライクはそれを見せつけられても、怯え一つ見せなかった。むしろ、挑発するようににんまりとした。それは、もっとたくさんの言葉責めを懇願しているように見えなくもない。
「トウロウノオノ、なんて言葉聞かされてたが、まさにおまえみたいな奴を言うんだな。いい勉強になる」
「多少は、おまえの役に立って大変光栄!・・・・・・」
 ストライクの言いぶりは自虐なのか、本気で光栄に思っているのか、どこまでも底の読めない奴だった。
「へへっ。それだけでもここへ来た甲斐があるってもん!・・・・・・ちょっとは甲斐甲斐しいと思えたかな?」
「思うかよ」
 いい加減、オンはストライクの態度に苛々していた。そのうっとうしい喉を引き裂いてやりたいと思った。
「むしろ甲斐なしだろうが・・・・・・これ以上無駄口叩いたら、ぶちのめしてやるからな。とっとと出てけ。ここはもうおまえの場所じゃないんだ! 俺の場所だ! 悔しかったら奪い返せばいい!・・・・・・できるもんならな!」
 ストライクは軽快な足取りで茂みの近くへと後退していった。ここに来た一応の目的は達したかのようで、表情は晴れ晴れとしていた。そのやたらにうきうきとした感情が音波からも読み取れるのが、オンをひどく不快にさせた。
「奪い返すつもりなんて毛頭! ただ、挨拶に来ただけだ。それが礼儀ってやつだろ?・・・・・・俺とおまえの絆ってのは、決して、断ち切られたわけじゃない・・・・・・それを時々思い出させてやらないと思ったのさ、それに俺は今すごく気分がいい・・・・・・!」
 オンはストライクに向けて爆音を放った。ストライクはかき消えた。辺りを隈無く見回したが、どこにもいなかった。うまく逃げおおせたのか。溜まりに溜まった苛立ちを一気に、音波と共に吐き出せてすっきりしたが、それでもまだ胸の辺りにわだかまりが残った。ストライクはいつまでもオンにしつこく取り憑く亡霊のように感じた。
 後で、オンはその顛末をペラップに話した。ペラップもオンとは長い付き合いになるから、ストライクのことをよく覚えていた。しかし、ストライクが自分の縄張りを作っているというような噂はどこからも聞かない。もしそうだとしたら、ここの住人の誰かが小耳に挟んでいてもおかしくないからだ。ストライクが単独で、ある意味愉快犯的に、オンの縄張りに侵入しているということであれば、さしあたって心配しすぎることもない、とペラップは忠告した。
「でも」
 と、ペラップは付け加えた。
「警戒するに越したことはない。縄張りというのは、たった一人の部外者のせいで、崩れることも往々にしてあるからな」
 翌日、コータスのもとへ温泉に浸かりにいったときに、たまたまバンギラスもいたこともあったから、オンはそのことを相談していた。わけのわからない奴が執拗につきまとってきて困っている、といった風に、相談というよりかは、愚痴っぽく。
「そうかね」
 とコータスはこれといって感心はなさそうだった。
「そっちもまあ大変なこったね」
「池の辺りに見張りをつけておくべきだろう」
 バンギラスは親分らしく、助言をしてくれる。
「常に木を住みかをしている虫などいれば、なお心強い」
「できれば、屈強な炎持ちか鳥がいれば、俺の出る幕もないんだけどさ」
「主でいるためにはな、すべからく己の望みと現実をうまく折衝すべきなのだ、オンよ。まあ、背」
「中でも流そうかい! オン!」
 その朝は、一睡すら出来なかった。彼と遭遇したのは、それから日も経たなかった頃であり、火傷の痛みが引いておらず、ストライクの一件も重なって、ますますカリカリしていた時だったのだ。


 27

 池の周りをよく調べ回ってみると、不自然に切り刻まれたりなぎ払われたりした草むらや、幹に切り裂かれた跡のある木々があちらこちらから見つかった。ストライクの奴が気晴らしに鎌を振り回していったものだろうか。そうだとしたら、森に対してなんて振る舞いをする野郎なんだと、オンは不愉快にならずにはいられなかった。妙に池に強い執着を持っているくせに、その環境というものには大して関心を持っていないんだな。そんな奴が、この場所で縄張りなんて維持できるわけはないし、ましてやそれを奪い返すことなんて、ありそうもないことだった。オンはその痛々しく露出した木肌をいたわるようにさすった。
 切り裂かれた木々からは樹液が流れ出しているものもあった。ほとんどはもう固まってしまっていた中に、一本だけ、まだどろどろと流れているものが見つかる。その幹にもやはり、鎌で切り裂いたように見える細長い傷跡が残っていた。もしかしたら、俺がここに来るほんの少し前に、奴はまた来ていたのかもしれない。でも、一体何のためだ? 単に水を飲みに来たのか? あいつ、ここがもう自分のテリトリーだと思い込んでやがるのか? それとも、こんなみみっちいことして、自分の存在を俺たちに見せつけようって魂胆か。俺たちを怖がらせようとでもしてるのか。
 オンは、ストライクのあの時の恥知らずの表情を思い出し、おぞましいほどの嫌悪を覚えた。奴の姿を見かけたら、速攻でぶちのめしてやりたかった。あの時だって、勝負自体はあっけないものだった。闇雲に振り回されるだけの鎌など、何の脅威でもなかった。それを軽々と交わすだけの敏捷さがあり、相手の動きを思わず止めてしまえるほどの喉を持っていた、何より、全てを見通すことができてしまえるほどの耳のおかげで、戦う前から勝敗は決していると言ってもよかった。つまり、あれは抗争とか戦争とか勝負とか決闘とか、そんなものではとうていなかったというわけだ。
