二次創作#とは、いったい

 エアプとか同人ゴロとか、二次創作界隈に身を置いていると時々そういう炎上話というのが持ち上がる。原作ミリしらなくせに、キャラの見た目だけでファンアート描くとか、そこはまだいいとしても本を出したりするとかで叩かれたりする。
 イライラすることはイライラするのである。二次創作の前提が原作への愛だと考えれば、そういう行為って原作の威を借りた売名に見えるから。とは言え、これはありふれた一般論で、わざわざブログに書き記すようなことでもない。それに、そういうので炎上するのは中堅どころの連中なわけで、同じようなことを大手がやってもあまり問題にされない。
 問題は逆である。じゃあ、二次創作をするためにはどれだけ原作をやり込めばいいのか。一周プレイして、内容もうろ覚えだけどキャラには偉く魅力を感じた程度のファンが二次創作してはいけないのか、という話である。
 自己弁護じみているのだが、自分は二次創作するなら原作を骨の髄までやりこむべきであるという考え方に対して、全面的には同意できない。まあ、根気も集中力もないエンジョイ勢的なプレイングしかできないから、というのもあるのだが。ものによるのかもしれないし、やり込むことで得られる視点を創作に還元できるのであれば、それでいい。愛があればこそやり込むことができるわけで、そういうのを否定するわけにもいかない。
 でも何だろう、原作へのアプローチの仕方って色々あるべきと思う。アプローチというか原作の「読み」みたいな、「歩き方」みたいなものは多様で、こう、開かれているべきなんだ、とか言ってみる。
 一つの視点に立つことは、当然別のある視点に立たないということであって、そうすることで何かがよりよく見える代わりに、何かが見えにくくなる、あるいは全く見えなくなる。どういう立場に立つかは自由だが、大切なのは、見えなくなるものに対する意識、なのじゃあないか。自分ができないことに対して後ろめたさを持っていること、ある種の憧憬を抱いていること。
 つまりは自分の殻に籠りすぎないこと、籠るにしてもちょっとくらいヒビは入れておくこと。原作へのアプローチが開かれているのと同じくらいに、自分自身も開かれてあること。
 ええと、何の話をしてたんだっけ。ああ、二次創作か。ま、要するにもっと「読め」っていう自戒です。アプローチだって、必要に応じて変えてもいい、それだけのことで。