雑記240303

先日のポケモンデイの発表について考えをまとめようとしたがうまくいかずに放置した。気が向けばまとめるかもしれないし、このまま忘れるかもしれない。

土曜は昼過ぎに外出し、いくつか回ろうと思っていた美術館やギャラリーを訪ねた。中目黒での「ウィム・ウェンダースの透明なまなざし」。最終日だけに小さなスペースに来客が押し寄せていた。ウェンダース自身が撮影した写真やアートグラフィックスの展示だった。90年代に放映されたウェンダースのドキュメンタリーも上映されていた。夢のイメージ——見えそうで見えない、わかりそうでわからない——が、そこでは展開されていた。あるいは、体験したことがないはずなのになぜか親しく、懐かしさが感じられるイメージの集積。

 

 

恵比寿に移動し、山種美術館の「Seed 山種美術館アワード2024」の入選・入賞者展を観る。どれも個性があって、ステレオタイプな「日本画」というイメージを刷新するような作品ばかりで楽しい。入賞者たちの経歴を見ると、殆どが大概別の公募で入選・入賞済みであったり個展の実績多数といった実力者ばかりだから当然のことではあるかもしれないが。

 

山種の館内とかこういう時くらいしか写真撮れないのでせっかくだから


第二展示室の所蔵品も満足して観た。速水御舟の《昆虫二題》をまた観れて嬉しい。《葉陰魔手》《粧蛾舞戯》という言葉はいつみても良い。小説の題に借りたいくらい。《葉陰魔手》の気の遠くなる程の微細に描かれた蜘蛛の巣、張り詰めた構図の中心にしかと存在感を漂わす一匹の蜘蛛、なんだかコレでアゲハントに恋するアリアドスという話の裏面を意趣返しに書いてやりたい気にさせられる。

時間潰す合間にコライドンの話を書き、更新する。

 

kino cinema いい映画館だった

 

新宿でウェンダースの『PERFECT DAYS』観る。鑑賞後の気分がすこぶる良い映画だった。基本的に同じような日々が続く内容なのに不思議と見飽きない。いくつか展覧会を巡った後だから前半は眠りこけるのではないかと思ったがそんなこともなかったのである。一見同じようにしか見えない日常を新鮮に生きる役所広司演じる平山という男は魅力的だった。生活の身振り一つ一つに確かな生きているという手応えがあり、「機械的」という言葉の対極にあるような姿だ。

深夜に帰宅し、pixivにコライドンの更新分あげる。前回からちょうど1年が経っていた。時が経つのは早いと言ってしまえばそれまで、それまで。

深酒をして朝までいたので、目覚ましなど当然効き目なく、午後3時前に起きる。日本橋三越にて手塚雄二展観る。天井絵は前々に見物していたが、展覧会の方は会期ギリギリまで足を運んでいなかったのを思い出して駆け込んだのである。院展の歴代の出品作が中心の展示で、色彩や技法の引き出しの多さは流石今の日本画壇の先頭にいる人の絵と感心した。典型的な日本画にいう日本的美というのは得てしてナショナリズムに接近してしまいがちであるが(そもそもその日本的美というのは極めて定義が曖昧ではないか。大江健三郎が「あいまいな日本の私」と言ったように)、この人の絵に描かれている美は、もっと大きな視野から捉えた美なのだと思われた。富士山、とかいうわかりやすいモチーフではなく、画家自ら見出した自然、生物の一瞬垣間見せる美しさという気がした。

 

《花護》結構好き

阿吽の龍、だそうである。英語にするとalpha dragon omega dragon、だとか

このまま帰ってジムとぼんやり考えていたがあっさりと撤回して、銀座を回る。蔦屋書店にていくつかの展示見物する。「ART NOW→FUTURE」展、顔ぶれを不思議に思って、とりあえず観てやろうという気で来た。Neuronoaの顔を塗りつぶしたいかにも現代的な肖像画の隣に中島健太の堅実な写実画が並ぶ光景などこれが最初で最後ではないか、と思う。それでもこういう並びで観ていると、中島健太の《匿名の地平線》という海景画も千住博の《waterfall》に張り合おうとしているのか、などと勝手な想像もされてくる。

 

こういう肖像画は現代の不穏な時代における不安定なアイデンティティを表象している……とは一般論である。君たちの考えは如何

なんか名前は知ってたが、こういう展示では初めて観た中島健

 

帰って、辛子明太子をつまみにしてミドリさんから貰った日本酒をこれにて飲み切る。ぐい呑みを思い切って買ってしまってから日本酒はすすむ、すすむ。
それで真夜中に唐揚げをつまみながらハイボールを追加する。とはいえ、寝遅刻が怖いので控えめにはしようと思う……