 樹液のまだ溢れるその木に、オンは触れた。いっそう強い思いが心に湧いてきた。何としてでも、こんなふざけた真似はやめさせないといけない。そんな気持ちで、樹液に濡れた木肌をさすり、そして指にまとわりついた樹液を丁寧に舐め取った。まあそんなに悪くはない味だ。そして、オンは彼のことを考えてしまう、ペラップが話していたことだが、彼の種族の大半はコハクというものから復元されて生まれたのだそうだ。そのコハクというのは、今オンが舐めているこの樹液が、気の遠くなるような時間を経て固まったものなんだという。それ以上詳しいことはオンにはよくわからない、けれど、それがあまりにたわいないことであっても、彼を生み出したかもしれない液体を自分が口にしていることに、変な連想をせずにはいられないのが、今のザマなのだった。
 この間のあの朝方の、目にしてしまった光景が、イヤでもオンの頭に浮かび上がってきた。それもまたどっと溢れでるかのように。
 オンは彼の寝姿をじっと眺め、ビクビクしながらその体を撫でていたのが、思いがけず、それが裂け目から現れ、まるで小動物が危険がないか周囲をきょろきょろと見回すかのようにしばらくは先端だけ覗かせていたが、やがて意を決して、俊敏に、しゅるしゅると突き上がっていったのを見たのだ。もちろん彼は眠り込んだままで、自分の体に起きた異変を知るべくもなかった。オンだけが、それをしげしげと眺めることができたのだ。突飛な思いつきなのか、オンはそれをあたかも自分のものであるかのように扱ってみたくなった。咥えてみたいとすら思った。その上、縄張りの主としてこんなにもおかしなことはなかったが、それに支配されてみたい、支配してほしいという気持ちまで起こった。
 オンは混乱していた。キーの実を食べれば回復するのか、と目の前を凝視しながら考えたが、答えはでなかった、でるわけもなかった、そして実際出なかった。オンがあまりの興奮で立ちすくんでしまっているうちに、彼が夢精したからだ。彼の精液はマグマのように、頂点からゆったりと流れ出し、次第に彼の下腹部へと広がっていった。なかなかの量だった。裂け目の中へと流れ落ちたものも、そのうち溢れだし、裂け目の線に沿って、彼の尻尾の付け根へと溜まり込んでいく。そこから彼の穴もよく見える。そこにも収まりきらなければ、尻尾の周囲を回り込むようにつたい、やがて下側で一つに合流し、やむを得ずに床へと滴るのだった。噴出の最中、彼の体は無意識にピクピクと動いていた。それでも彼の表情はあくまでも眠りを保ったままでいる。この上下のギャップを目の当たりにするのは、やましい喜びだった。俺は笑っているのか、苦笑いしてるのか、にやけているのか、判断することができなかった。
 彼がそのとき、あっ、と声をあげた。オンは目を見張らせた。彼は目覚めなかった。それは喘ぎ声と寝言が入り交じったような声だった。いったい、彼は眠りながら何を感じているのだろうと、オンはそれすらも知りたいと思ってしまう。爪で掴むと、精液はぐにょぐにょとしていた。ゆっくりと爪を離すと、どこまでも糸を引いた。
 オンはそれを口にした、唾液を舐め取るように、ごく自然に。しまった、と思ったときにはもう遅かった。うまいというわけではなかったが、悪い味ではない。


 28

 さっきから、ずっと後ろの方から誰かの気配を感じる。たぶん、木の葉に隠れて、こちらをじっと観察しているはずだ。少なくともストライクではないが、体格はそれなりに大きい、俺と同じくらいかもしれない。ただ、そいつの音波からは敵意のようなものは全然感じられない。その代わりに、怯えとか、羨み、臆病さといった感情があるみたいだ。それは、オンが樹液を口にしたときにいっそう高まった。とてもわかりやすい感情だった。これだと、隠れていても、尻を突き出して聞いているのと同じだ! ここから考えられることといえば、一つしかない。
 オンはいきなり、問題の木めがけて爆音波を放った。木の葉は激しく揺さぶられ、辺り一面に舞い散ると同時に、不釣り合いに大きな衝撃音と、間の抜けた叫び声がした。オンの足下には、一匹のヘラクロスが倒れていた。ちょっとばかり、地面にめり込んでいた。
 間髪言わず、オンは足でそいつをひっくり返した。何が起きたのかをまだよく理解していないようで、目の焦点は合っていなかった。オンの姿は、まだこいつには輪郭のない影のように見えていることだろう。オンは黙って、このヘラクロスが気を取り戻すのを待っていた。
 ヘラクロスはオンを認めると、あたふたしだした。立ち上がろうとしたが、腰が抜けていた。手を使おうとしたが、短すぎた。叫ぼうにも、声が裏返りすぎて、かすれてしか聞こえなかった。オンにいぶかしげに睨まれながら、ヘラクロスは必死に弁明しようとしていた。
「悪いことはしてないんです、悪いことはしてないんです!」
 とかろうじて言ったヘラクロスの声は、どもり、震え、かすれていた。
「僕は別に悪いことは何も! 何も! 悪い事なんて! そんな! ひどい! こんなこと! 僕は、ただ!・・・・・・悪意なんて! おぞましくて! 本能が、で、に、の!・・・・・・」
