転生人語みたいな

 何となく、不倫について考えてみる。何故かは問わないでほしい。
 「不倫は文化」というフレーズは、大昔に不倫報道で芸能記者に追いかけ回されていた石田純一が「文化や芸術といったものが不倫という恋愛から生まれることもある」と発言したのを多少脚色して要約したものであるが、文春砲以来、著名人の不倫報道が今やジャーナリズムの一ジャンルを形成しているのだから、その限りにおいて、この言い回しは正しい(その当時の石田純一の言動が正しいという意味ではない)。
 どうして人の不倫は世間の関心を惹くのだろうか、というと全ては「不倫は善か悪か」という問いに集約される。少なくとも不倫が善とされるならば、こんなに週刊誌やワイドショーで騒がれないだろう。ということは悪なのか。一面的に見れば、そうだ。例えば、不倫された側の相手の気持ちを斟酌すれば明らかに不倫は悪である。ましてや、その相手が子持ちだったりしたら? そりゃあ、悪である。
 これは具体的な実例から帰納した考え方だ。もちろんそれは一つの考えとして正しいが、それが全てではない、とも言える。そうした具体例を捨象して、「不倫そのもの」について考えてみよう。既に付き合っている相手がいるにもかかわらず、別の相手に惹かれてしまう、あまつさえつい手を出してしまう、この人間の情動そのものは否定できるだろうか。
 「汝姦淫する勿れ」と聖書が命じてからこの方、それを破ろうとしてきたものの一つが文学だった。近代文学の名作にやたらと姦淫=不倫を取り扱ったものが多いのも、宗教的道徳観、もっと言えば公権力へのカウンターだったとも言える。例えば19世紀のフランスで、田舎の人妻が不倫をして破滅する話である『ボヴァリー夫人』がなぜ危険思想扱いされたのかを考えてみるとなかなか面白かったりする。
 だから自分は誰かが不倫したと言っても、そのこと自体にはなんにも感じないのである、本当に。じゃあ、お前は不倫肯定派か、取り残された人の気持ちを考えろよ、と言われてもそれとこれとは別なのだ。それは、個々の事例に従って当事者同士で話し合いなり裁判で解決するべきだ。外野でいる限りは、自分がどうこう言う話でもないと思うからである。
 不倫に至る情動は、言い換えれば人の「業」である。この前提をひとまず肯定しないことには、たぶん表現は始まらないのだろう……それはそれとして、何だろう、1996年の石田純一と同じことを言ってしまうのは、なんか悔しいし哀しいね。何なんだ、一体。