PKMN×PKMN小説を求めて(4/?)

 個人的な道楽で、自分が活動しているPKMN小説のうち、さらに細かな1ジャンルと思われる「PKMN×PKMN小説」の過去を、小論的に簡単に跡付けようとしているわけであるが、なぜ、そんなことする必要あるんですか? と言われた時のための口実も、この際、明確に決めておくことにした。
 カッコよく言えば、「twitter的刹那主義」に対するささやかなカウンター、である。
 1年twitter使ってみて、楽しいことはたくさんあれど、閉口させられるのが、その異常な「速さ」である。よくネットリテラシーの話で、情報の「量」が問題にされることは多い。大量に出回る情報を分類・精査し、正確な知識を得よう、フェイクには騙されるな、というアレである。にもかかわらず、世の中は相変わらずフェイクに振り回され続けている。なぜか、って言えばそこに「速さ」への問題意識が欠けているからだと個人的には思っている。
 膨大な量の情報が、凄まじいスピードでTLに飛んでくるのである。一つ一つの情報の真偽を判断することは簡単だ。ちょっとグーグルで調べればすぐにわかる案件も多い。しかし、その程度の情報でも1分に100件同時に来られたらどうだろうか。関心ない情報は無視するにしても、仕事が多忙で、いちいち調べるのもままならないとしたら?
 白状するが、リオオリンピックの時、吉田沙保里の中国での愛称が「絶望」だっていうデマ、見事に騙された。その程度だったら可愛いもんだろう、とは思うんだけど、それでも間違った情報を信じてしまったことには違いないから、なんかイヤだ。
 だが、そんなことをいちいち反省したりするまもなく、また新たな情報が目に入ってくるのである。そう、まるでミサイルのように。
 これはどでかい社会的な問題だと思うのだけど、ファンアートというミクロな領域ではいっそう深刻になる。PKMNに限ったって、毎秒ごとに誰かが何かのイラストを描いて、twitterに投稿している。人気絵師ともなれば、数分で1000近いRT・いいねがつくことさえある。ある時、TLに流れてきた某大手絵描きのブイズ絵をぼんやりと見ていたが、いいねのカウントが選挙の開票速報みたいに増えていって、スゲーとなる一方で、なんか複雑な気分にもなる。
 字書きは絵師と比べて伸びねえ、みたいなコンプレックスも少なからず含まれることは認める。でも、やっぱり感じるのは消費って一瞬だな、ってことである。これは多分絵師側だと気づきにくいかもしれない。でもいいねしてる側のTL見てみればすぐにわかるはずだ。とにかく、いいねが多いし、何より「速い」。
 いいねした人間のうち、そのイラストを1分も眺められたやつが、どれだけいるだろうか。10秒だって怪しいんじゃないか。かく言う自分もいいねすることあるけど、やっぱり消費してる感じがしてならなくて、押しにくいと思うことがある。気軽だけど、何かが違うような……? 
 とにかく、twitter的な「速さ」ってのは問題だらけのような気がしてならないのである。あそこには極端な話、「今」しかない。それも、火花のように弾けて、瞬く間に過去になってしまうような、虚ろな「今」だ。そこで、あらゆるコンテンツを消費して、すぐに忘れて、また同じようなものを消費して……みたいなのを延々と繰り返す。果たして、そんなところで何かが、持続しうるんだろうか?
 ということで思い立ったのが、「今」というのが「過去」の積み重ねであるという、極めて単純な真理を再確認することなのであった。今の2020年から遡り、「PKMN×PKMN」小説っていつから書かれていたのだろうと探ってみるわけである。
 2010年、2007年辺りまでは簡単に辿ることができた。しかしもっと調べていくうち、さらに2001年に書かれた「PKMN×PKMN」のSSを発見して、ちょっと舞い上がった。その上、もっと古いものが過去ログに眠っているかもしれない、という可能性も出てきたのである。字書きがてら、さらに探索してみたい所存である。
 それに最古のものでなくとも、昔のSS群に触れることで痛感させられたこともあったのだが、その辺りはまた別の時に書こう。