 これでは埒が明かなかった。喉が渇いたので、ヘラクロスが落ち着きを取り戻すまでの間に、池の水を飲んでおくことにした。たぶん、悪い奴ではないのだろうが、この辺りでは見かけたことがないし、まずは事情を聞いてみないと始まらない。それだって、聞かなくてもわかることでもあったのだが。ヘラクロスはオンがそばを離れたことに気づいているのかいないのか、未だにうわごとを並べ続けている。何かを言おうとしていて、何も言っていない。
 池に口をつけると、またもや怪しい想像力が働いて、ここに薄められているだろう彼の汗、精液のことを意識せずにはいられない。あるかないかの、とても微少なものだろうが、この水の中にそれらが紛れ込んでいるかも知れないと考えるだけで、気持ちが高まってきた・・・とはいえ、ヘラクロスの耳障りな金切り声のせいで、オンは瞬時に妄想から引き離された。いやむしろ、そのおかげで、と言った方がいいか。今はそんな甘ったるい気分に浸っている場合じゃなかった。仕事中ではあるのだ。仕事中にそんなことをしていると、危うい。
 少し時間を置いたこともあってか、ヘラクロスの言葉はさっきよりはだいぶ秩序を取り戻しているように聞こえた。それにしても、このヘラクロスのびびり様はある意味で天才的だった。雌にもこんなやつはいないと、オンですら確信できたくらいだ。
「話を聞いてください! 話を! 僕の! ひっ! 止めてください! 殺すのだけは勘弁してください!」
 ヘラクロスは別に翼を振り上げられてもいないのに、両腕で顔を守る姿勢をとった。
「いいから、まず話を聞かせてくれよ」
 オンは呆れて、普段のように強硬な態度はとらなかった。
「さっきいきなり脅かしたのは悪かったよ。おまえがちゃんと事情を話してくれれば、それでいいんだよ」
 それでもヘラクロスはなかなか平静になってくれなかった。言い訳を始めた瞬間に、オンに殺されるものと思い込んでしまっているらしい。オンが何か言った途端に、止めてください、助けてください、殺さないでください! と叫ぶのだ。
「わかったわかった、だからまずは落ち着いて話をしてくれって」
「いやだ! 僕は何も悪い事なんて! ひどいや! 本当に、本当に、助けて!」
 こんなやりとりをいつまでも二人は繰り返していた。あげくにはオンの方まで声がかすれてしまった。ヘラクロスが声を張り上げるせいで、オンも声を張らなければ相手に聞こえそうになかったのだ。とうとう、オンが先に根負けしてしまって、このまま放って帰ってしまいたくなった。
 いつの間にか、二人の周りには森の住民たちが様子を窺いに集まり出した。ヘラクロスの声はこの辺りに響き渡っていたのだろう。ただならぬものを感じてか、単に面白そうだから見物にやってきただけなのか、みんな茂みのところから二人のいつまでも終わらないやりとりを観覧している。オンの呼びかけに、ヘラクロスが素っ頓狂な声を挙げるたびに、外野からは笑いが起こった。ヘラクロスを囃す声、野次る声、茶化す声、励ます声、時々はオンに同情する声があちこちに飛び交った。しまいには、彼らまで二人の会話にいちいち割り込むので、ワケがわからなくなった・・・・・・だから・・・・・・違う!・・・・・・お願いだから・・・・・・言えよおまえ!・・・・・・イチから・・・・・・僕は!・・・・・・僕は何だって!・・・・・・神様!・・・・・・落ち着けって・・・・・・なあ神様ってなんのことだ?・・・・・・いろいろでしょ・・・・・・まずはちゃんと・・・・・・あああ!・・・・・・やめろって・・・・・・なんだいあれは・・・・・・オンさんも大変・・・・・・落ち着け・・・・・・嫌だ!・・・・・・嫌だ!・・・・・・嫌しか言えんのかカブトムシ!・・・・・・誰か助けて!・・・・・・誰が助けるか!・・・・・・大丈夫だからさ・・・・・・頑張れええ!・・・・・・メチャクチャだ!・・・・・・賭けるか?・・・・・・殺すなんて馬鹿なこと・・・・・・うわあっ!・・・・・・いいぞ!・・・・・・もっと叫ぶんだ!・・・・・・うちはオンさんだと思う・・・・・・きゃっ!・・・・・・頼むから・・・・・・押すなって!・・・・・・違うね・・・・・・前にばっかりずるいずるい!・・・・・・僕も!・・・・・・私も・・・・・・怖い・・・・・・嘘だ・・・・・・違う・・・・・・止めろ!・・・・・・俺はただ・・・・・・俺にもその木の実くれよ!・・・・・・嫌だ!・・・・・・何で?・・・・・・ふざけんな!・・・・・・だから・・・・・・嫌だ!・・・・・・違うんだ・・・・・・イテっ!・・・・・・誰いまの?・・・・・・あいつだ!・・・・・・違う!・・・・・・僕は!・・・・・・何だと!・・・・・・頼むから・・・・・・おまえこそ!・・・・・・ねえ、彼のことどう思う?・・・・・・ううっ・・・・・・ぐえっ!・・・・・・まあまあかな・・・・・・頼むから・・・・・・キイーっ!・・・・・・うわーん!・・・・・・何も!・・・・・・全く!・・・・・・俺は・・・・・・勝負だ勝負!・・・・・・いけっ!・・・・・・ぴいっ!・・・・・・出たっ!・・・・・・あ、久しぶり!・・・・・・頼むから・・・・・・お母さん・・・・・・あっども・・・・・・お母さんどこ?・・・・・・泣かないで・・・・・・ほらそこだ!・・・・・・よくやった!・・・・・・死にたくない!・・・・・・もう少しだ!・・・・・・頼むから静かにしてくれえっ!
 オンは爆音を放ち、周りにいた全員がのけぞった。辺りは一瞬で静まりかえった。みんな呆然として、時間が止まったかのように、その瞬間にとっていた姿勢のまま静止した。おそらく、突然の災厄もこのように起こるのだろう。


 29

「やれやれ、やかましいと思ったらこの有様か」
 人混みをかき分けて現れたのはペラップだった。後ろにはピカチュウもついてきている。「いったい何をしていた?」
 住民たちはペラップに気づくと、みな一様にペラップに視線を移し、押し黙って、ペラップの歩く姿を見ていた。さっきとは打って変わって、こわごわとした表情だった。
 ペラップはオンとヘラクロスの前に進み出た。二人の顔を交互に見比べ、言いたいことは相当あるようだったが、深くため息をついてから、かなり感情を抑えながらこう言った。
「おまえに紹介したい者がいる、オン」
「ごめんなさい。本当はこんなはずじゃなかったんだけどなあ」
 ピカチュウは残念そうに肩を落としながら言った。
ヘラクロスさんは私の友達なんだ」
「えっ」
 オンは頭が真っ白になった。しばらく何の返事もできなかった。
「前に、ちゃんとおまえに伝えたはずだ。近いうちに、おまえのところに越してきたいものがいるから、相談に乗ってほしいとな。ヘラクロスという種族だということも確かに言った」
「げっ」
 それでオンは急速に記憶を取り戻したのだが、確かにペラップと会った時に、そんなことを聞かされていた。ピカチュウの友達だというヘラクロスという奴が、自分の縄張りで暮らしたいというから、話を聞いてやって欲しい、と。だが、今更思い出してもどうしようもない。
ヘラクロスさんは、とっても優しいの。でも、とっても臆病で怖がりだから、ちょっと脅かしちゃうと、すっごく混乱してこんな風になっちゃうんだ」
「へっ」
「ともかく、こんなところで話していてもしょうがない。一度、おまえの洞窟に戻ろう。その間に、彼も何とか落ち着くだろう。ピカチュウがいれば、もう大丈夫だ」
 ペラップは背を向けて、すたすたと歩いて行った。ピカチュウヘラクロスに大丈夫だからと声をかけながら随伴する。オンはまだ呆然とはしていたが、とりあえずみんなの後についていった。茂みを抜ける時、住民たちはじっとオンたちを見つめていたが、一匹お節介なコラッタがいて、オンの足下に近寄って、どんまい、と声をかけるのだった。池から離れていくにつれて、背後から少しずつ声が聞こえるようになってきた。がやがやと、賑やかそうな話し声だった。
 洞窟に来る頃には、ピカチュウの尽力もあって、ヘラクロスはすっかり正気を取り戻していた。こちらが恐縮するほどに丁寧な口ぶりで、先ほどの無礼をオンに謝罪した。謝るために謝るといった調子で、いくら謝っても足りないかのようだった。ようやく、4人とも洞窟に落ち着くと、ペラップが取り仕切る形で、話を始めた。
 さしあたって、ヘラクロスがこれまでの事情を語ることになった。ヘラクロスは、もとはいわゆる空白地帯で一人のんびりと暮らしていたものの、この頃は物騒になってきたから、どこかの縄張りに入りたいと思っていた。そこへ、友達だったピカチュウから、自分の住む縄張りなら安心だということを教えてもらったので、こうしてオンに会いに行くことになった。それではなぜ池の周りにいたのかについてはこう説明した。まずピカチュウのもとを尋ねようとしたときに、どこかから甘い蜜の香りが漂ってきて、ついそれに惹かれるようにあそこまで来てしまった。そうしたら、いきなりオンが現れたので、びっくりして木の上に隠れたのだ。
「まだ、話が決まったわけではなかったのに。僕が迂闊な余り、余計な迷惑をおかけしてしまって、オンさんには何と言えばいいのか・・・・・・」
 またヘラクロスが謝ろうとしたのを、3人して宥める。
「大丈夫、そんなことはもう気にしなくていいからさ」
 オンはもう何度この台詞を言ったかわからなかった。
「とにかく、早く本題に入ろう」
 話し合いが始まった。オンはヘラクロスにいくつかの質問をする。好きな木の実の味は何だとか、特技とか、住むとしたらどういう環境がいいのか、どういう暮らしをしたいのか。どれも無駄なことに聞こえるかも知れないが、こうした質問によって、ある程度は相手の性格や人となりを察するためだ。オンはヘラクロスの話に慎重に耳を傾け、その音波を注意深く分析していた。彼の言葉に嘘はないか、どれだけ誠実さがこもっているかをそこで見極めた。面接の結果、ヘラクロスは、見た目の通り、性格はやさしい、きわめて正直かつ誠実な人柄だとオンは判断した。
 それが決まったら、今度はヘラクロスがここで暮らす代わりに、何をしてもらうかという相談に移った。ヘラクロスは自分からこんな提案を持ちかけた。
「恐縮ではありますが、先ほどオンさんと出会ったあの池に住まわせてもらうわけにはいかないでしょうか? 蜜の香りに惹かれてしまったこともあります。でもそれを置いても、あの環境は僕にはとても心地いい。それに」
 と、オンの顔色を気にしながら、ちょっと言いよどんだ後で付け加えた。
「あそこは木といい草むらといい、なんだかひどく荒らされているようでした。もし侵入者がいるということであれば、僕のような者が近くにいれば、少しは被害を防ぐことができるのではないかと思います。あんな僕とはいえ、いざという時には戦うこともできます、見たことあるよね? ピカチュウ
「もちろん! あれはすごかったねー」
 ピカチュウはそのときの光景が目の前に映っているかのように、感激して答えた。ピカチュウペンドラーに襲われた時、ヘラクロスはたった一人でそいつを撃退したということだった。
「いかがでしょう?」
 それはもちろんオンにも大歓迎だった。木々の状態からして、ストライクのやつが頻繁に新入を繰り返していることは明らかだった。池の水は縄張りの生活にとって欠かせないものだし、そこが危険な場所になられると大問題だ。それに、オンはそこでやはり彼のことを思ってしまったわけだが、彼が一人で池を訪れることは少なくとも何度かはあるだろう。また奴と遭遇するようなことがあったら・・・・・・あらゆる意味で、ヘラクロスに池のそばに住んでもらうことに、利点はたくさんあった。bgからもらった助言も、オンの背中を押すのだった。
「わかった。じゃあ、ヘラクロスさんには池の周辺の見回りを頼みたい。そして時々、その様子についてこちらに報告してほしい。万が一、見慣れないものがいた場合は、状況に応じて対処してほしい。一人で危険な時には、木を揺らすなり、声を出すなりして、とにかく音を出して俺に伝えるようにお願いします。異常な音だと認識できれば、俺はすぐにでも駆けつけますから」
「交渉成立だ」
 ペラップはぴしゃりと翼を叩いた。
「やったー」
 ピカチュウは両手で万歳のポーズをした。
「じゃあ、さっそく、歓迎のごちそうしなきゃ」
「オン、仕事だ」
 ペラップはまるでリーダーであるかのようにオンに命令した。
「えっ」
「ここいらの木の実に詳しいのはおまえだろう。新鮮なのを集めてくるんだぞ。歓迎なんだからな。ぐずぐずするな。暗くなってしまう」
 オンはペラップの言葉に押し流されるようにして、ヘラクロス歓迎のための木の実をかき集めてくることになってしまった。ヘラクロスが僕も手伝いますよと言ってくれるが、ペラップがあれこれと理屈をつけて洞窟に引き留めた。ペラップの口調はオンに対して、なんだか妙にとげとげしかった。軽蔑のようなものすら感じ取ることができた。オンは心が冷え冷えとする思いでいた。
 出かけ際に、オンは洞窟の入り口でペラップに呼び止められた。振り向くと、神妙な面持ちでペラップは佇んでいた。
「後で話がある。歓迎が終わった後に、ここで話そう」
そして踵を返して、洞窟の闇に紛れて消えた。


 30

 のぼせていたせいで、ボクの予定が狂ってしまった。すっかり夜中になってしまった。バンギラスさんはボクが休む間に、山に帰ったそうだ。ボクのそばにはずっとコータスさんがいてくれた。どこからか持ってきた大きな葉っぱを咥えて、長くした首を上下に振って、ボクに涼しい空気を送っていた。ボクはだいぶそれで楽になってきた。立ち上がろうとすると、少し立ちくらみはしたけれど、我慢できない程ではない。
 コータスさんはボクに、もうしばらく休んでいったらどうかと勧めてくれたが、それも申し訳ないと思った。何より、ただでさえ帰りが遅くなりそうだから、オンたちはボクのことを今頃気にかけ始めているだろう。ボクはコータスさんにお礼を言い、それからバンギラスさんにも後でボクの感謝を伝えてくれるように頼んだ。そして、気持ちは急ぎで、オンたちのもとを目指して空に飛び立った。
 夜の風に浸っていると、冷たくてとても気持ちがいい。まるで水の中にいるみたいに感じられる。泳いだことはないけれど、きっと今のボクのこの爽やかな気分とおんなじなんだろうなと思える。ボクは急いではいたけれど、特に意味も無く速度を緩め、あるいはその場で立ち止まって、闇に覆われたこの森を遙か上空から眺めてみた。森はだんまりとしながら、でも何かを企んでいるように、こっそりとボクの様子を窺って、目を離すことがないようだ。見上げれば、月が輝いていた。まとっていた雲が過ぎ去ると、本当に皎々と、月は明瞭にボクの遙か上に際立った。振り返ると、山が首みたいに、少しでも高くいようとして必死になっていた。いったい、ここはどこだっただろう、とボクは考えそうになった。
 夜更け、この空にはボク以外誰もいない。この途方もなく続くように思える空が、まるでボク一人のものであるかのような錯覚を覚える。ここにはボクを脅かすものは何一つとしてない。ボクの下で蠢いている怪物も、ボクが空に君臨する限り、手出しすることなんてできないんだ。ボクは悠然と宙返りをしてみせた、見せつけるように。その永遠に続くんじゃないかと思えるくらいの一瞬、ボクの胴体は月に向かって堂々と突き出され、差し出され、このままあの光の方へと浮き上がっていくんじゃないか、とすら思った。
 ボクは何かを思い出せそうな気がした。それがボクの記憶なのか、それとも身体に刻み込まれた感覚なのか、わからない。けれど、空を飛んでいるときに感じた喜びと誇らしさには、かつてどこかで会ったような親しみと懐かしさがあるのだ。本当にそれはいつのことだったのだろう。ボクはまたしても自分の中をまさぐってみることになる。ボクは確かに忘れているが、でも何も忘れてはいない、と思う。どういうことなのだろう? ボクはいつの間にやら、ボクの望むと望まないとにかかわらず、ここへ投げ出されていたみたいだ。ボクは空を飛び、ひどく腹を空かせていた、それが始まりだ。それ以前は、あったにせよなかったにせよ、あってないようなものだった。
 そんなことがあり得ないことはよくわかっていた。でも、本当のことを知るにも、ボクはあまりにも今の暮らしに満足しきっている。それ以前のボクがどうだったかなんかで、ボクが思い悩む必要は何もなかった。ボクの過去は、それがちゃんとあったとして、ボクではない誰かのためのものだって思えた。何かがすっぽりと抜け落ちていることは、本当は気持ちの悪いことのはずなのに、ボクは何も感じない。それは空虚でも欠如でもない、充溢でも過剰でもなくて、つまるところ何でもなかったんだ。
 じゃあ、ボクは何を思い出しかけたのだろう? あるいは、そんな気がしたんだろう? 考え込みそうになるが、また頭が熱くなってしまってはせっかくの気分が台無しになってしまう。それに、どうせ答えも出ないような気がした。よし。ボクはもう少し、気の赴くままに遊泳していくことにした。大樹が次第に目の前に見え始めている。早く帰らなくちゃとは思うけれど、この空に漂っていたいとも思い、どっちつかずで、ボクはふらふらと飛び続けていた。
 ようやく、オンの住みかに戻ってきたときには、もう夜が明けかけていた。洞窟の奥で、オンは一人であぐらをかいて、何か考え事をしているようだった。ボクが声をかけると、その瞬間にボクが帰ってきたことに気づいたらしく、オンは変な声を出した。それだけ無我夢中になっていたみたいだ。ボクが首をかしげて、何事か尋ねても、オンははっきりとは答えてくれなかった。ボクの質問を打ち消すように、オンの方から、どうして帰りが遅くなったのか、何か変なことでもあったのか、と矢継ぎ早に問いを浴びせかけてきた。ボクはkさんの温泉であったことを一から話さないといけなかった。
 オンはそっかそっかとしきりにうなずいていたけれど、なんだか上の空に見えた。自分で聞いたのに、唐突に話題を変えて、飯でも食うか、それとももう寝るかと尋ねた。オンの前にはすでに木の実の用意が済んでいた。長い時間をかけて飛んでいたこともあって、確かにお腹は空いていた。
 さっき、ここで新しい住人の歓迎をしていたんだとオンは話した。すごく楽しかったという。ボクもいればもっとよかったのになあ、と言う。ただボクは、オンのどことなく憂鬱げな目が気になってしょうがないのだった。オンに尋ねると、疲れたんだ、と答えるばかりだった。
 食事の後、ボクは疲れがどっと出たのだろう、オンよりも先に寝藁に横になっていた。意識が遠のくまで、ボクは変な物思いに沈み込んでいた。ボクは何かの後にいて、何かの前にいるのだと。何かとは何だろう、それはボクからいったいどれくらい離れているのだろう、この時はいつまで続くものなのだろう・・・・・・


 31

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 32

 ヘラクロスの歓迎会がお開きになった後、オンが洞窟に出てくると、約束通り、ペラップが待っていた。相変わらずタブレットをいじくり回して、何かを調べているのか。それとも暇を潰していたのか。
「あの子、まだ帰ってこないんだな」
 何気なくペラップはつぶやいた。
「ああ、何してんだろうな、あいつ」
 そういえば、もうとっくに帰ってきてもいい頃だった。コータスのもとに挨拶に言ってくるだけなのだから、それほど時間がかかるわけもなかった。しかし、コータスのところだから無駄話に延々と付き合わされることもあり得る。オンもたびたびそれで長時間その場に引き留められたことがあったものだ。オンはあまり気にしすぎるのもいけないと思った。
「まあ、彼がいない方が話はしやすいな」
 ペラップは言った。彼、というペラップの言い方には、隠密ではあるが突き放したような響きがこもっている。ペラップは抑えて言っているつもりなのだろうが、オンにはいやでもそのニュアンスが伝わってきて、ぞっとさせられる。
 二人の間に、特に意味の無い沈黙が流れる。お互いに、相手の出方を窺うかのように、相手の目をじっと見つめている。
 ようやく、最初に口を出したのはオンの方だった。
「今日は悪かったな、手間かけさせて」
 ヘラクロスのことだった。ペラップを通して、一通りの事情はあらかじめ聞かされていたにもかかわらず、オンはすっかり忘れてしまっていた。そのおかげで、池でヘラクロスと思わず遭遇してしまったときに、あらぬ騒ぎへ繋がった。ペラップがやってこなければ、いつまで経っても埒が明かなかったのは間違いない。これはオンの失態だった。しかし、でも、だけど、オンの内心は未だにくすぶっていた。何せ、縄張りの住民たちの面前で、赤っ恥をかかせられることになったからだった。パニックに陥ったヘラクロスにおどおどするばかりのオンに対して、知的なタブレットを小脇に抱えながら、そつなくこの場を取り収めた姿は、オンよりもずっと主らしく見えたに違いない。
 あの後の住人たちのからかうような視線からして、自分の面目が丸つぶれになったように思え、オンはペラップに引け目を感じずにはいられないのだった。まだ主としては、たとえばバンギラスみたいな悠然さと威厳さにはほど遠いという自覚と反省はあるものの、縄張りの住民たちがそれなりには主として畏怖の念を抱いてくれるように振る舞おうと心がけてきたところなのである。その努力が、この一件で水の泡となりやしないか、オンは気が気でない。だから、オンのペラップへの感謝には、言葉とは裏腹に、本当はそんなこと認めたくないんだけどな、という僻みも混ざっていた。
「別に構わない。主を手助けするのも私の役目だろうから」
 ペラップは、ぴしゃりと言い返す。今回のような行いはペラップにとってはごく自然のことだから、とりたてて言うことなど何もないかのように。
 オンもそれ以上、何かを言い足すことはできそうもなかった。反論しようとすればするほど、自分の落ち度が露わになるだけだとわかっていた。
 二人はまたしばらく黙り込んだ。オンは何気なく空を見上げ、早く彼が帰ってくればいいのにと願った。空は晴れているのに、月は雲に隠れて霞んで見えた。月の輝きが気持ちよく見えるまでにはまだ時間がかかりそうだった。ペラップもつられるように月を見上げたが、特に何も感じなかった。
 そんなことよりも、大事なことがあった。オンもそれが何なのかはよく察していた。察していたからこそ、黙り込んでいたかったのだ。
 ペラップは、手慰みに音符の形をしたとさかをいじった。オンがぼんやりとした月を眺めたまま、口を開こうとしないのを見て、話を切り出す決心をした。
「せめて、話って何だ? と聞く素振りはしてもいいだろう?・・・・・・」
 不機嫌にペラップは言い放った。
「おまえが私の話を避けたがっていることはよくわかっているが。だからこそ、今、話さなければと思ったから話している」
 オンは曖昧に返事をする。上の空だった。
「オン、おまえは彼のこと何だと思っている?」
「そりゃ、仲間に決まってるじゃんか」
 オンは食い気味に答えた。
「仲間か、そうか、まあいいだろう。彼がここにやってきてしばらく経った。なるほど、この森では見慣れない種族ではあるが、彼がいい子だとは私も思うよ」
「何が言いたいんだよ?」
 オンは苛立った。ペラップがゆっくりと自分の弱みに踏み込もうとしているのが感じられ、本能的に、ペラップへの警戒心と敵愾心が湧き起こった。
「遠回しに言うなんて、おまえらしくないぜ」
「単刀直入に言ったら、余計いきり立つに決まっているだろ」
 ペラップは淡々と話した。
「私はこれでも、優しく、忠告しているんだ」
 オンは肩をすくめた。ため息が勝手に出てきた。体内で鬱憤が充満し、漏れ出していた。喉の辺りに言いしれない不快感がこみ上げてきた。吐き出せるものがないのに、吐き出したくてたまらなくなってきた。オンはすっかり、ペラップに対して下手になっていた。
「もちろん、彼を縄張りに住まわせることはおまえの裁量だ。ただ、いくつか忠告をしておきたいと思ったんだ。おまえはここの主として一人前になりたいと思っているのだろう? それならば、自分のことを少しでも真剣に省みるべきだ」
 だったら、さっきも俺の顔を立てるように振る舞ってくれればよかっただろ、とオンは言いそうになった。俺がど忘れしていたとか、わざわざ公衆の面前ではっきり言わなくてもよかっただろ? ペラップの行動の何もかもが、オンに対する悪意に満ちているようにすら感じた。オンはしきりに首周りの毛並みをかいた。
「まず、筋を通すならば、あの子がお前のところに住むべきではないな? あれからだいぶ日が経ったからには、必ずしも一緒に暮らす理由もないだろう?」
 オンはペラップからさっと目を逸らした。再び月を見上げると、未だに雲の中に霞んでいた。雲はその場で固まってしまったかのようであり、時間が止まってしまったのではないかと錯覚した。この息苦しい時が、永遠に終わらないような悪寒がする。
「でも、まだ時間が必要だろ。あいつは他の連中とは違うんだ、慣れる時間ってもんが・・・・・・」
 オンは平静を装っていた。それはごく当たり前のことだ、おかしいのはペラップの方なんじゃないかとほのめかそうとする。
「そうなのか?」
 ペラップは冷ややかに言い返した。容赦のない反応だった。オンは返す言葉に詰まってしまった。
「他の連中とは違う、と言ったな? ならば、なぜおまえは奴に尋ねようとしないんだ? おまえは一体どこから来た? おまえは何者なんだ? とな!」
「聞いただろ! あいつをここに引き取った時に!」
「あれを聞いたと言えるか!」
 苛立ちが次第に高まっていく。
「おまえは、あんな言い分を信じるような馬鹿だったのか? はっきり言って、奴の話はおかしなところばっかりだったじゃないか。まともじゃなかった」
「おまえの考え、尊重するけど」
 オンは虚勢を張った。
「ただ、最終的に判断を下すのは俺だ。それはお前も分かってるよな。そりゃ、あいつの話には曖昧なところがあったよ。ここに来る前に何をしていたのか、聞いてもさっぱり分からなかった。でも、間違いない、あいつには何の問題もないって、俺はそう思ったんだ」
「おまえ、仮に他の連中がそういうこと言ったとしても、同じことを言えるのか?」
「そう判断できれば、言えるに決まってるさ!」
 いい加減、ペラップに腹が立ってきた。
「その割に、さっきのヘラクロスの時は根掘り葉掘り聞いていたじゃないか? 本能で判断できるというなら、何もあんなに長ったらしく話なんかしなくてもよかったんじゃないかな?」
 オンは吐き出す代わりに、ぐっと唾を飲み込んだ。
「おまえは、あいつを信じられないんだな?」
「信じる信じないとは別だ、話を逸らすな。少なくとも、素性ははっきりさせなければいけないと思うだけだ」
「あいつには、伝達係をやらせることにしたんだ。だから、ここの一員として」
「そんなもの、必要あるのか?」
 ペラップはぴしゃりと言った。
「それが一体、何の役に立つ。第一、テリトリー同士の連絡など、既に適役がいるじゃないか」
 二人はにらみ合う。オンの耳はそばだち、瞳孔が縦に細まった。はっきりとした憎しみが、火のように一瞬灯って、消えた。それに対して、ペラップは憎悪でもなく軽蔑でもなく、ただ冷厳な視線を、オンに向けている。
「さては、あいつをどこかの回し者だと思ってるんだな? そう言いたかったら、はっきり言ったらどうなんだよ? なあ、そういうことなんだろ!」
「おまえはおかしくなっているぞ!」
 ペラップは怒鳴った。体格はオンの足下にも及ばないのに、声はひどくやかましかった。「何度も言っているはずだ! 縄張りをうまくまとめるには、主であるおまえが誠実でなければいけないんだとな! だが、なぜだか、おまえは奴だけを特別扱いする! そういうところから、縄張りの秩序は乱れていくと言いたいんだ私は! 経験があるからな!」
 ペラップは思わずむせかえった。柄にもなく叫びすぎたせいで、さすがに喉も涸れそうになっていた。オンは黙ってその姿を見ている。
「近々・・・・・・ここを狙ってくる奴がいると話したばかりだったな? 重大な時だ、念には念を入れた方がいいだろう?」
「そんな奴ら、屁でもないな!」
 オンはストライクのことを思い浮かべ、嘲りの笑みを浮かべた。
「とにかく俺は、あいつを信用してる!」
 オンはきっぱりと言っ切った。
「これにかけちゃ、おまえのそのタブレットなんかよりもな、俺の感覚の方がずっと正しいんだ!」
 ペラップが我が身の一部のように抱えているタブレットを、憎しみを込めてたたき割ってしまいたい衝動が心の奥底で起こった。そうすれば、ペラップは顔色を失うだろうか? 色とりどりの羽毛も、瞬く間に色あせてしまうのか? ただ、オンはその哀れな姿を想像してしまってから、はっと我に返るのだった。
 もはや、話は折り合いそうになかった。いつまでも同じことの繰り返しだった。
 ふと、空を見上げたら、雲は取り払われ、月が皎々と照っていた。綺麗だった。興奮した気持ちが多少なりとも和らいでくる。しかし、この口論のおかげで、お互いすぐには癒やしがたい痛手を被っていた。この気まずさをどう打ち破ればいいものか、二人とも全く分からなくなってしまっていた。
「もうよそう」
 そう言い出したのは意外にもペラップの方だった。
「そろそろあの子も帰ってくる頃だろう・・・・・・」
 オンはようやく張り詰めた体をほぐすことができた。すると、物思わし気にうつむくペラップに対して、にわかに情が湧いてくるのだった。冷静になれば、ペラップの言うことが正論であるのには違いなかった。オンもそれはよく理解している。けれど、合理的な理屈が通じないこともあるのだと、二人とも思い知らされることになった。
「しばらくは、お互い頭を冷やした方が良さそうだ」
 ペラップが弱々しくつぶやいた。
 オンも黙って同意した。
 こうして、仲間割れも仲直りもすることなく、二人は別れた。険悪な空気は依然として残っていたが、ペラップは帰り際に翌日の天気を知らせるのを忘れなかった。一日中快晴、降水確率0パーセント。けれど、それはペラップのさりげない当てこすりのようにも思えた。このあいだ説教された時のペラップの天気予報は微妙に外れていたことが、思い出された。
 彼が帰ってきたのはそれからまもなくのことだ。食事のために、オンは木の実を並べていた。例の実もこっそり一つ紛れ込ませている。彼は、自分を巡って何が起こっていたか全く知らない、まるで屈託のない柔和な面持ちをこちらへ向けた。オンは改めてどきりとさせられた。もはや、謎も含めた彼のすべてを、オンは愛するようになっていたのだ。